167.秋の日はすがすがしく
今日も、いつもと同じ日。でもそのことが、とっても嬉しくてありがたくて幸せ。
そんなことを思ってしまうくらいには、こないだの騒動は恐ろしかった。いつか必ず、ミモザは戻ってくる。それが分かっていても、辛かった。
窓辺の椅子に腰かけて、外を眺める。物思いにふける私の心を映しているかのように、黄色や赤の葉がはらはらと風に舞っている。
ああ、秋も深まってきたわね……。
「ジュリエッタ、ご飯できたよ」
「あっ、今行くわ!」
しんみりした空気を振り払って立ち上がり、彼のほうに歩いていく。浮かれた足取りで。今日のご飯、何かしら。
そうして食卓に向かうと、そこではミモザとマリンが取っ組み合っていた。マリンを取り押さえようとするミモザ、長い体をくねらせるようにしてその手を逃れるマリン。
「ごめん、お皿を運んじゃいたいから、少しだけマリンを抑えてて……」
ミモザがそう言っている間にも、マリンは食卓の上の皿に顔を突っ込んで何やら食べている。
「こらマリン、もう食事を始めるからつまみ食いは終わり、というかそれってもう、つまみ食いじゃなくて直食いだよね!? すっかり図々しくなっちゃって……」
ぼやくミモザの手から、マリンを受け取る。ぬるりぬるりと器用に逃げるので、一瞬たりとも気が抜けない。
「マリン、暴れないの。もうすぐ食べられるんだから……あら、これっておかゆ? にしてはちょっと違うような……」
捕れたての魚みたいに暴れているマリンをしっかりと抱っこしながら、お皿の中身に目をやる。
皿の中身は、押し麦と、干し肉と、刻んだ野菜をミルクで煮込んだもので……そこまでは普通なのだけれど、なんだか変わった香りがしていた。
そういえばさっきから、不思議な香りがしていたような。窓の外を眺めて物思いにふけるのに忙しくて、ぼんやりしていたけれど。
「うん。ほら、隣の国をふらふらしている時に色々見て回ってたって、そう言ってたよね。その時に食べたものを再現したんだ。面白そうだったから、香辛料を買ってきてたんだよ」
うきうきとそう言いながら、ミモザはみずみずしい果物が乗った皿を運んでくる。反対の手には、チーズの載った皿。
「このおかゆ、干した果物と柔らかいチーズと一緒に食べてたんだけど……さすがに同じものを用意するのは難しいから、ひとまずこれで間に合わせ」
「十分においしそうよ。ああ、お腹が空いてきたわ」
そうして、わくわくしながら席に着く。ようやく解放されたマリンは、自分の席に着く前にチーズをひとかけらくすねていった。まだまだ子供だからなのか、とにかくお腹が空くらしい。
「ふふ、いただきます。……匂いもだけど、味も不思議ね? ほんのり甘くて……お菓子みたい」
「うん、僕もそう思った。果物と一緒に食べると、さらにそんな感じ」
「本当ね。さらりと食べられるのに、栄養もありそう。香辛料、まだ残ってる? これ、また食べてみたいわ」
「あるいは、また隣の国に買いにいってもいいかも。あ、東の街まで行けば手に入るかもね。干した果実と柔らかいチーズとかも」
朝ご飯を食べながらミモザがそう言ったとたん、マリンがばっと顔を上げた。顔をおかゆでべちゃべちゃにしたまま、うううと低くうなり始めたのだ。
「『となりのくに、行きたくない。マリンいじめたやつ、そこにいる』だって」
「とことん嫌いになってしまったのねえ。あなたの故郷でもあるのに」
「『ふるさとじゃないもん! マリンのふるさと、パパとママがいるここ!』……嬉しくはあるけどね」
ミモザと顔を見合わせて、ちょっと考える。
遠い未来、伴侶を得てここを巣立ったマリンが故郷と呼ぶのは、この辺境の森だろう。でもマリンが生まれたという海のそばの岩場も、やはり彼女にとっては特別な場所なのだと思う。
ところがマリンは隣国で受けた仕打ちのせいで、隣国そのものを忌み嫌ってしまっている。気持ちは分からなくもないけれど、ちょっと寂しいとも思ってしまう。
「……ねえミモザ、後で食後の散歩にいかない? 三人一緒に」
「あそこに行くんだね。いいよ」
またがつがつとおかゆを食べ始めたマリン――空腹に負けてしまうらしく、まだスプーンの使い方を覚えようとしない、一応握ってはいるのだけれど――をちらりと見ながら、二人でこっそりとうなずいた。
「ほら、マリン。そこにお花を置いて、あいさつするのよ」
「はじめまして、マリンですって、そう心の中で言えばいいから」
私たちのそんな言葉に、マリンは首を思いっきりかしげた。右にぐりん、左にぐりん。
今私たちは、小さな石の墓標の前にいた。
辺境の森の中、ミモザの先代の竜が最期を迎えた場所に、ミモザと二人で作った墓標だ。『心優しき辺境の魔物、ここで愛した森に還る』、それが私たちの選んだ墓碑銘。
「『どうして、石にあいさつするの?』……そうだね、君にはおかしなことだと思えるかもしれないね」
ミモザがマリンの頭をなでながら、一つずつ説明している。
「ここはね、僕が生まれた場所なんだ。そして、僕の前の竜が死んだ場所」
それを聞いたマリンが、そろそろと顔を突き出して墓標の匂いをかいでいた。
「僕は前の竜から記憶を受け継いでいる。オオカミの姿で駆け回った日々も、まるで昨日のことのように思い出せるよ。マリンも、そうじゃないかな?」
……きゅう。
「ふふ、やっぱり。でも、君の前の竜も、もういない。隣国のあの海のそばで、終わりを迎えたから。……前の竜のこと、思い出したら寂しくならない?」
……きゅん。
マリンなりに思うところがあるのか、しょんぼりとうつむいて、小さくうなずいている。
「この石はね、お墓っていうんだ。いなくなってしまった存在を忘れないために、『その人はここにいたんだよ』っていう目印を作るんだ」
確かに、あの老いた竜はここにいた。優しくて、ちょっといたずらっぽい目をした、ミモザに似た竜が。
「お墓の前では、いなくなった存在と話せる。そうすることで、寂しさをちょっとだけ楽にすることができるんだ」
マリンがうつむいたまま、こちらににじり寄ってきた。そのまま、私の足首に巻き付いている。そっと抱え上げて、ぎゅっと抱きしめてやった。
「だからね、いつかマリンの前の竜のお墓も作りましょう。マリンの寂しい気持ちも、少しは楽になるでしょうし……それに私たちも、あなたの前の竜にあいさつがしたいのよ。この子のパパとママです、よろしくね、って」
「でも、焦らなくていいよ。あの場所は、僕が覚えているから。だからそのうち、マリンの決心がついたら……もう一度、あの国に行ってみよう」
「あなたは隣の国を嫌っているけれど、そうやって隣の国を拒み続けていたら、遠い未来に後悔することになるかもしれないって、私たちはそれが心配なのよ」
口々に説得すると、マリンはぴたりと動きを止めた。私の胸に顔をうずめたまま、きゅっ、と小さく鳴く。
「…………『わかった。マリン、そのうちおはか作りにいく。もっと、大きくなってから』。うん、それがいいよ」
ミモザが訳してくれた言葉にほっとしたのもつかの間。
「『ついでにあのわるい人たちぶちのめす』……って、駄目だよマリン、竜の姿でそんなことをしたら、目立つよ。面倒くさいことになるよ」
「というか『ぶちのめす』って、いつの間にそんな言葉覚えたのかしら……」
「マリン、それにぶちのめしたいのならもっともっと大きくなってからだよ。できれば、大人になってから……姿を変えられるようになってからのほうがいい。そのほうが、まだ目立たないから」
「ミモザ、何教えてるの……」
「大切だよ? 正体がばれないように、人目につかないように大暴れする方法を身につけるのって」
物騒なことをあれこれと教えているミモザと、一転して大はしゃぎしているマリン。私はそんな二人を見ながら、ただ苦笑していた。
そばの墓標に目をやると、あの大きな竜の目を思い出した。私を見ていた、優しい金色の目。たぶんあの竜は、今もミモザとマリンを見守ってくれているんだろうなと、ふとそう思った。
それから森の中で遊んで、小屋に戻ることにした。
「なんだか、私も里帰りしたくなっちゃったわ。王宮にいるみんなとは三号でお喋りできるようになったけれど、私の実家にいるエルマとは話せないし」
遊び疲れて眠っているマリンを抱っこしたまま、隣のミモザとお喋りする。
「一度、冬の頭にでもエルマのところを訪ねてみない? マリンがきてから、ずっと森の中にこもっているし」
「いいね、それ。……そういえばエルマ、竜を見たがってたよね。マリンを会わせたら喜ぶんじゃないかな」
「ものすごく喜びそう……マリン、ちっちゃくて可愛いし」
「だよね。とはいえ、マリンを連れて普通の旅はできないし……飛ぶ経路をしっかりと練って、透明化の魔法を活用して……」
「どうせ南に旅するのなら、王宮にも顔を出したいわね。あなたを追いかけるのに必死で、ろくにあいさつもできずに飛び出してきたから」
「それを言うなら、僕はアダン以外には何も言ってない……」
色々思い出して、気まずい空気が流れる。
「あ、そういえば。王都の森の小屋に荷物を置きっぱなしだよね。荷物を整理して、掃除しないと……」
「そうね、あっちの小屋もまた使うことになるかもしれないし」
そこまで言ったところで、ふと言葉が途切れる。
「……結局、またこの森の外に出ることになりそうだね」
「不思議よね。つい数年前までは、森の外に用事なんてなかったのに」
「長く生き続けているうちに、どんどん色々なものが変わっていく。そう考えると、面白いね」
「マリンも、これからどんどん変わっていく。せわしないけれど、これはこれで楽しいわ」
と、眠っていたマリンが目を閉じたまま短く鳴いた。
……んぴゅう。
「『マリンかわっても、ずっとパパとママのこども』だって。嬉しいな」
「ええ、ずっとあなたは私たちの子供よ。私よりずっとずっと大きくなっても、ね」
そうして、小屋に向かって歩き続けた。木の葉は散り始めていて、明るくさわやかな日差しがさんさんと降り注いでいた。
ここでいったん完結です。読んでいただいて、ありがとうございました。
またそのうち、趣向を変えた番外編なんかも書いてみたいな…と思っておりますので、よければまたお付き合いいただけると嬉しいです。
ちょっとコメディ寄りの新作、始めました。
下のリンクからどうぞ。