117.もう一つの故郷
私たちを乗せた馬車はどんどん街道を進んでいった。けれどその街道が徐々に細くなり、ついにただの土の道になる。周囲の風景も、見晴らしのいい草原から、明るい森へと変わっていた。
「……なんだか不思議な匂いがするね?」
御者席に座り手綱を取っているミモザが、あごを上げて目を細めている。かすかに鼻を動かして、風の匂いをかいでいるようだった。
「匂い? 私には分からないけれど……ああ、もしかして潮の香りかもね。ちょっとしょっぱい感じの匂いでしょう?」
「うん。へえ、あれが潮の香りなんだ。魚の匂いとも、水の匂いとも違うんだね。それに、どんどん強くなってくる。あれは、波の音かな」
その時、私の鼻にもかすかな潮の香りが届いてきた。前世では毎日のようにかいでいた、すっかり生活の一部となっていた、懐かしい匂い。
「……海が、近くなってきたわね」
鼻の奥がつんとする。古い古い記憶が、次から次へとよみがえってくる。
子供の頃から暮らしていた木のあばら家。家族で、そして村のみんなで助け合っていた、貧しいけれど温かな暮らし。
男たちは海で魚を捕り、女たちは小さな畑を耕す。私は薬師の娘だったから、親の跡を継ぐためにあれこれと勉強していた。
あまりに昔のことだからか、それとも前世のことだからか、前世の両親の顔はもう思い出せない。けれど干した薬草を細かくしている時の、父親の手だけははっきりと思い出せる。
毎日が穏やかで、静かに過ぎていった。きっとこのままこの村で年を取り、子供や孫たちに囲まれながら一生を終えるのだとばかり思っていた。
あの男に、カルロに、裏切られるまでは。
「……ジュリエッタ。ほら、村が見えてきたよ」
ミモザの心配そうな声に、我に返った。
むき出しの土の道の先、丘の上に、粗末な木の家がいくつも並んでいるのが見える。左手には急な下り坂。あちらに向かえば、じきに浜辺に出られる。耳を澄ませば、波の音も聞こえてくる。
ああ、ここだ。私はここで、生まれ育ったのだ。
「ミモザ、間違いないわ。ここが私のもう一つの故郷。エッセ村よ」
「……そっか」
「自分でも驚くくらい、すんなりと思い出せたわ。ここの地形、当時とほとんど変わっていないのよ」
「だったら村には入らずに、このまま、その……最期の場所を探す?」
ミモザが言葉を選びながら、そう尋ねてくる。こちらを気遣うような色が、その金色の目には浮かんでいた。
「……いえ、まずは予定通り村に向かいましょう。村がどうなっているかも見てみたいし……それに、まだちょっと心の準備が、ね」
「分かったよ。だったら当初の予定通り、ってことだね」
「そうね。考えてみたら魔女……というか、薬師らしいことをするのって久しぶりね。前に東の街でバルガスたちと大暴れした時以来かしら」
「王都に来てからは、毎日遊んでいるか魔法の勉強をしているかのどちらかだったしね。東の街かあ……バルガス、元気にしてるかな」
この国が混乱し切っていた頃にたまたま出会った、少々柄が悪そうに見えて意外と律義な男。彼のことを思い出すと、つい笑いが込み上げてしまう。
「きっと元気にしているわよ。そろそろ王宮も落ち着いてきたし、そろそろあっちに遊びにいくのもいいわね」
「あっ、賛成。だったら早く、透明化の魔法を使いこなせるようにならないとね。よし、頑張ろうっと」
「焦らなくてもいいんじゃない? 馬車の旅も、楽しいもの」
そんなことを話している間に、馬車は村の入口にたどり着いていた。
「思ったより、すんなりと入れたね。それにしても、ちょっと埃がひどいな」
村のはずれにある小屋で、私とミモザは二人して掃除に精を出していた。
「ここは旅人を泊めるための小屋なのよ。この村は見ての通りの田舎だけれど、それでも行商人や薬師なんかが時々やってくるの。百五十年経っても、この仕組みは変わってなかったのね。ふふ、懐かしい」
「小屋自体は最近建て替えられるみたいだけどね。建てられてからせいぜい二十年ってところかな」
「この辺りは潮風が強いし、建物も見ての通り簡素だから。建物はこまめに建て替えるのよ。……それにしても、すごい埃。旅人がめったに来ないのも、相変わらずなのね」
さすがに、掃除道具は持ち歩いていない。なので村の者からはたきとほうき、それに雑巾を買った。
魔法でぱぱっと埃を吹き飛ばすこともできるけれど、そんなことをしたら間違いなく悪目立ちする。魔法を習得するには教本や教師が必要だから、普通の平民にとって魔法は高嶺の花だ。
それらを使って、私たちはせっせと小屋を掃除していた。木の寝台が二つ、それに机と椅子が置かれただけの、みすぼらしい小屋だ。
「……なんだかこうしていると、辺境の小屋を思い出すわね。あそこに追放された最初の日も、こうやってせっせと掃除したものよ。あれからもう、百年以上経つなんて」
「今日は、色々思い出してばかりだね」
手際良く掃除を進めながら、ミモザがぽつりとつぶやいた。いつもと同じように微笑んでいるけれど、その目はほんの少し寂しげだ。
「そうね、全部この場所のせいね。……明日にでも、例の場所を探しにいきましょう」
不思議なくらいためらいなく、そんな言葉が口をついて出た。このエッセ村に帰ってきたことで、過去と向き合う覚悟が固まってきたのかもしれない。
「それからちょっとだけ薬師としてここで働いて、また王都に帰る。それで、すっぱりきっぱり終わりにするわ」
「うん。でも、無理はしないでね。少なくともこの村の場所は分かったんだし、後日また改めてここに来たっていいんだから。僕の翼ならひとっとびだよ」
ミモザがことさらに明るく言い放ったまさにその時、小屋の戸が軽く叩かれた。
この村に入る時に、私たちは旅の薬師夫婦と名乗った。もし具合の悪い者がいるなら格安で治療すると、そうも言ってある。もしかすると、さっそく病人がやってきたのかもしれない。
今のお喋り、聞かれてしまったかもしれない。まあいいか、私たちの素性を知らない人たちには、きっと意味が分からないだろうから。
私たちは無言のまま笑顔でうなずき合い、扉に向かっていった。
そうして扉を開けた私たちは、二人同時に目を丸くすることになった。
「最近、腰が痛くてねえ……」
「漁で怪我をしちまったんだが、ちっと治りが悪くてな」
「うちの子、お腹が弱くって困ってるんです」
そんなことを口々に言いながら、村人たちがわっと押し寄せてくる。安く診てくれる薬師が来たぞと、そんな話があっという間に村中に広まってしまったらしい。
「ええと、なんで病人や怪我人がこんなにたくさんいるのかしら……というか、この村に薬師はいないの?」
あわてながらそう言ったら、集まっていた全員が首を横に振った。八十歳は超えていそうなよぼよぼの老人が、かさかさの唇を開いて答えてくる。
「わしが生まれた時にはもう、この村には薬師はおらなんだ……わしのひい爺さまが子供の頃にはおったらしいと、そう聞いておるがの……」
この老人の、さらに曾祖父。もしかしてその時にいた薬師って、前世の私の父なのでは。
前世の私は、代々薬師を務める家に生まれた。親から子へ、子から孫へ。知識と技術を代々受け継いで、村の人たちの力になっていた。
でもその流れは、どうやら私が死んだことで途絶えてしまったらしい。
あれは事故だった。私だって、死にたくて死んだ訳じゃない。けれど、ほんの少し申し訳なさを覚えてしまう。
「……そうなの。分かったわ、順に診ていくからまずは並んで」
そうして私は、次から次へとやってくる患者をかたっぱしから診ていった。ミモザも助手として、きびきびと立ち働いている。
こんなに忙しいのはいつぶりだろう。そんなことを思いながら、ひたすらに働き続けた。心の中にふわふわと漂っている申し訳なさを追い払うかのように。
どうにかこうにか患者を全部帰した時には、もう日が暮れていた。二人そろってぐったりと床に座り込み、長々とため息をつく。
「……まさか、一日中病人の相手をすることになるとは思わなかったわ」
「この分だと、明日も丸一日ここで仕事だね」
せっかく薬師が来たのだからと、薬草について尋ねてくる者や、ちょっとした健康相談をしてくる者もいたのだ。
そちらについては、一通り病人を見終わってから相手をすると約束して、いったん帰ってもらった。
あと、あまりの患者の多さに、今日のところはあきらめてまた明日来るよと言っていた者もいた。
つまり明日は明日で、そういった人たちが詰めかける訳で。
「明日、あの場所を探しにいこうと思っていたのだけれどね。仕方ないわ、明後日にしましょう」
薬草の箱を片付けながらため息をつく私を見て、ミモザはくすくすと笑った。
「そうだね。それにしても、こんなに小さな村なのに、ずいぶんと病人が多かったなあ」
「病気というよりも、ちょっとした不調をそのままにしている感じかしら。最寄りの町までわざわざ出かけていったり、わざわざ医者や薬師を呼んだりするほどのものでもない。そんな体調不良ね」
「確かに、ちょっと栄養のあるものを食べて、ゆっくり休めばそれで治ってしまうような人も結構いたね」
ミモザの言う通りだった。普通の薬師なら、そう言ってそのまま帰すに違いないくらいに軽い病人も、たくさんいた。
でも私は、そうしたくなかった。
「……この村にいるのは、かつての友人や知り合いや、あるいは親戚の子孫たち。そう考えたら、彼らに何かしてやりたいなって思えてしまって」
もう暗くなった窓の外を眺める。ぽつぽつと見える家々の明かりはまばらで、とても弱々しい。それはこの村の貧しさをありありと物語っているようだった。
「今でもやはり、ここは私にとっては故郷みたいなものだから。今まで怖がって遠ざけていたけれど、ようやく帰ってくることができた」
ミモザはゆっくりと立ち上がって、私のそばに座る。触れた肩が温かい。
「そうだね。……おかえりなさい」
私たちはそのまま、じっと寄り添っていた。心地良い疲れが、全身を満たしていた。