136.恩返しにも色々あるようで
木の板に刻まれたとんでもない文言から目を背けるように勢いよく振り返ると、そこにはバルガスが立っていた。
「あんたが俺を探してるって、みんなから聞いたんだが……あんたも元気そうで良かったぜ」
そう言って笑うバルガスこそ、見事なまでに健康そのものだった。前よりもさらにたくましくなっているし、服もちょっといいものになっている。初対面の時とはまるで別人だ。
「ちょっとバルガス、これは何!?」
他に聞くべきことがあるのは分かっている。けれどまず、この疑問をなんとかせずにはいられなかった。この板、何なの。ねえ。
「おう、見たままだな」
「見たまま……聞き方が悪かったわね。どうしてこんなものがここにあるのよ」
「それも見たままだな。感謝のあかしだ。あんたたちには色々世話になったからな。俺たち東地区のもんの恩人だ」
絶句している私に、バルガスはすらすらと答えていった。
「みんなで金を出し合って、その板を作ったんだ。賢い奴が文言を考えて、手先の器用な奴が文字を掘って」
たいそう得意げに、バルガスが語る。広場に居合わせた人たちが、優しく温かい視線をこちらに向けていた。
「そうしてできた板を、みんなの憩いの場であるここに飾ることにした。そうして花を供えて、きちんと掃除してるのさ。ちょっとした思いつきから始まったんだが、結構いい感じだろう?」
注目されている。周囲の人たちの視線がほんわか温かい。明らかに、私が誰なのか分かっている表情だ。
「いずれ、もっと立派な石碑を建てようと思うんだ。そのために、みんなでこつこつ貯金してる。数十年とか、それくらいかかるかもしれないが……あんたたちなら問題ないだろ?」
「……どっちかというと、あの板の存在が一番の問題だわ……ねえ、かなり恥ずかしいんだけど」
「まあ、そう言うなよ。こうでもしないと返しきれないくらい、俺たちはあんたに恩を感じてるのさ」
彼らに悪気がないのは分かる。律儀で真面目でまっすぐな思いを感じる。でもだからこそ、強くは断れない……恩を感じているのなら、もっと別の形で返してくれても……。
「あ」
その時、ようやく思い出した。自分が何のために、ここに来ていたのかを。
「だったら、今すぐちょっと恩を返してもらえないかしら? 実は私、ミモザを探していて。この街に来ていたらしいって聞いたんだけど、見てない?」
急いでそう尋ねると、バルガスははっきりとうなずいた。
「おうさ、ミモザならこないだ会ったぞ。だからさっき『あんたも元気でよかった』って言ったんだ」
「ミモザ、元気にしてた!?」
「前に会った時と何も変わらなかったぜ。一人でふらふらしてたのが、ちょっと意外だなと思ったが」
ミモザにはそういうところがある。悩みも苦しみも、全部穏やかな微笑みの下に隠して、何事もなかったかのようにふるまう。
だからこそ私も、彼がこんなに思いつめるまで気づいてやれなかったのだ。
「というか、あいつはあんたの伴侶なんだろ? なんでそんなに必死に……あ、そういうことか」
ぎゅっと唇をかみしめていたら、バルガスが勝手に納得したような顔であごに手を当てた。
「あんたらもしかして、喧嘩でもしたのか? で、あいつが出ていった、と」
「……悔しいけれど、だいたいそれで合ってるわ……」
「それであんたが血相を変えて、ミモザを探しているということか。いいねえ、夫婦愛だねえ」
「ちゃかさないでちょうだい、バルガス。私、絶対にミモザを見つけて、彼に謝らないといけないんだから……」
言い返した拍子に、ちょっと涙が浮かびそうになった。ぐっとこらえてうつむくと、バルガスのあわてた声がした。
「っと、そういうことなら俺が力になれるぜ。何せこないだ、ミモザとあれこれ話したばかりだからな。ええと、あいつはなんて言ってたかな……」
顔を上げて半歩進み出て、バルガスを食い入るように見つめる。彼はちょっと動揺しているようだったけれど、すぐに気を取り直して続けた。
「ああそうだ。『ちょっと遠出しようと思うんだ。せっかくだし、隣の国にでも行ってみようかな』って言ってたんだった」
「ありがと、それじゃ!」
くるりときびすを返して、走り去ろうとする。と、バルガスが腕をつかんできた。
「いや、ちょっと待て。落ち着け。もうちょっとだけ、俺の話を聞いてくれ。頼むからよ」
それは、まるでむずがる子供をなだめるかのような声だった。
そうして、次の日の朝。私は国境にかかる橋を渡っていた。……バルガスと二人で。
「……私、急いでるのだけれど。昨日のうちに橋を渡りたかったのだけれど」
「急いでいるのなら、なおのこと着実に進まないとな。焦って突っ走っても、空回りするだけだぜ? そうしたら、またミモザの背中が遠のくってもんだよなあ」
言い返せない。正論過ぎて。
昨日バルガスは、広場から駆け去ろうとする私を引き留めて、こう言ったのだ。『隣国でミモザを探すのなら、俺も手伝うぜ』と。
私もミモザも、隣国に行ったことはない。それは去年に国境を襲ったあの時に、バルガスたちに話していた。
そしてバルガスによれば、隣国はちょっと独特の気候と文化を持った、変わった場所なのだとか。
「ミモザは落ち着いていたし、あの分なら大丈夫だろう。けどな、明らかに取り乱している今のあんたがあそこに単身突っ込んでいったら、どうなることやら」
「……そんなにとんでもないところなの、隣国って?」
「とんでもないっていうか、癖があるんだ。初めて行った奴は、必ず戸惑う。……あんたなら案外、あっさりなじむかもしれねえがな」
遠回しに変人扱いされている気がする。もっとも普通の女性であれば、国境を攻め落とす民衆の先頭に立ったりしないのだし、これも仕方ないのかな。
「そこで、この俺の出番って訳よ。恩人であるあんたが少しでも早くミモザに追いつけるよう、力を貸してやる。というか、貸したい。頼むから、ぜひ借りてくれ」
そう言って、バルガスは分厚い胸板をどんとこぶしで叩いた。
「俺は商売の関係もあって、隣国の人間とは日々交流しているからな。国境に近い地域のことなら、割と知ってるぜ。どうだ、案内人としてうってつけだろう」
などと自分を売り込もうとしているようだけれど、既に彼は私についてきている。それも、しっかりと旅の支度を整えて。たぶん、駄目だといっても同行するのだろうな。
「そういえばあなた、仲間たちと東の街で商売してるんだったわね。でもそれなら、店を離れてしまっていいの?」
一応、そんなことを指摘してみる。でも案の定、バルガスは頼もしく笑うだけだった。
「大丈夫だ。あいつらもかなり商売には慣れたからな、ちっとばかし俺が留守にしてても問題ないさ。いずれは独り立ちしたいって言ってたし、修行としてはちょうどいい」
彼の口調にも表情にも、無理をしている気配はない。だったら本当に、問題ないのだろうけど。でも……。
「それにあいつら、『俺たち東地区の代表として、存分にジュリエッタさんに力を貸してきてください!』って言ってたぞ」
どうやら乗り気なのはバルガスだけではないようだった。そういえば昨日あの後改めて旅の装備を整えていたら、あちこちで「頑張って」「見つかるといいね」と応援された。
どうやらあの場でバルガスて私の話を聞いていた人たちが、あっという間に私の事情を広めてしまったらしい。噂、広まるの早すぎ。
「…………でもやっぱり、ただ力を借りるだけっていうのも……」
バルガスがいてくれたら助かる、それはまぎれもない事実だ。でもミモザがどこまで行ったか分からないし。
この追いかけっこが、どんなにどたばたした、非常識なものになるか分からない。私が隣国まで来ていると知ったら、ミモザはさらに逃げていきそうだし。竜と魔女の、全力の追いかけっこ。そんなことに、バルガスを巻き込んでいいものやら。
でもでも、彼はとってもやる気だ。この厚意に甘えてしまいたくもあるし……。
悩んで悩んで、ついに結論を出した。
「だったら、私があなたを雇うわ。案内人として、きちんとお給金を払って。それでどう?」
恩返しをしたいという彼の気持ちはそのまま受け取る。それとは別に、迷惑をかける分についてはきちんと埋め合わせをする。これなら良心も痛まない。
「相変わらず、気前がいいな。よし、その条件、乗ったぜ」
そう答えたバルガスが、すっと足を早める。そうして橋を渡り切り、にっと笑ってこちらを振り返った。
「それじゃあ、行こうか。隣国の旅の始まりだ」