141.怪盗ジュリエッタ
その日の夜遅く。すっかり寝静まった街の一角。
黒い布で全身をすっぽり包み、忍び足で一人歩く。この格好自体はこの辺りではよく見られる服装だから、誰かに行き会ったとしても怪しまれることはない、はず。
あっ、あった。昼間のあの天幕。あそこが客を入れる一番大きな天幕で、その奥にいくつも天幕が連なっている。
一番奥の天幕は、たぶん座長の私室だ。だからあの子が囚われているのは、それ以外のどこかなのだけれど……。
仕方ない、少しずつ探っていくしかないか。天幕の一つに近づいて、まずは響く音の魔法を。
ごく小さな音を放ち、その反響をとらえることで見えない場所の状況を探るこの魔法は、細かいものを探すのにはあまり向いていない。
でも竜が入れられた檻なんて大きくて変わったものなら、この魔法でも見つけられるだろう。
「……人の気配がするわ……みんなで雑魚寝してるみたいね」
この天幕は違う。さらに隣、その隣と順に調べていく。
きゅい。
あれ、今声がしたような。そちらのほうに、そろそろと向かっていく。
一番端にある、古くて小さい天幕。鳴き声がしたのはたぶんここだ。
「もう一度、響く音の魔法を使って、と……」
きゅいきゅい。
戻ってきた反響音に混ざって、小さな小さな声がする。どうやらここで間違いないらしい。
今度は加工の魔法を使って、天幕に小さなのぞき窓を開ける。刃物を使うより簡単で、好きな形の穴を空けられるのだ。それに、布を切り裂く時の音もしないし。
そうして慎重に天幕の中をのぞくと、その真ん中にぽつんと檻が置かれているのが見えた。その中で、あの青い竜が寂しそうにこちらを見つめている。
「周囲に、人の気配はない、か……」
元からこういう扱いなのか、それとも一座の人間も一応竜の子のことを警戒しているのか、この天幕は人間がいる天幕からは思いっきり離れていた。ふふ、好都合。
もっとも竜の子が勝手に逃げないように、金属の太い鎖が檻に何重にも巻き付けられていた。その端を杭で地面に打ちつける念の入りようだ。
「でもこんなもので、私の行動を止められる訳ないじゃない」
にやりと笑って、胸を張る。
「待ってて、今助けるから」
要するに私は今、竜の子を盗み出そうとしているのだった。
もちろん、ただで盗んでいくつもりはない。ちゃんと対価は置いていく。
それに私は、大きくなった竜の子に一座の者が復讐されるおそれを取り除いてやってるのだ。だからその……後ろめたく思う必要はないのであって。
自分自身にそんな言い訳をしつつ、じっと街の外れで夜が更けるのを待ち、それからこうして動き出したのだった。
さすがにこんなことにバルガスを巻き込みたくなかったから、彼には先に東の街に戻ってもらおうと思っていた。
砂漠の旅の仕方も分かったし、私には魔法がある。ここから国境まで一人で竜の子を抱えて逃げるくらいなら、何とかなると思ったのだ。
けれど彼は「あんた一人をこの国に置いていったなんて知られたら、ミモザに怒られちまう」と言って、竜どろぼうの手伝いを申し出てきた。「相変わらずやることが豪快だな」とあきれていたけれど。
そんな訳でバルガスは今、街はずれでラクダと一緒に待ってくれている。私が首尾よく竜の子を盗み……救い出せたら、そのままラクダに乗って逃げる予定だ。
「さて、まずは天幕を……」
すっと手を動かし、人差し指で天幕をつうっとなでる。切れ味のいいナイフを使ったかのようにすっぱりと、天幕に裂け目が入った。これもまた、加工の魔法だ。
音を立てないように気をつけつつ、その切れ目から天幕の中に入る。すると、竜の子がこちらを見てきゅんきゅん泣き始めた。
「今助けてあげるから、しばらくは黙っていてちょうだい。ね?」
そう呼びかけると、竜の子はサンゴ色の目を真ん丸にした。それからちっちゃな手で口を押さえ、こくこくとうなずいている。……可愛い。
そろそろと手を伸ばし、檻と鎖に触れる。まるで夏場のバターのように、檻と鎖がゆっくりと形を変えていった。鉄格子と鎖をまとめてつかんで、ぐにゃりとひん曲げて、大きく穴を空けて。
「さあ、これで出られるでしょう?」
竜の子はぽかんとしたまま、おそるおそる檻の穴に近づいてきた。そうしてゆっくりと首を出し……次の瞬間、全身で私に抱き着いてきた。
きゅうん、きゅうん。小さな両手両足で私の腰にしがみついて、ぐりぐりと顔をすりつけている。甘えている時の猫みたいに。
かっ、可愛いっ……!! それになんか懐かしい、この感じ! ちっちゃい頃のミモザも、こんな感じだったわ!
……って、そうじゃなくて。感動に浸ってる暇なんて、少しもないんだった。
持ってきた革袋を、檻の中に置いていく。中身はたっぷりの金貨だ。宝石を置いていってもいいのだけれど、とびきり上質なものばかりだから、すぐに私が犯人だとばれかねない。
もっともこんなことをしようと考えるのが、そもそも私だけのような気がするけれど。ひとまず、それは置いておく。後でしらを切り通せればそれでいい。
「よし、じゃあ逃げるわよ。私にしっかりつかまっていてね?」
その言葉に応えるように、竜の子は背中をよじ登って、えりまきみたいにくるんと私の首に巻き付く。ミモザよりもちょっと細長い体型だから、そんな芸当もできるようだった。
忍び足で天幕を出て、切れ目をまた加工の魔法でつなぐ。あとは一目散に走って逃げるだけ……。
「おい、泥棒だ!」
わ、一座の人間に見つかった。あっちもかなりびっくりしているし、たぶん警備とかじゃなくて、たまたま通りがかったっぽい。ついてない。
「竜がいるぞ!? どうやって連れ出した!?」
さらに増えた。とにかく、逃げないと!
どうしよう、これ。バルガスと合流してラクダで逃げたほうがいいのか、彼を巻き込まないように一人で逃げたほうがいいのか。
ああああ、考えてる暇すらない! いったん追っ手をまかないと。建物が密集した、ごみごみした辺りに足を向ける。
狭い路地をくねくねと曲がり続けて、とにかく走って走って。竜の子がしっかりとしがみついてくれているおかげで走りやすかったのが、せめてもの救いだった。
「しまった、袋小路……」
土地勘がないせいで、行き止まりに飛び込んでしまった。前も両側も、二階建ての家に囲まれている。ここを登れるのって、軽業師くらいなものよね。
後ろのほうから、徐々に物音が近づいてくる。
「だったら、これしかないわよね!」
あわてず騒がず、飛行の魔法。横方向に動くのはうまくなったのだけれど、上に向かって飛ぶのはまだ苦手だったりする。けれどそれでも、周囲の家の屋根に上るには十分だ。
「こっちに行ったはずだ!」
「いや、ここにはいない!」
「じゃあ、どこに行ったんだ!?」
さっきまで私たちがいた袋小路に、そんな声が響く。やがて足音が遠ざかっていった。
「……ひとまず、危険は去ったわね……ちょっと、休憩しましょうか」
ため息をついて、屋根の真ん中らへんに腰を下ろす。この神殿の街には高い建物はないから、しばらくの間はここに身を隠しておけるだろう。
竜の子が首からするりと降りて、膝の上で丸くなる。くるるきゅるるとご機嫌な喉声が聞こえてくる。
「……あなた、一人この砂漠で生きていける?」
ふと問いかけたら、竜の子がばっと顔を上げた。それからぶんぶんとものすごい勢いで、首を横に振っている。
「だったらやっぱり、国境を越えるまで連れていくしかなさそうね……はあ、でもここからどうしよう……」
まずは、街を出なくては。たぶん、このまま屋根伝いに移動するほうが見つかりにくいだろう。でも、途中どうしても何回か道を渡らないといけない。
そこを見つかったらおしまいだ。私の飛行の魔法では長時間飛べないし、いずれどこかの屋根の上に追いつめられかねない。
「こんなことになるのなら、透明化の魔法も覚えておくんだったわ……」
「いいんだよ。それは僕の役目なんだから」
独り言に返事があったことに驚いて、顔を上げる。ううん、それ以前に今の声は……。
「……ミモザ?」
目の前の夜空に、ゆっくりと人影が浮かび上がる。ずっと探していた、その人の姿がそこにはあった。