131.旅立ちに向けて
「そろそろ、透明化の魔法を使いながらあなたと一緒に飛んでみたいんだ。ご飯の後に、練習に付き合ってくれるかな」
夏も終わりに近づいたある日、ミモザが唐突にそう言った。王都の近くの森の中、その小屋でいつものように夕食の支度をしながら。
「ええ、いいわよ。そう言い出すってことは、いよいよ透明化の魔法を使って旅ができるめどが立ったのかしら?」
「うん。たぶん僕一人なら、丸半日くらいは透明のまま飛べると思うんだ。これなら、大回りせずにまっすぐに辺境に向かうことができる。かかる日数も、大幅に短縮できるよ」
「頑張ったじゃない。やっぱりあなたって、魔法の上達速度が速いのね」
私の言葉に、ミモザは誇らしげに胸を張った。
「万が一にも失敗したくないし、じっくり練習したからね。これ以上竜の姿を見られたら、間違いなく面倒なことになるし」
「白き竜の神様も大変ね」
「辺境の魔女様も人のことは言えないよね」
南への旅から戻って以来、こんな軽口が私たちの定番のやり取りになっていた。正直頭が痛い事態ではあるけれど、私たちのことがさかんにもてはやされるのもせいぜい十年か二十年、もって三十年といったところだろう。
それくらい経てば、私たちは土地の言い伝えの一つとして、ゆったりと語り継がれるくらいで済むはずだ。
これ以上余計な大騒ぎをしなければ、時間が勝手に解決してくれる。だから私たちは、こうやって軽口を叩いていられるのだ。
そんなことを話しているうちに、料理ができあがった。二人一緒にテーブルに料理を運び、席に着く。
のんびりと食事をとりながら、思いつくままお喋りする。二人きりの、穏やかな時間だ。
「やっぱり、こうやって二人でゆっくりするのが一番落ち着くね」
「そうね。でも、こないだの宴会も面白かったわ。……ファビオもようやくいい感じになってきて良かったし。鈍感シーシェのほうは何とも言えないけれど、まあいずれちゃんと落ち着くんじゃないかしら」
「うん。料理もおいしかったし、めでたしめでたし、って感じだよね」
「これでもう、ここには心残りはないかしら……」
「ないと思う。でもこのまま留まっていたら、また騒動のほうが勝手に転がり込んでくるよ。だからその前に、辺境に帰ろう」
ミモザは懸命に、そう主張している。笑ってうなずくと、彼もほっとしたように笑い返してきた。
真夜中近くなって、森も街も寝静まった頃、二人で森の奥の空き地に向かった。そこは小高い丘の陰になっていて、城下町からは見えない。ミモザはいつも、ここで魔法の練習をしていたのだ。
「じゃ、見ててね」
そう言うなり、ミモザはゆっくりと息を吸った。その姿が、夜の空気に溶け込むようにして消える。
黙って見守っていると、何もない宙から服がぞろりとわいて出て、地面にぱさりと落ちた。それからその服がひとつずつ、消えていく。
ミモザが服ごと透明になって、それから竜の姿に戻った。その拍子に服が脱げて落ち、透明化の魔法の効果が切れた。その服を、まだ透明になったままのミモザがしまい込んでいる。
そういうことなのだと分かってはいたけれど、それでもとても不思議な光景だった。
『うん、準備できたよ。乗って……といっても、どこをよじ登ればいいか分からないよね』
「分からないわ。そこに大きな何かがいる気配はするのに、全く何も見えない。すごいわね、この魔法」
『ふふ、褒められちゃった。だったら僕があなたをすくいあげるから、そこでじっとしていて』
その言葉と同時に、体を何かが包み込む感触があった。すっかりなじんだ、ミモザの手の感触だ。魔力の波がさらりと全身をなでていくような、そんな感触が続いてやってくる。
次の瞬間、ミモザの姿が見えていた。いつもと同じように私を抱えて、大きな金の目でこちらを見ている。
「あら、見えるようになったわ。大丈夫なの?」
『大丈夫。周りの人たちからは、僕たちが丸ごと見えなくなってるから。きちんと魔法は維持されてるよ』
そうしてミモザは説明してくれた。透明化の魔法とは、本当に透明になるのではなく、術者の周りに特殊な魔力の幕を張る魔法なのだと。その幕が周囲の光の流れをゆがめて、そこに何もないと見せかけているのだそうだ。
『さっき、あなたを幕の内側に入れたんだ。だからあなたには、僕が見えるんだよ』
「思ったよりややこしいのね、透明化の魔法って……」
『そうなんだよね。うっかり幕にほころびができると、一部だけ見えちゃって怖いことになるし。さあ、それじゃ行こうか』
くすくすと笑うと、ミモザはゆっくり舞い上がった。上へ上へ、周囲の木々を追い越して、何もない宙へ浮かび上がる。
こうやって飛ぶのは久しぶりだ。遥か足の下には森、目の前には一面の夜空。
すぐ近くに城下町の明かりが見えているのが、ちょっとだけ落ち着かない。こんな人里近くを飛んだことはないから。
もっともミモザは、この半年ほどの間に二回もそれをやっていた。一度目は、王宮に忍び込んだ私たちと合流した時で、二度目は、魔術師たちの拠点から逃げ出した私と合流した時だ。
その時に姿を人目にさらしたせいでミモザは神様扱いされてしまったのだけれど、元をたどればどちらも私のせいだった。
一度目は、私を守って眠りについたせいで置いていかれたミモザが合流しようとしたからであって、二度目は魔術師の砦を訪ねた私が行方不明になったからだった。
今さらながらに申し訳なさを感じている私とは裏腹に、ミモザはとても楽しそうだ。
『このまま、城下町の真上まで行ってみる?』
「さすがにそれは、心臓に悪いわ。あっちの山のてっぺんはどうかしら? あの山は城下町に近いから、今まで行ったことがないし」
『ふふ、分かったよ』
そうして二人、久々の夜の散歩を楽しむ。途中に大きな池があったので、近づいてのぞき込んでみた。
透明化の魔法がきちんとかかっているか確認する一番簡単な方法は、鏡の前に立つことなのだそうだ。そして波一つない静かな水面には、そこに映るはずの私たちの姿はなく、ただ一面の星空が広がっていた。
「なんだか変な感じね。見えるはずのものが見えないって」
『僕はもう慣れたよ。たまに透明になってるのか、なってないのか忘れるくらいに。透明になってないことを忘れたまま飛んだら大変なことになりそうで、ちょっと心配だな』
「まあ、そうなったらその時よ」
『確かにね』
そんなことを話しながら空を飛び、改めて岩山のてっぺんに向かう。人が歩ける道などなく、鳥か山羊くらいしかたどり着けない崖のふちに、二人そろってちょこんと腰かけた。もちろん、ミモザはまた人の姿になってきっちりと服を着こんでいる。
「ここって、夜空見物の特等席ね。あなたに運んでもらうのもいいけれど、こうやってあなたと並んで空を見るのも素敵」
「うん。竜の姿であなたを乗せているのも好きだけど、こうやって人の姿で、あなたの隣にいるのも好きだな」
触れ合った肩が温かい。無言のまま、その心地良さに思う存分浸る。
ふと、ミモザがぽつりとつぶやいた。
「この半年くらい、ずっと考えてたことがあるんだ。ううん、ここ一年ちょっとかな」
私たちが王都に来て半年ほど、ヴィットーリオたちが辺境の小屋にやってきて一年半足らず。
これほど長い間、ミモザが私以外の人間と一緒にいるのは初めてのことだ。だから彼は、きっとその中で感じた戸惑いや、嬉しさについて考えていたのかもしれない。
しかし続く言葉は、全く予想外のものだった。
「やっぱり、僕とあなたは違う生き物なのかなって、そう思うんだ」
思いもかけない言葉に、隣のミモザのほうを振り向く。彼は星空を見上げたまま、歌うようにつぶやいていた。
「あなたは人間で、大きな群れで暮らす。知識や技術、物などをみんなで受け継いでいく、そんな生き物」
ミモザはまるで星をつかむように、手を伸ばした。
「でも僕は竜で、必要とするのはたった一人の伴侶だけ。伴侶の同族と暮らすこともあるけれど、本来は群れる必要はない。それに、他の竜と出くわすことすらまずない。次の竜に、記憶の一部をそのまま受け継がせるだけ。他のどんな生き物とも違った、そんな存在」
そうして彼は、くすりと笑う。いつもと同じ、穏やかな笑いだ。
「自分がそんな存在だということを、嫌だと思ったことはないよ。ちょっと変わってるなとは思うけど、僕にとってはこれが当然だし。……でもね」
ミモザの声に、影が差す。
「王都で暮らすあなたが、とても楽しそうで、幸せそうで……やっぱりあなたは、人に囲まれて生きるべきだったんだなって思う」
「ミモザ……」
ずっとずっと昔、彼が私のもとを去ろうとした時。あの時も彼は、同じようなことを考えていた。何度否定しても、彼の頭からはその考えが消え去らないようだった。
不安を隠しきれずに声をかけようとする私のほうを向いて、ミモザがにっこりと笑いかけてくる。
「でも、僕はもう身を引いたりしない。だってあなたは、僕のたった一人の、一番大切な伴侶だから。他の誰にも譲らない。僕は他の誰よりも、あなたを幸せにしてみせる」
天使のような顔いっぱいに、透き通るような笑みが浮かぶ。
「だから、わがままを言わせてもらうね。帰ろう、ジュリエッタ。僕たち二人だけの、あの家に」
その笑顔に私まで嬉しくなって、大きくうなずいた。
「ええ、帰りましょう。私だって、あなたと二人でいるのは楽しいから。みんなとの時間と、あなたとの時間……どちらかだけを選べっていうなら、あなたとの時間を選ぶもの」
そうして身を乗り出し、ミモザの両手をしっかりつかむ。その拍子に体が揺らいで、ずるりと崖から落ちそうになった。
二人一緒に崖から滑り落ち、とっさに飛行の魔法で踏みとどまる。森の木々のずっと上、何もない宙に、私たちは手を取り合って立っていた。
「ああ、びっくりしたわ。飛行の魔法、さっそく役に立ったわね」
「僕が竜の姿に戻ってもよかったんだけど……こんなところで服を落としたら、探すのが大変だしね」
確かに、ここで竜の姿に戻れば、脱げた服一式はもれなく遥か下の森に落ちていってしまう。二人してそれを必死に探す姿を想像してしまったら、つい笑ってしまった。
「あっ、笑うなんてひどいなあ。って、僕もちょっと笑っちゃったけどね」
そうやって二人で笑い合う。自然と、私たちの目は周囲に向けられていた。
「自分で飛ぶのとも、違う感じだね。風もなくて、ずっと静かで」
「一面の星空の中に立っているような気分ね」
「また一つ、素敵な風景を見られたね」
「ええ、そうね」
きらきらの星が散りばめられた夜空の中で、私たちは二人きり手を取り合う。人々の気配も、木々のざわめきもないその世界は、不思議なほど温かな静けさで満ちていた。