118.前世の私と今の私
結局私は、丸三日間村人たちを診ることになってしまった。
正確には、押しかけたのはエッセの村の人たちだけではなかった。
ここに薬師が滞在している、しかも格安で診てくれるという噂があっという間に広がってしまったらしく、近隣の村から病人たちがこぞってやってきてしまったのだ。
ある者は歩いて、またある者は背負われて、さらにある者は家族や仲間の引く荷車に乗って。
「……やっと、解放されたわ……」
村に来て四日目の朝方、村の外の道をとぼとぼと歩きながら、全身を使って大きくため息をつく。隣のミモザが、くすりと笑って頭をなでてくれた。
「ふふ、お疲れ様。みんなあなたのこと、すごいって言って褒めてたね。僕、鼻が高いよ。……あ」
金色の目を細めて微笑んでいた彼が、ふと道の脇の草むらに目をやった。ふらりとそちらに歩み寄って、草を数本摘んで戻ってくる。
「はい、薬草。村の人たちに怪しまれないためにも、一応集めておかないとね」
今私たちが目指しているのは、前世の私が最期を迎えたあの崖だ。
治療の順番待ちをしていた村人たちのお喋りにそれとなく聞き耳を立てているうちに、村の周囲の地形をさらに思い出した。あの崖の場所も。
ただそこに向かうにあたって、ちょっとだけ問題があった。
あの崖の周囲にあるのは、草地と森だけ。つまりその崖への道は、よそ者である旅人が用もなく近づくようなところではないのだ。
だから私たちは、ちょっと薬草を探しにいってくると言って村を出てきた。予想よりもたくさんの病人を診たから、手持ちの薬草が足りなくなってしまったと、そう言い訳をして。
ここ数日の私の働きっぷりを知っている村人たちは、私たちの言い分を疑うことなく快く送り出してくれた。ちょっと後ろめたくはあるけれど、十分に働いたし気にしないでおこう。
道々薬草を摘みながら、ぶらぶらと歩いていく。けれど少しずつ、私の足取りは重くなっていった。
エッセ村では長い年月の間に建物が変わり、人々の顔ぶれも変わっていた。だから私は、そう動揺せずに済んだ。
けれどこの道は、驚くほどに当時のままだった。そんなはずはないのに、木々の一本一本までがあの日のままのような、そんな錯覚に陥ってしまう。
「……ジュリエッタ、大丈夫?」
ミモザの心配そうな声に、意識が引き戻される。ひんやりとした悪夢から目覚めた時のように、ぶるりと身震いした。
「あんまり大丈夫じゃない気がするわ。さすがにここは、ね」
素直に弱音を吐いてから、もう一度前を向く。
「そこの林を抜けて、道なりに進めば浜に出られるの。けれどあの日、私は道を外れて右に走った」
そんなことをつぶやきながら、ふらふらと進む。次第に足取りが速くなっていく。
「春の終わりの、やけに暑い日だった。よく晴れた昼下がりで」
気がつくと、駆け出していた。あの崖に向かって。どうしてこんなことをしているのか、分からないけれど。早く、あそこに行かなくては、そんな思いにせかされるままに。
そうしてじきに、私は一人立ち尽くしていた。いつかと全く同じ空が広がる、崖の上で。
空の青と、海の青。その恐ろしく美しい色が、胸に突き刺さる。あの青に吸い込まれてしまいそうだ。ひたひたと胸に押し寄せる鮮やかな悲しみは、まるで海の波のようだ。あの日私を飲み込んだ、夕暮れの暗い海。
崖の端に向かってふらりと一歩踏み出した時、右手が強く引かれた。
「ロミーナ」
優しい声がする。私を呼ぶ、柔らかな声。これは誰の声だったか。
「行っちゃ駄目だよ、ロミーナ。君の悲しみは、もう終わったんだから。君を捨てたカルロも、もうとっくにこの世にはいない」
肩に手がかかり、くるりと後ろを向かされる。金色の綺麗な目に、思わず目を奪われた。
「もう、全部終わったんだよ。だから戻ってきて、ジュリエッタ」
その言葉と共に、ようやく意識がはっきりした。
どうやら私は、すっかり前世の自分に戻ってしまっていたらしい。それをミモザが呼び戻してくれたのだ。恥ずかしいやら、ふがいないやら。
ふうと大きく息を吐いて、ミモザの胸にこつんと額を当てる。
「……今さらロミーナと呼ばれることになるなんて、思いもしなかったわ」
ロミーナというのは、前世の私の名前だ。ミモザに前世のことを話した時に、その名前も教えてあった。
「あなたがすっかり過去の記憶に捕らわれてるようだったから、そっちの名前で呼んだほうがいいかなって思ったんだよ。嫌だった?」
「いいえ、的確な判断だったわ。……私は前世の記憶に助けられて、あの辺境の森で生き延びることができた。けれどその記憶は同時に、私の心の奥底に深い悲しみを刻んでいた」
そっと手を伸ばして、ミモザの胸元にすがりつく。
「けれどもう、私はロミーナじゃない。ただ泣くことしかできなかった、無力な娘ではないの」
「そうだね」
「私はジュリエッタ。侯爵家の娘として生まれて、いわれなき罪で追放され、長い時を生きる魔女となった」
「うん」
私を優しく抱き留めたまま、ミモザは穏やかにあいづちを打ってくれている。
「カルロは、ヴィートは私を裏切った。傷つけた。その痛みは、今でもやっぱり残っているの。忘れないといけないって、そう分かってはいるのだけど」
「……忘れられないなら、そのままでもいいよ」
ため息まじりの私の言葉を、ミモザはきっぱりと否定した。
「あなたが苦しんでいるなら、僕が支えるから。あなたはもうロミーナじゃないって、何度でも教えてあげるから。カルロやヴィートはあなたを必要としなかったけれど、僕にはあなたが必要なんだ」
ミモザは静かにささやく。低く柔らかな声で。彼の腕に力がこもっていく。
「僕はあなたを裏切らない、傷つけない」
その言葉に、古い古い記憶がよみがえる。あれは確か、ミモザがまだ子供だった頃のことだ。
東の街で聞いた、ヴィートの結婚の話。それをきっかけとして、ミモザは私とヴィートとの間に何かがあったのだと悟った。そして彼に詰め寄られるまま、私は過去を語った。かつて婚約者であったヴィートに捨てられ、追放されたことを。
それを聞いたミモザはひとしきり怒ってから、宣言したのだ。僕はあなたを裏切らない、傷つけないと。その言葉を告げた高く澄んだ声も、今でもまだそっくりそのまま思い出せる。
そっと顔を上げて、ミモザを見上げた。あの頃から何も変わっていないきらきらとした金色の目が、私をまっすぐに見つめている。
かつて悲しみに暮れて、あげくに命を落としてしまったその場所で、私はミモザと見つめ合っている。この世でたった一人の、他の全てと引き換えにして選んだ伴侶。
「……ここから落ちて死ぬことは、もうないわね」
「もちろん。あなたがうっかり落ちちゃっても、僕が助けにいくから」
「そうね。私にはとっても頼れる、大切な人がいるものね。それによくよく考えてみたら、私は飛行の魔法を覚えてたんだったわ。海に落ちたって、自力で浮かんでこられるじゃないの」
そんなことを話しているうちに、なんだかおかしくなってしまった。ついさっきまで過去の悲しみに突き動かされていたとは思えないくらい、晴れ晴れとした気分だ。
くすくすと笑いながら、空を仰ぐ。あっけらかんと晴れ渡った、のどかな青空が広がっていた。
「私、どうしてここにこだわっていたのかしらね。ファビオのせいでカルロのことを思い出してはいたけれど、そんな過去なんてどうでもいいくらいに、今が幸せなのに」
「きっとこうやってここに来ることも、あなたには必要なことだったんだよ」
「かもしれないわね」
すっかりいつもの調子を取り戻して、和やかに笑い合う。崖の下の海からは、カモメたちのにぎやかな声が聞こえていた。