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119.海辺のひと時

 こうして前世の因縁を、まあそれなりには断ち切った私は、ミモザと共にさらに数日村に滞在してから帰路につこうとしていた。


 しかしその前に、一つだけ片付けておくべき問題があった。


 治療費は安くしておいたとはいえ、あきれるほどたくさんの患者が詰めかけたので、私たちの手元にはうなるほどの小銭が集まってしまっていたのだ。


 小銭の山は重いし、とにかくかさばってしまう。けれどこんな田舎の村では両替なんて頼めないし、そもそも村の人たちのなけなしの蓄えをかっさらっていくつもりもなかった。


 私たちは旅の薬師夫婦という設定が不自然にならないように治療費をもらっていただけであって、お金には全く困っていないのだから。


 そんな訳で、私たちは村を去る前に盛大に買い物をしていった。帰りの旅に必要な細々としたものや、保存の利く食料。それらを、相場よりちょっと高値で買いまくったのだ。


 そうしてきれいに小銭を使い終わった私たちは、笑顔の村人たちに見送られて、気持ちも軽やかに村を後にしたのだった。


「なんだか、色々感謝されちゃったね」


「そうね。……まあ、もうここに来ることもないだろうし、かつての故郷にちょっとだけ恩返しができて良かったわ」


 のんびりと馬車を走らせながら、ちらりと後ろを見る。坂と森にはばまれて、もう村は見えなくなっていた。


「ねえ、ジュリエッタ。一つおねだりしていいかな」


 私がほんの少し寂しく思っているのを感じ取ったのか、ミモザが励ますように明るく笑う。


「この辺りで、人目につかない海岸ってない? せっかく海の近くに来たんだから、少しだけ海で遊びたいな」


「ええっと、そうね……」


 首をかしげながら、遥か昔の記憶と、ここ数日の記憶をたどる。私たちはエッセ村を後にして、来た道を北に戻っている。この辺りには他にもういくつか村があるけれど、それらはみな東の方にある。


「……次の分かれ道を西に折れて、そのまま草原を突っ切ると人気のない海岸に出られるわ。あの辺りは潮の流れが速くて複雑だから、人も船も近づかない。危ない場所なのよ」


 この辺りの子供たちは、あそこにだけは近づくなと言われて育つ。私がその話を言い聞かされていたのはずっとずっと昔なのに、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せた。


「だったらそこに行こうよ。僕たちなら、ちょっとくらい危険な場所でも問題ないし。それに僕、海を近くで見てみたいんだ。僕も、前の竜も、海を見たことはなかったから」


「そうね、行ってみましょうか。ちょうど食料もたっぷりあるし、寄り道して野宿になっても大丈夫ね」


「やったあ!」


 まるで子供のように、ミモザがはしゃぐ。このまままっすぐ帰るよりも、何か楽しい思い出を作って帰ったほうがいい。きっと彼は、そう考えてくれたのだろう。


「……ありがとう、ミモザ」


 小声でつぶやくと、ミモザは金色の目を優しく細めて微笑んだ。




 そんなやり取りから数時間後、私たちは小さな浜辺にやってきていた。そこは左右に切り立った崖がそびえていて、目の前には一面の海が広がっている。


 普段暮らしている辺境の森の奥にも、大きな湖がある。けれどこの浜辺は、湖とはまるで違っていた。


 あの湖のほとりでは、いつも波は穏やかに寄せては引いていた。しかしここでは、ばしゃん、ばしゃんという大きな音を立てながら、次から次へと勢い良く波が押し寄せていた。波は近くの岩に当たって、盛大にしぶきを上げている。


 ミモザは歓声を上げながら、波打ち際の水がかからないぎりぎりのところまで近づいていく。遠くを眺めるようにうんと背伸びをして、辺りをきょろきょろと見渡していた。


「うわあ……湖よりも、ずっと波が激しいし、それにこうして近づくと、潮の香りがすっごく強いね。ちょっと鼻がむずむずするかも」


 前世の私、ロミーナにとっては生まれた時からなじみの深いこの匂いは、ミモザにとっては生まれて初めての匂いだった。あと、今の私、ジュリエッタにとっても。


 そしてミモザの目は、さっきからずっと海に釘付けだ。明らかにそわそわしている。


「せっかくだから、少し泳いでみてもいいかな?」


「ええ、どうぞ。私は泳げないから、この辺で見てるわ。飛行の魔法で追いかけてもいいのだけれど……やっぱり海はちょっと怖いのよね」


「無理しないで。僕一人でも大丈夫だから」


「そうね。この辺りは潮の流れが速いから泳ぐのは危険なんだけど、あなたなら問題ないわね」


「もちろん」


 くすりと笑って、ミモザはするりと服を脱ぎ捨てた。あっというまに下ばき一枚になると、 じゃあ行ってくるねとこちらに手を振って、目の前の海に向かって駆けていく。


 ばしゃばしゃと水をかき分けながら、彼はひときわ楽しそうに笑い声を上げた。


「うわ、面白い! すごくしょっぱいし、水の肌触りも違うね……それに、湖よりも浮かぶのが楽かも」


 子供のようにはしゃぎながら、ミモザは少しずつ沖へと泳ぎ出している。時々潮に流されているようではあるけれど、それすらも楽しんでいるようだった。


 手頃な岩に腰かけて、目を閉じる。潮風が髪をなでていく感触、寄せては返す波の音。とても懐かしいそんな空気の中に、ミモザのはしゃぐ声がまざり込む。それは思ったよりもずっと、胸を温かくしてくれるひと時だった。


「ねえねえジュリエッタ」


 目を閉じたままくつろいでいた私に、不意にミモザが声をかけてくる。目を開けると、そこにはびしょ濡れのミモザが立っていた。とても満足そうな顔だ。


「せっかくだから、一緒に行こうよ」


 そう言いながら、ミモザは手を差し伸べてくる。どうやら、よほど海で遊ぶのが気に入ったらしい。


「一緒にって、海へ?」


「うん。僕の背中に乗れば、泳がなくても海に出られるよ。船も近づかないのなら、誰かに見られる心配もないし。駄目かなあ」


 どうやら彼は、ここで竜の姿に戻ろうとしているらしい。期待に満ちた目で、こちらを見つめている。


 ミモザは小さな頃から、竜の姿で水遊びをするのが大好きだ。ところが今ではすっかり体が大きくなってしまったので、彼が遊べる場所は限られてしまっている。


 辺境にいた頃は、森の奥の湖に行けばよかった。けれど、このところ辺境には戻っていない。そして王都の周囲には、彼が安心して遊べる水場がないのだ。


「……そうね、見つからなければいいだけの話よね」


 顔を見合わせて笑うと、ミモザはすぐに竜の姿に戻った。狭い浜辺には彼の体が入りきらないので、下半身は海の中に浸かってしまっている。


 靴を脱いでから、腹ばいになったミモザの手のところまで歩いていく。手から腕へ、そして肩へとよじ上っていき、首の付け根あたりに腰を下ろした。その当たりには小さなひれが生えているので、つかまるのにはちょうどいいのだ。


「ミモザ、準備できたわよ」


『うん、じゃあしっかりつかまっててね』


 そう言うなり、ミモザは滑るようにして海に飛び出していく。少し緊張しながら、すぐ下で盛んに跳ね上がるしぶきを眺めていた。


 私を落とさないように、濡らさないように気をつけてくれているのか、ミモザは水面に長々と伸びて、あまり体を揺らさないように泳いでいる。


 後ろを見ると、とびきり大きな尻尾が器用にくねくねと動いていた。まるで蛇みたいだ。


『やっぱり、広いところでのびのびと泳ぐのっていいよね。人目を気にせずに水遊びできるのって、辺境の森の奥の湖くらいしかないから』


「人の姿でなら、泳げるところはたくさんあると思うけど……やっぱり、そっちの姿だと感じが違うの?」


『大違いだよ。このうろこが濡れる感触、気持ちいいんだ』


「さすがにそれは、私には理解できないわね……」


『だよね。残念』


 そんなことを喋りながら、広々とした大海原を勝手気ままに進み続ける。


 気づけば周りをぐるりと海に囲まれていたけれど、不思議なくらいに心は落ち着いていた。むしろ、この状況を楽しむ余裕すら生まれていた。


 足を伸ばして水を跳ね上げてみたり、魔法で空気の泡をまとって、そのまま二人一緒に深く潜ってみたり。あれほど怖かった海が、ミモザの背にいると怖くなかった。


『……あの、ね』


 そうやって思いつくままはしゃいでいると、不意にミモザがつぶやいた。


『ここの海は、僕とあなたが一緒に遊んだ、楽しい思い出の海。これからはそういうことでいいよね』


 思いもかけないそんな言葉に、一瞬ぽかんとしてしまう。けれど、すぐに笑顔で答えた。


「……そうね。今日ここに来なかったら、私にとってこの海は、辛い思い出のままだったわ。でもこれからは、楽しい思い出の一つね」


 それを聞いて、ミモザはほっとしたようにため息をついた。しかし今の彼は巨大な竜の姿なので、そのため息で水面に大きな波が立ち、水しぶきが豪快にはじける。それがおかしくて、二人一緒に笑った。


 ざばんざばんという波の音に、私たちの笑い声。急ににぎやかになった海原は、きらきらと日の光を跳ね返していた。

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