116.あの名前
「お金がうなるほどあるってことだけはすぐに分かるわね、この城……じゃなくて、屋敷は」
「うん。あと、権力に憧れもあるんじゃない? ここ、あくまでも豪商の屋敷なんだよね? でもちょっと王宮と似てる気がする。多すぎる装飾を除けば」
「そうね。だからこそ金で男爵の位を買ったりしたのだと思うわ」
城にしか見えない大きな屋敷の門の前で、こっそりとそんなことをささやき合う。
「……この屋敷に、何か御用でしょうか」
そんな私たちの姿が怪しかったらしく、うさんくさげな目をした門番が近づいてくる。
「え、ええ。この手紙を、屋敷の主に渡してもらえるかしら?」
あわてて取り繕いつつ、ファビオにもらった封書を見せる。その封蝋の印章と差し出し主の名前を見て、門番が表情を変えた。
「はい! 少々お待ちを!」
門番が屋敷の中に駆け込んでいくのを見届けて、そのまましばし待つ。やがて、屋敷の中から誰か出てきた。執事服をまとった老人だ。
「当家の家系図をご覧になりたい、とのことですね。ファビオ様からの口添えもございますし、ご要望にはお答えしましょうと、主はそうおおせです」
老人の口調も態度も、貴族の家に仕える執事そのものだった。ここって豪商の屋敷なのよねと内心首をかしげつつ、無言でうなずく。
「ですが、その……誠に申し訳ないのですが、本日主は大変多忙ですので、お客様と面会される時間が取れないとのことです。それでもよろしければ……」
「ええ、構わないわ。調べ物ができればそれでいいのだし、忙しい人の手をわずらわせたくもないから」
そう答えると、老人は静かに会釈した。それからゆっくりときびすを返し、私たちを奥へと招き入れる。
屋敷の中も、外側に負けず劣らず豪華だった。とんでもなく高価な置物に、美術品のようなじゅうたん。屋敷というより、王宮の宝物庫に似ている。お金があるのは分かるのだけど、ちょっとごちゃごちゃしすぎだ。
やがてたどり着いたのは、四方の壁に背の高い本棚が作りつけられた部屋だった。
「家系図は、そちらの本棚の上から二段目にございます。私は隣室に控えておりますので、何かありましたらお呼びください」
ささやくような声でそう言うと、老人は入ってすぐのところにある別の扉をくぐって奥の部屋に姿を消した。
「ふわあ、なんだか緊張したよ。ここ、本当に豪商の屋敷なんだよね? 王宮でふらふらしている時より緊張したかも。落ち着かない場所だなあ」
「そうねえ……身分とか立場とか権威とかに、ひどくこだわっている感じがするわね。ファビオに一筆書いてもらったのは正解だったわ。私たちだけだと、そもそも話すら聞いてもらえなかったかも」
「屋敷の主が僕たちに顔すら合わせようとしないのも、僕たちのことを下に見てるからかもね」
「あら、あなたもそう思った? それに、本家筋のこともちょっと気に入らないのかもしれないわね」
「うん。もとは同じ一族なのに、お前たちだけ出世しやがって! みたいな感じ?」
そう返すと、ミモザはいたずらっぽくにやりと笑って、声をひそめた。
「……ファビオじゃなくてヴィットーリオとかレオナルドに一筆書いてもらったら、面白いことになってたかもね。僕たちとの間柄についてもそれとなくほのめかしてもらって」
「……それはそれで、下にも置かないもてなしをされそうよね。考えただけで寒気がしたわ」
「だよね」
顔を合わせて、声を出さずに笑い合う。ひとしきり笑った後、ミモザが本棚に歩み寄っていった。
「さて、じゃあさっさと調べてしまおうか。あなたが生まれる前だから……百年前くらいから、順にさかのぼっていけばいいのかな」
そうして彼は一冊の本を手にとり、ぱらぱらとめくっていく。
「あ、これじゃないや。これ、僕が生まれた頃のだね。だったらもう一冊、いや二冊前かな……うん、これだ」
部屋の中央に置かれた大机の上に、ミモザは手にした本を広げた。二人並んで、家系図に書かれた名前を調べていった。
「入り婿のカルロ、だよね。それも、田舎の村の出の」
「村の名前がきちんと思い出せないのだけれど……とにかく、海のそばの小さな村だってことは確かよ。豪商の一人娘のところに婿入りしたのだったかしら」
「同じ名前は時々見かけるけれど、みんな入り婿じゃないね。そもそも、この国では珍しくもない名前だからなあ……ううん、思ったより手こずりそうな気がしてきた」
そんなことをささやき合いながら、私たちはどんどん家系図をさかのぼっていった。五年、十年と。
けれど私の胸の中には、何とも言えない思いが渦巻いていた。あのカルロの名が見つかって欲しい、そうすれば過去にけりをつけられる。けれど、過去を思い出すのは少し……怖い。
そんなことを考えているうちに、手が止まってしまっていた。
「大丈夫だよ、ジュリエッタ。見つかるのはただの名前だけだから。過去のあなたを苦しめたカルロは、ここにはいないから」
宙で止まったままの私の手を、ミモザがそっと握る。ゆっくりとそちらを見ると、優しい金色の目が私を見つめていた。
「……そうね。過去は過去。過去の人間は、もう何もできはしないものね。そんなものにおじけづくなんて、私らしくないわ」
「そうそう。……まあ、僕としてはどちらかというと、本物のカルロに会ってみたかったよ。ヴィートの時みたいに、いっぺんでいいから脅かしてやりたかったな。あなたを苦しめた分のつけ、払わせたかったなあ」
「もう、ミモザったら」
子供のように口をとがらせているミモザを見ていたら、自然と笑いが込み上げてきた。次第に、肩の力も抜けていく。
そうして私たちは、さらに探し物を続けた。そうして、百五十年ほど前の記録にたどり着いた時のことだった。
「エッセ村の、カルロ……」
その村の名を口にした時、一気に記憶がよみがえってきた。
前世で私が生まれ育った村では、普段は村の名を呼ぶことなんてめったになかった。その必要がなかったのだ。でもごくたまに外の人間相手に話す時、『自分はエッセ村の者だ』と名乗っていた。
「……たぶん、彼だわ」
「……そっか」
呆然と立ち尽くす私の隣にミモザがやってきて、そっと私を抱き寄せた。
「百五十年前かあ。結構昔だね。……どうする? ここの屋敷の人に聞いたら、カルロのお墓参りくらいはできるかもしれないけど」
私を気遣うように、いつもよりさらに穏やかな声でミモザが語りかけてくる。
「こんなところまでわざわざ来る機会、たぶんそうないんじゃないかな。それにもし機会があっても、あなたはもうここには来たくないって思うような気がするんだ」
「……そうね。それは間違っていないわ。少なくともこの先数十年は、この街には来たくないって考えそう」
「だから今、きちんと心残りを片付けておこうよ。あなたは、どうしたい?」
どうしたい。それは決まっている。さっさとカルロのことにもけりをつけて、心置きなくのびのびと過ごしたい。だいたい、百五十年も前のことに縛られているだなんて、人生の無駄遣いにしか思えない。
でも、今さらカルロの墓参りをしたところで、余計にもやもやするだけのような気がする。だからきっと、向かうべきなのはそこではない。
「……エッセ村に、行ってみたいわ」
今見たいのはカルロの名残ではなく、前の私が最期を迎えたあの場所なのだと、そう思った。きっとあの場所が、前を向くための鍵になる。そんな気がする。
私の目に決意の色を見て取ったのか、ミモザは穏やかに微笑んでうなずいていた。
それから私たちは、てきぱきと準備を整えていった。
まずは屋敷の主に許可を取って、家系図に書かれていた『エッセ村のカルロ』についての情報を書き写しておいた。またいずれ彼について調べたくなるかもしれないし、その時にいちいちここまで足を運びたくない。
それから街を回り、どっさりと薬草を買い集めた。これもまた、エッセ村を訪ねるためのれっきとした準備だった。
百五十年前、私の故郷であるエッセ村はかなりの田舎だった。男たちは海に出て魚を取り、女たちは家の仕事をする。毎日がその繰り返しだった。村を訪れる旅人なんて、年に一人いるかいないかで。
そして街の人たちに聞いてみたところ、あの村は今でも、当時とさほど変わらない暮らしが続いているようなのだ。
そんなところによそ者の私たちがふらりと現れたら、悪目立ちするに決まっている。村の人に警戒されてしまっては、何かとやりづらい。
だから、私たちはちょっとした芝居をすることにしたのだ。二人で気ままに旅をして、格安で治療をして回っている薬師の夫婦、そういう設定で。
実際に病人を診てやれば村人の態度も和らぐだろうし、村の中をうろつきまわる口実も作れる。
そうしてあちこち見ていれば、そのうちあの日の崖がどこだったかも思い出せるかもしれない。何とも行き当たりばったりだが、私たちらしいといえなくもない。
準備には丸二日ほどかかった。もっとも時間がかかってしまった理由は、『名物の海産品がおいしくて、つい準備をそっちのけにして屋台めぐりをしてしまったから』だったりするのだけれど。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
薬草の箱がぎっしりと積み上げられ、その隙間には魚や貝の干物の袋が押し込まれた馬車の中を見ながら、ミモザが明るく言う。
「そうね。私の中のじめじめした感傷に、引導を渡しに、ね」
そうして、私たちを乗せて馬車は走り出した。じっとしていたら暑くてたまらないような熱気の中を、南へ、海のほうへ向かって。軽やかに、風を切りながら。