129.古ぼけた手紙
エルマはのんびりと一人で、部屋を掃除していた。遥かな昔ジュリエッタが暮らしていた、屋敷の一室を。
この部屋はそのままにしておき、かつこまめに手入れをすること。そうしていつか、この部屋の主が戻ってきたら、彼女に返してやって欲しい。
かつての当主のそんな遺言を、エルマは忠実に守っていたのだった。
この部屋の主は、濡れ衣を着せられて辺境に追放され、竜を伴侶とした不老長寿の少女だ。
その話を先代の当主である父から聞かされた時、エルマは大いに驚いた。そして彼女は、この部屋を掃除しながら遥か昔、遠くの空に思いをはせるようになっていた。
その少女は追放されて、さぞかし悲しんだだろう。何もない辺境で、どうやって生き延びたのだろうか。想像を絶するほどの苦労をしたに違いない。
見た目はずっと十七歳のままだというけれど、きっと彼女はとても大人びた神秘的な雰囲気の女性なのだろう。
それに、彼女の伴侶だという竜のことも気になる。いったい二人は、どうやって出会ったのだろう。彼はどんな姿をしているのだろうか。そもそも竜が本当にいるなんて、ちょっと信じがたい。
エルマには、ちょっぴり夢見がちなところがあった。
普段は少々男勝りなくらいに決断力があり、当主として立派に家を切り盛りしている彼女だったが、時折こうやって年頃の乙女のように想像の翼をはばたかせているのだ。
そんなところも可愛いんですと、彼女の夫はよくのろけている。
「ふふ、それにしてもあんな方々だったなんて。思っていたのよりもずっと可愛らしくて、ずっと素敵だったわ」
窓を大きく開けて外の空気を入れながら、エルマは笑う。先日、ついにこの部屋の主が帰ってきたのだ。エルマは憧れの人に会う乙女のようにどきどきしながら、ジュリエッタとミモザを出迎えていた。
そうして、彼女は大いに驚くことになった。追放された乙女であるジュリエッタは、若い頃の自分によく似ていたのだ。
自分の祖母よりも長く生き、たくさんの苦労を重ねてきたはずのジュリエッタは、見かけ通りに若々しい雰囲気の、愛らしい女性にしか見えなかった。
しかも彼女の隣にいたミモザときたら、思わず目を見張らずにはいられないほどの美青年だった。ミモザの花を思わせる綺麗な金色の目と、優しく柔らかな白の髪。ジュリエッタと並んださまは、一対の人形のようですらあった。
けれどエルマは、なぜか一目で理解した。この美しい青年は、確かに竜なのだと。
そんなことをあっさりと受け入れてしまっている自分に驚きつつも、彼女は同時に悟った。近頃王都で噂になっている竜の神様というのは、きっと彼のことだろうな、と。
「機会があるなら、一度竜の姿を見てみたいわ。きっと、とても素晴らしいのでしょうね」
くすくすと小さく笑いながら、エルマはいつもよりも念入りにはたきをかける。明るい窓辺でふと下を向いた彼女が、ぴたりと手を止める。
「……何かしら、あれ?」
窓のすぐ下に置かれた机と壁の間に、小さくて薄い何かが落ちていたのだ。彼女は重い机をじりじりと動かし、手にしたはたきを隙間に突っ込んで、その何かを拾い上げた。
「手紙かしら? かなり古いもののようだけれど……しかも、ジュリエッタ様あてね」
エルマは手紙を指先でつまんだまま、どうしたものかと小首をかしげていた。
「私あての、ものすごく古い未開封の手紙ねえ」
王都のすぐ外の森の中にぽつんと建っている小屋。そのすぐそばの草地にぺたんと腰を下ろしたジュリエッタは、古い手紙を見ながら首をかしげていた。
ちょうど今しがた、エルマからの便りが届いたところだったのだ。そこには、エルマが見つけたこの古い手紙が同封されていた。
「もしかして、あなたの両親から? 差出人が書いてないけど」
隣に座ったミモザも、不思議そうな顔で手紙を見つめていた。
「いいえ、違うわ。この筆跡には覚えがないもの。お父様でもお母様でも、当時の友人たちでもないし、あとヴィートでもない」
「じゃあ、誰なんだろう?」
「心当たりはないけれど、開けてみればはっきりするわよ」
そう言ってジュリエッタはあっさりと手紙を開封し、古びた便せんを取り出す。ミモザにも見えるように便せんを広げ、二人一緒に読み始めた。
「あら……」
「ああ……」
そうして二人同時に、ため息をついた。ジュリエッタは昔を懐かしんでいるような、少し悲しそうな顔で、ミモザはそんな彼女を思いやるような顔で。
この手紙は、ジュリエッタが追放される直前に書かれたものだった。差出人は、彼女と同じ年頃の男爵家の令息。彼女がかろうじて名前を聞いた覚えがあるくらいの、ほとんど言葉を交わしたことすらない男性だった。
少し気弱そうな繊細な文字でつづられた手紙には、このようなことが書かれていた。
『僕は貴女のことを、ずっとお慕いしていました。決してかなうことのない思いなのだと、秘めたままでいましたが』
『けれど今、貴女は婚約を破棄され、追放されようとしています。貴女の無実を、僕は信じています』
『この先に待つ破滅から、貴女を助け出したい。僕と共に逃げましょう。明後日の満月の夜、街道の三つ辻の岩の陰で待っています』
ジュリエッタもミモザも、何も言わない。木の梢が風に揺れてさやさやと鳴る音だけが、夏の森に響いていた。
やがて、ジュリエッタがぽつりとつぶやく。
「彼はおそらく、私の部屋の机の上にこの手紙を置いた。けれど風か何かのせいで、手紙は机と壁の隙間に落ちて、私の目に触れることはなかった」
手紙を見つめたまま、ミモザが問いかけた。
「……この人、あなたのことを待ってたのかな。あなたと一緒に逃げるつもりで」
「分からないわ。どのみち、もう彼も生きていないし。それに私を本当に逃がそうとしたら、彼も罪人になってしまう。あの頃の私では、とうてい逃げ切れなかった。だから、これで良かったのよ」
「でも、この手紙があなたのところに届いていたら、全然違う今があったのかもしれないね」
ミモザの言いたいことを、ジュリエッタは理解していた。
彼女が彼と共に生きると決めてからかれこれ百年以上経っている。それでも彼は、時折悩んでいるのだ。ジュリエッタはやっぱり、人として生き、人として死ぬべきだったのではないかと。
こうして人の近くで過ごし、たくさんの思い出を作っているうちに、彼はそんな思いを強くしていたのだった。最初に彼女のもとを離れたあの時、自分が彼女をきちんと突き放しておけば、彼女は愛しい人々を見送り続けることにもならなかっただろうと。
「……ミモザ、出かけるわよ」
ジュリエッタはすっくと立ち上がり、ミモザに手を差し出している。ミモザは訳が分からないまま、その手を取った。
「街道の三つ辻、岩の陰……ここね」
なんとジュリエッタは、あれから馬を飛ばして、手紙に書かれていた待ち合わせ場所に駆けつけたのだ。よほど急いでいたのか、途中の宿場町に寄ることもなく、野宿を繰り返してここまでやってきていた。
「どうしてここに来たの? あの手紙の人がいる訳ないって、あなたも分かってるよね」
おとなしくここまでついてきたものの、やっぱり状況が飲み込めていないミモザが尋ねる。既に日は落ちて、辺りには人の気配もない。
「ええ。だからこれは、私のただの感傷」
そうつぶやくジュリエッタの視線の先では、こうこうと輝く満月が昇り始めていた。
「ちょうど今夜が、満月だから。だから大急ぎでここまで来たのよ」
ジュリエッタは荷物からあの手紙を取り出すと、満月を見つめて高らかに言った。
「あなたの手紙、やっと届いたわ! 私は無事に、破滅を乗り切ったから! もう大丈夫だから!」
しんと静まり返った夜の空気の中に、ジュリエッタの明るい声が吸い込まれていく。
彼女が手紙を高く掲げると、音もなく手紙が炎に包まれた。あっという間に手紙は白い灰になり、夜風に散らされていく。彼女は火の魔法で、手紙を燃やしたのだ。
「……あの時の私の味方をしてくれて、ありがとう」
そうつぶやくジュリエッタの声は、かすかに震えていた。ミモザがそっと彼女の隣に立ち、天に掲げられたままの彼女の手を取った。
「僕からもお礼を言うよ。ありがとう、僕の知らない誰かさん。これからも僕が彼女を守っていくから、安心してね」
そのミモザの言葉に励まされるように、ジュリエッタはもう一度声を張り上げた。遥かな昔、ここに立っていたかもしれない誰かに向かって。
「私は今、とっても幸せよ。あなたもきっと、幸せな人生を送れたのよね?」
手紙の主が、辺境にやってくることはなかった。ジュリエッタの両親に会いに来ることもなかった。
だから彼はきっと、ジュリエッタがここに来なかったことで落胆し、そのまま自分の家に戻ったのだろう。そうして男爵家の令息として、一生を終えたのだろう。
ジュリエッタはそう考えていた。そして、それでいいとも思っていた。追放されたことは不幸だったけれど、その結果として今の幸せがある。その過程で、他の人を不幸にせずに済んで良かったと。
いまだに悩んでいるミモザとは違い、ジュリエッタはこの生き方を後悔していなかった。顔見知りを見送る時だけは寂しいと思うものの、それでもミモザと別れることは考えられなかったのだ。
「……人生って、いくつも分かれ道があるのよね」
ジュリエッタがミモザの手をぎゅっと握って、ぽつりとつぶやく。
「もし過去の分かれ道を選び直せるとしても、私はやっぱりこの道を選ぶわ。こうやってあなたと並んで月を見ている今を」
「……うん。僕も」
ミモザはほんの少し涙声になっていたが、ジュリエッタはそれに気づかないふりをしていた。




