163.ミモザの一人旅
ミモザは、歩いていた。ざくざくと音を立てて。彼が足を下ろし、また上げるたびに、細かな砂がさらりと流れ、舞っていた。
「……バルガスから聞いてはいたけれど、思ってた以上にすごいなあ、ここ」
どちらを見ても砂しかないそんな風景の中を、彼はただ一人、まっすぐに歩き続けていた。
「暑いなあ……こんなに日差しが強いなんて、驚いた」
ここは隣国、国境近くの砂漠だ。このまま北に向かえば、神殿の町と呼ばれる場所にたどり着く。
「……はあ、ジュリエッタ……今、どうしてるかな……」
と、独り言をつぶやいていた彼の足取りが重くなっていく。
「ジュリエッタに悪気がないのは分かってる。ヴィットーリオたちのことを実の子供のように思っていたから、彼らの力になりたかった。そう思ってただけなんだって」
その足が、ついに止まった。ミモザはうつむいて、足元の砂を見つめている。
「分かってるけど……あなたの顔を見ていると、悲しみがこみ上げてくるんだ。どうして僕との約束を守ってくれなかったのって、そんな言葉が口をついて出そうになるんだ」
この場にいない伴侶に向かって呼びかけながら、ミモザがゆっくりと振り返る。
砂の上には、彼が残した足跡が続いていた。けれど彼の金色の目は、もっと遠く、遥かな向こうの王都を見ているようだった。
「だからつい、飛び出してきちゃったけど……」
力なく肩を落として、ミモザは小さくため息をついた。
「ちょっと自己嫌悪」
そうやってしばらくがっくりとうなだれていたが、やがて彼はまた顔を上げた。
「でも、出てきちゃったものは仕方がないし、気分を切りかえて、と……」
彼はまた、くるりと後ろを向いた。そちらには、まだ彼の足跡のついていない砂地がずっと向こうまで広がっている。
「広いなあ……どこまで続くんだろう、この砂」
竜の姿に戻り舞い上がれば、その答えはすぐに出る。けれど彼は口元に笑みを浮かべ、二本の足で歩き続けた。少しずつ、着実に。
それは、数日前の夜遅く。ミモザは王都の森の小屋を一人飛び出して、北に向かって飛び立った。
透明化の魔法で姿を消し悠々と飛んでいた彼の視界に、やがて東の街が見えてきた。彼はふと思いついて、東の街へと足を向けた。もちろん、人の姿で。
竜の姿であれば、それこそどこまでも飛んでいける。けれどミモザは、人の目線で隣国を見てみたいと、ふとそう思ったのだ。
だから彼は、東の街の知り合いであり、隣国に詳しいバルガスのところを訪ねた。彼は隣国とも取引しているから、隣国について多少は知っているはずだと、そう踏んだのだ。
そうして再会したバルガスは、自分の知っていることを快く教えてくれたのだった。
東の街から最寄りの神殿の町の間は、道なき荒野と砂漠ばかりだ。特に、砂漠を徒歩で進むのは少し厳しい。そう教えてもらったミモザは、涼しい顔で「うん、分かったよ」と答えた。
そうしてミモザは、東の街で旅装を整え、そのまま国境を越えたのだった。真昼に。たった一人で。徒歩で。
この時間帯は、旅人たちの姿はない。過酷な日差しと暑さを避けているのだ。しかしミモザは少々暑そうではあるものの、力強い足取りで進んでいた。
人の姿をしていても、彼の本性が竜であることに変わりはない。普通の人間よりも、ずっと頑強だ。
彼は未知の砂漠をたった一人で進むことに、少しも臆していなかった。むしろ、楽しんでいた。
「……いつか、二人で遊びにきた時のために、今のうちにしっかり予習しておこう……」
二人で同じ時間を歩むため、彼はジュリエッタに年に一度、竜の秘薬を与えている。冬のさなか、ちょうど一年が終わる頃に。
けれどそれまで、まだたっぷり二か月はある。それまで一人であちこちをさまよって、色んなものを見て気晴らしをして、頭を冷やそう。彼は小屋を飛び出してすぐに、そう決めていた。
しかし彼はことあるごとに、ジュリエッタのことを考えてしまっていた。
この砂だらけの場所に連れてきたらきっと彼女は驚くだろうな、とか、二人で遊ぶのにちょうどいい素敵な場所を探そう、とか、お土産は何にしようかな、とか。
彼は気づいていなかったが、彼の胸の中には寂しさが巣くっていたのだ。ジュリエッタに約束を破られたからではなく、今ジュリエッタが彼の隣にいないから。
人間よりも頑強であるとはいえ、暑さはあまり好きではないミモザ。そんな彼がわざわざ灼熱の砂漠を歩くことを決めたのは、おそらくそんな寂しさから目をそむけるためだったのだろう。
「暑いなあ……歩きにくいなあ」
そういった様々な事柄が、今のミモザの気を紛らわせてくれていた。
やがて彼は、神殿の街と呼ばれる場所にたどり着いた。やはり砂だらけの光景の中、たくさんの人と、そして馬もどきのような生き物がさかんに行きかっている。
ラクダと呼ばれるその生き物を連れずに一人で町に入ったミモザのことを、街の人たちは大いに心配していた。この砂漠を徒歩で突き進むなんて、きっと追いはぎか何かにあったに違いない、と。
旅慣れしているミモザは、小屋を飛び出してくる時も最低限のものしか持ち出していなかった。彼にとっては十分な装備だったのだが、街の人からすればあまりにも軽装に過ぎたのだ。
ともあれ、彼はここで砂漠の世界について、そして周囲の地理についての詳細な情報を得ることができたのだった。
神殿の街の北にある砂漠を越えると、冷涼な草原に出る。そこには移動しながら羊や牛などを飼っている民が暮らしている。
そして草原を西に向かうと、険しい岩ばかりの海岸があり、冷たい海の水が始終激しく打ち付けている。そこにはよそではあまり見られない、変わった姿の生き物が住んでいるのだとか。
「暑い砂漠の向こうが、寒い草原と海辺か……不思議だなあ」
感心しながら、ミモザは神殿の街をざっと歩いてみた。そうして次の日の朝、彼はまたす砂漠へと足を進めていった。北へ向かって。
「ここまでくればもう大丈夫かな?」
しばらく歩いたミモザが、くるりと回りながら辺りを見渡した。それからすっと、竜の姿に戻る。手早く荷物を回収し、飛び立った。
彼は自分の姿を透明化の魔法で隠せる。しかし砂の上に残る足跡までは隠せない。だから身を隠して竜の姿に戻ったなら、突然砂の表面がぼこんとめり込んでしまうのだ。不自然なこと極まりない。
「ジュリエッタに、飛行の魔法を教わったほうがいいのかなあ……」
独り言をぶつぶつつぶやきながら、ミモザはふわりと舞い上がった。そのまま、草原のあるほうへと飛んでいく。
あっという間に、彼は砂漠を抜けた。広い草原に白い点が散らばっている。羊の放牧だ。
興味を惹かれたミモザは、金色の大きな目を見張って草原の端に着地する。人間の姿に変わって服を着こむと、羊たちのいるほうに歩いていった。
それからミモザは、しばらく草原で遊んでいた。行き会った人々と、ささやかながらも交流を深め。初めて触れる文化に心躍らせ。雄大な、なじみのない風景にうっとりとため息をつき。
そうして草原を堪能した彼は、続いて草原の西にあるという海岸に足を運んでいた。
「うわあ、荒々しい波だなあ……ここで遊ぶの、僕でもちょっと尻込みするかも。ジュリエッタなら、近づこうともしないかもね」
苦笑しながら、そろそろと岸に近づいていくミモザ。その顔が、不意に険しく引き締められた。
「……この、匂い……竜の匂いが、二つ……?」
信じられないといった表情で、ミモザはくるりと方向を変えて走っていく。やがて彼は、何もない岩場に立ち尽くしていた。
「きっとここで、竜が死んで……新しい竜が、生まれた。それも、つい最近」
ほうとため息をついて、ミモザはすっとかがみ込む。地面に手を当てて、何か考え込んでいるようだった。
「子供の竜……その辺にいるのかな。ちょっと、会ってみたいな」
この世界には、複数の竜が暮らしている。けれどその竜たちは互いに離れたところで暮らしているから、顔を合わせることはめったにない。ミモザも、先代の竜の記憶からそのことを知っていた。
「長距離を移動するのって、渡り鳥か人間くらいだしね。普通の獣とつがいになったら、まずなわばりからは出ないし」
そんなことをつぶやきながら、ミモザは風の匂いをかいでいた。右を向いて、左を向いて。やがて、ふらりと歩き出す。
時折立ち止まって、匂いを確認して。そんなことを繰り返しながら、ミモザはどんどん歩いていった。南へ。
やがて、彼の行く手に砂漠が見えてきた。それでも彼は進み続けた。迷いのない足取りで、ひたすらに匂いを追いかけて。
砂の丘を越えた彼の目に、どことなく見覚えのある街の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。その街でこれから巻き起こる騒動を、当然ながら彼は知らなかった。