126.王宮には通り魔がいる
バルバラは走っていた。かかとの高い靴で、王宮の石の廊下を音もなく。普通に歩くことすら難しそうな繊細でしゃれた靴で、とても優雅に走っていた。
朝の王宮をつむじ風のように駆け抜ける彼女を、兵士やメイドたちは首をすくめて見送っていた。ああやってバルバラが足音を立てずに走っている時は、とても危険なのだ。
彼女は今、獲物を物色しているのだ。誰が選ばれるかは、その日の彼女の気分次第だ。
そして哀れな獲物は、その日を丸ごと彼女に奪われてしまう。バルバラとお針子たちは、寄ってたかって獲物に似合う服を作り上げ、着せ付けるのだ。服飾の研究のため、という大義名分があるということもあって、獲物の側に拒否権はない。
ただ服を作られるだけなら大したことはないだろうと、新米の使用人などは決まってそう言う。けれど実際にバルバラに捕まってしまった犠牲者の話を聞くと、みな震え上がるのだ。
バルバラたちがどんな服を作るかは、誰も予測できない。男なのに女性もののドレスを着せられた貴族や、肉体美を強調するやけにぴったりした服を着せられた兵士など、とんでもない目にあった犠牲者は数知れないのだ。
もっともそれらは全て、犠牲者たちに驚くほど似合っていたのだが。
そうして走っていたバルバラが、突然足を止めた。そのまま近くの柱の陰に身を隠し、前方をじっと見つめている。廊下の曲がり角の向こうから、こつん、こつんという靴音が近づいていた。
ああ、あの足音の主が今日の獲物かと、周囲の人間は息をひそめながら同情の視線をそちらに投げかけていた。自分でなくてよかった、そんな安堵のため息と共に。
「だから、私は今日どうしても外せない用事があるって、そう言ってますよね?」
「でもその用事って、夕方なんでしょう? だったらその前に、私たちにちょっとだけ付き合って! 大丈夫、ちゃんと間に合うように、大急ぎで頑張るから!」
上機嫌のバルバラは、メリナの手を引っ張ってずんずんと歩いている。行く先はもちろん、お針子たちの仕事場であるあの部屋だ。
「あなたは飾りがいがあるって、みんなそう思ってたのよね! 妖精のようにほっそりとした体、異国の風を感じさせる愛らしくも凛々しい面差し! 他の人には難しい衣装だって、ばっちり着こなせそう!」
まっすぐ前を向いたまま、鼻歌でも歌いそうなくらいに浮かれた口調でバルバラが言う。
褒め言葉の大盤振る舞いに、メリナの浅黒い頬がほんのりと赤く染まった。彼女は相変わらず眉間にしわを寄せたままだったが、その黒い目が戸惑いがちにさまよい始めた。
王宮のみなに恐れられながらも、それでもバルバラの犠牲者が後を絶たない理由の一つがこれだった。彼女に捕まってしまえば面倒な目にあうと分かっていても、バルバラの手放しの、そして心からの褒め言葉に気を良くして、つい逃げそこなってしまうのだ。
メリナもしばらくためらっていたが、やがて恥じらいながら小声で尋ねた。
「……参考までに聞きたいんだけど、私にはどんな服が似合いそう?」
「そうね、色はやっぱり青! あなたの鋼色の髪によく映えるわ!」
バルバラは間髪入れず、自信たっぷりに答えた。
「それも、とびっきり鮮やかな青ね、ほんのちょっとだけ紫を帯びた青! 純白と合わせるといい感じ! やや厚手で固めの生地で、体の線を大胆に出しつつ、しっかりと肌も出す! 大人っぽく、色っぽく強気に攻める感じがぴったり!」
どうやらバルバラの頭の中では、既に完成形ができあがっているようだった。メリナはその完成形がさっぱり分からなかったが、それでも普段着ているものとはまるで違うということだけはすぐに理解できていた。
「……そういうの着たことないし、恥ずかしいんですけど」
メリナがいつも着ているのは、当然ながら魔術師の制服だ。男女でほぼ作りが同じだし、品はあるものの露出は全くないし、色気はもちろんない。
「だったらなおのこと、新しい服に挑戦してみるべきよ! 新しい自分と出会いましょう! 大丈夫、ぜんぶ私たちに任せてくれればいいから!」
どうやらこのまま、おとなしく着せ替え人形になるしかないようだ。メリナはそう思いつつも、ほのかな期待に胸を高鳴らせていた。
それから実に数時間、お針子たちの仕事場からはにぎやかな声が響き続けていた。いつも以上の歓声に、朝方の騒動を知らない者たちも悟っていた。ああ、またバルバラが獲物を見つけてきたのだな、と。
バルバラを筆頭としたお針子たちの一団は、メリナを全身くまなく採寸し、あっという間に型紙を作り上げた。それから仮縫い、試着、調整と進み、それからは全員が一団となってものすごい勢いで仕上げにかかっていた。
「わざわざ採寸しなくても、この魔術師の制服を作った時の値が記録に残ってますよね」
採寸なんて必要ないともめたあげくに服をひん剥かれたメリナが、ふてくされた顔で長椅子に座っている。下着の上から、ゆったりとしたローブを羽織って。
そのぼやきを聞きつけて、バルバラがびしりと言い放った。
「駄目よ、寸法なんてすぐに変わるんだから! 案の定、身長と胸がちょっとずつ育ってたわよ! 後で、制服のほうも直してあげるわね!」
「だから、そういう個人的なことを大きな声で言わないでもらえます!?」
「ごめんなさい、声が大きいのは生まれつきなのよ!」
そんなことを話している間も、バルバラは縫う手を止めない。メリナは悪態をつきつつも、その手際の良さに見とれていた。
「はい、完成! それじゃいよいよ、着付けにかかるわよ!」
「……用事の時間まであと一時間しかないから、どうなることかと思ったけど……」
「私たち、約束はちゃんと守るのよ! さあさあ、こちらへどうぞ!」
メリナは立ち上がり、手ぐすね引いて待ち構えているバルバラとお針子たちのもとに、ゆっくりと歩いていった。猫ににらまれたねずみはこんな気分になるのかと、メリナはこっそりとそんなことを考えていた。
青と白の大胆な切り替えが美しいその服は、ドレスというほど大仰でもなく、ちょうど城下町のしゃれた料理店に着ていくのにふさわしいような、ほど良い品の良さと気軽さを兼ね備えていた。
えりぐりは浅く広く、袖はほとんどない。そして細身のスカートには膝上までスリットが入っている。腕や足を見せることにメリナは戸惑っているようだったが、鏡の中の自分を見たとたん、ちょっとした不満も吹き飛んでしまったようだった。
「すごい……こんなに変わるんですね」
ぱっちりとした目を引き立てる控えめの化粧に、鋼色の髪に飾られた白い布の花の大きな髪飾り。新しい服とそれらの飾りは、メリナをこの上なく可愛らしく、そして大人っぽく見せていた。
「ああ、今日もいい仕事ができたわ!」
鏡の前でぽかんとしたまま自分の姿に見とれているメリナの後ろでは、バルバラたちが手を取り合って大喜びしている。互いの健闘を称え合っているような、そんな姿だった。
「その……ありがとう。思っていたよりもずっと、……素敵だわ、これ」
メリナはくるりと振り返り、この偉業をなし遂げた元気な女たちに向き直る。照れくさそうに一礼する彼女を、バルバラたちはたいそう満足げな顔で見守っていた。
「……きっちり着飾らせてもらって悪いけど、私そろそろ行かないと」
そう言って彼女は、部屋の片隅にある一角に向かおうとする。ついたてで区切られたそこは、着替えのための場所だ。
「行くならそっちじゃなくてあっちでしょ?」
バルバラがメリナの腕をつかんで、部屋の出入口のほうを指さす。メリナは大いにうろたえながら、首を横にぶんぶんと振った。
「えっ、でも、これから用事があるから、着替えないと」
「用事だからこそ、その格好で行ったほうがいいと思うわ!」
そのバルバラの言葉に、お針子たちが一斉にうなずく。さらに困惑するメリナに、バルバラはさらりと言う。
「だって用事って、魔術師の若手たちで食事に行く、ってやつでしょう? それも、城下町のしゃれたお店だって。シーシェがこないだ話してたわよ? その格好なら、そのお店でも浮くことはないわ!」
存在そのものが周囲から盛大に浮きまくっているバルバラは、自信たっぷりにそう言い放って胸を張っている。
「まあ、それは、そうなんですけど……こんなに気合の入った格好だと、いったいどうしたのって聞かれますし……」
「そのまま答えればいいわよ! バルバラに捕まったの、って言えば、みんなもれなく納得してくれるわ!」
メリナはまだ迷っているようだったが、やがて覚悟を決めたように小さく息を吐いた。
「……分かりました。せっかくなのでこのまま行きます。それでは、失礼します」
そう言い残して、メリナが部屋を出ていく。なぜかバルバラたちは、それからしばらくの間無言だった。
「……そろそろ、メリナは王宮を出た頃かしら?」
お針子の一人が小声でつぶやいたのを皮切りに、その場の全員が口々に喋り出す。
「何とか成功したわね。せっかくの食事会なんだから、おしゃれして欲しいものね」
「放っておいたら、あの子は魔術師の制服で出かけそうだものね。確かにあれも正装の一種ではあるけど、年頃のお嬢さんには、ちょっとねえ……」
「あれくらいがっちり装わないと、シーシェさんは気づかないでしょうし」
「あの人男前でさわやかなのに、妙なところで鈍くて、気が利かないっていうか……」
「たぶんメリナさんの気持ちに気づいていないのって、シーシェさんだけだと思うわ」
「彼女も大変ねえ」
お針子たちのお喋りをまとめると、こういうことだった。メリナはシーシェ他数名と、今晩ちょっといい料理店に行くことになっていた。そのことを、たまたまお針子の一人が耳にしたのだ。そしてメリナがシーシェに密かに思いを寄せているということは、王宮のほとんどの人間の知るところとなっていたのだ。
これは応援してあげたいと、お針子たちはそう思った。だからバルバラのいつもの習慣を活用して、今日メリナを思いっきり飾り立てることにしたのだ。
「少なくとも、今日の衣装は会心の一作になったし、きっとうまくいくと思うわ! さあみんな、今日の衣装づくりの報告書を書いてしまいましょう!」
バルバラが腰に手を当てて軽やかに叫ぶと、何時間もぶっ続けで針仕事をしていたとは思えないほど元気いっぱいの返事が、部屋中に響く。
王宮に現れる、他人を着飾らせる通り魔バルバラ。彼女は今日も、たいそうご機嫌だった。