114.いざ、船の旅へ
そうこうしているうちに夕方になってしまったので、その日はまた川辺で野宿した。
さらに次の日の午前中いっぱいを使って、昨日築いた土手をさらに補強する。一晩眠ったことでミモザもすっかり元気になったので、全力で作業に当たることができた。
「これだけしっかり固めておけば、よほどの大雨にならない限り大丈夫だね」
「そうね。……ただ、川の流れが変わってしまうのもまた自然の摂理だから、私たちがいじってしまうのも本当は良くないのかもしれないわね。今さらだけれど」
「今さらだよ。それにあのまま放っておいたら、川イルカたちが冷たい水を避けて、みんなで下流に移動しちゃうと思う。そうなったら、船着き場の人たちが困っちゃうよ。だからこれは、人助け」
すっかり元通りになった川を見ながらつぶやく私に、ミモザが明るく言い放った。
「そうね。私はお人好しでおせっかい焼きの魔女だもの。困っている人を見るとつい首を突っ込んじゃうのよね」
おどけてそう言うと、ミモザはおかしそうにくるりと目を回している。
「うわあ、自覚あったんだね」
「あら、それってどういうことなの?」
「ふふ、内緒」
「もう、ミモザったら!」
私たちの明るい笑い声が、きらきらと輝く水面の上を広がっていった。
それから小舟のところに戻り、川イルカと合流する。私たちの姿を見た川イルカは、嬉しそうにきゅいと鳴いていた。川の水が温かくなったからなのか、それはもう元気いっぱいだった。
「戻るのが遅くなってごめんなさいね。さあ、船着き場まで戻りましょう」
川イルカを小舟につなぎ直し、すいすいと川を下っていく。あっという間に、元の船着き場が見えてきた。
「ただいま。用事は済んだから、馬車ごと川下に運んでもらってもいいかしら。そろそろ、川イルカたちの調子も戻っているでしょうし」
にこやかにそう尋ねると、船着き場の男たちは戸惑ったような表情で答えた。
「あ、ああ。確かに、川イルカたちはもうすっかり元気だ。なんなら、前より元気なくらいだ。いまだに信じられない……」
「それを言うなら、川下に逃げていた川イルカがみんな戻ってきたことも、川の水が元通りに温かくなってきたことも不思議で……」
そう言って首をかしげていた男たちが、ふとこちらを見た。
「ところで結局、あんたらは上流で何をしてたんだ?」
「探検よ」
「散歩かもね」
しれっとそんな言葉を返しながら、二人並んでにっこりと笑う。男たちはまだ釈然としていないようだったけれど、それでもてきぱきと船を準備してくれた。
「あんたたちは川イルカを治療してくれた恩人だから、船賃はまけておくよ」
「いえ、代金はきちんと払うわ。あなたたちはこれで食べているんでしょう?」
「その代わり、色々話を聞かせてよ。川イルカのこととか、この船のこととか。僕たち、こういうのに乗るのは始めてだから、すっごく興味があるんだ」
私たちの言葉に、彼らは目を丸くする。それから同時に、深々と頭を下げた。
「ああ、分かった。俺たちの話でよければ、いくらでも」
その言葉に、今度は私とミモザが笑顔を見かわす。
「やったわね」
「うん、よかったあ」
長く生きている私たちにとっては、新しい体験、新しい知識は何よりもありがたい。まだまだ続く人生を楽しく生きるための、ちょっとした刺激になるからだ。
これは久々に、面白い体験ができそうだ。小さく鼻歌を歌いながら、二人で川船に乗り込んでいった。
そうして、私たちは大きな川船に乗って川を下っていた。もちろん馬車と、馬も一緒に。
川船を引いているのは、なんと八頭もの川イルカ。ちょうど多頭引きの馬車のように、きれいに並んで力強く進んでいる。
「ああ、川風が気持ちいいわ……」
王都から南に向かって進んでいるうちに、気温はじりじりと上がっていた。まだ真夏になってもいないのに、じっとしていても汗ばむほどの陽気になっていたのだ。
けれどこうやって森と水面を吹き渡る風を感じていると、そんな暑さも吹き飛んでしまう。気のせいか、船に乗せられている馬も心地良さそうだ。
「うん、すっごく気持ちいい。……飛ばなくても、こんないい風を受けられるんだね」
船を操っている二人の船頭に聞こえないように、ミモザもそんなことをつぶやいている。
船頭たちは川イルカたちに指示を出しながら、にこやかに話しかけてくる。彼らも、久しぶりに船を出すことができて嬉しいらしい。
「川イルカは、この辺の川にだけ住み着いているちょっと珍しい生き物なんです。ここと、近隣の数本の川にはたくさんいるんですよ」
「野生のやつはもっと下流、海の近くに多く住み着いてるんだ」
「こうやって船を引いているのは、飼いならしたやつなんです」
「野生の川イルカたちの前で小魚をちらつかせてやると、食い意地が張っていて人間を恐れないやつが近づいてくる。そういうのに餌をやって、呼び寄せるんだ」
「手なずけるのもしつけるのも、割と簡単なんですよ。あの子たちはびっくりするくらい人懐っこくて賢くて、遊び好きですから」
そう言いながら、彼らは川船の横を指し示す。そこには、川船につながれている子とは別の川イルカが楽しげに泳いでいた。それも、何頭も。
それらの川イルカは川船と速度を合わせながら、時々大きく跳ねてみせる。拍手をしてやったら、こちらを見てきゅいきゅいと鳴いた。どうやら、遊んでいるらしい。本当に人懐っこい。
「だからこの辺では昔から、川イルカの力を借りて人や物を運んでいたんです。ざっと百年以上の伝統のある、由緒正しい移動方法なんですよ」
百年。それは確かに、古くから続く伝統だといえるだろう。ただ私は大体百歳ちょっとなので、ああ、私が若い頃に始まったんだな、という少々おかしな感想も抱いてしまう。
もちろんそんなことは口にせず、微笑んだまま彼らの話にじっと耳を傾ける。
「でもあいにくと、川イルカと川船は他の地方ではほとんど知られていなくて……。王都に行った時にびっくりしました」
「こんなに便利で、こんなに可愛いのになあ。川船の乗り心地も素敵だしなあ」
「だから私たちは、広く宣伝して観光客を呼んでみてもいいんじゃないかって、そう考えていたところだったんです。まだまだ川イルカの数にも川舟の数にも余裕はありますから」
「そうすれば、ここももっと栄える。川イルカは人間が好きだからちょうどいい」
「ところが計画を練り始めたその矢先に、あの大雨で……本当についていません。なぜが今日は水が温かくなっていますが、また冷たい水がきたら……」
困り顔を見合わせている船頭たちに、朗らかに話しかける。
「ああ、それならたぶんもう大丈夫だと思うわ」
「昨日上流のほうを見てきたけど、またがけ崩れかなんかがあったみたいだね。川の流れ、元に戻ってたみたいだよ」
自分たちがせっせと働いてきたことはもちろん伏せて、涼しい顔でそんなことを言ってのける。もう心配することはないのだと、船頭たちがそう感じられるように。
「もし本当だったらありがたい話ですが……」
「今度、見にいってみるか」
私たちの思いは伝わったらしく、船頭たちはまだ戸惑いつつもそんなことを言っていた。実際に自分の目で確認すれば、彼らも納得するだろう。
……川の二度目の異変が人為的なものだと気づかないことに祈っておこう。一応、その辺の土砂をかぶせたりとそれっぽく偽装はしてきたけれど。
内心冷や汗をかいている私たちに、船頭が明るい声で話しかけてくる。
「ひとまず、情報をありがとうございます。それで、どこまで説明したでしょうか……」
そうして、この川について、川船についての話なんかが次々と語られていく。それに耳を傾けつつ、行く手の川と森をのんびりと眺めていた。
隣のミモザと軽く腕を組んで、船の手すりに身を預けながら。旅の目的すら、きれいさっぱり忘れるくらいに幸せな気分だった。
夕方近くなって、私たちを乗せた川船は下流の船着き場にたどり着いた。目的地である南西の街までは、もう後少しだ。次の宿場町で一泊すれば、明日の昼には着くらしい。
ここまで送ってくれた船頭たちと川イルカたちに手を振って別れを惜しんでから、二人で馬車に乗り街道を進む。話題は自然と、船旅の思い出になっていた。
「可愛かったね、川イルカ。帰りも乗りたいな」
「そうね。船に乗ったのは初めてだけれど、かなり素敵な乗り心地だったわね」
私の言葉に、ミモザが小さく首をかしげた。
「あなたって、確か前世は海のそばで生まれ育ったんだよね」
「ええ。とても暖かくて、というか暑いところだったから、よく浜辺で涼んだものだわ」
「だったら、船に乗ったこともあるんじゃないの?」
「それがね、故郷では船に乗るのは男だけだったのよ。女子供は船に乗せてはならない。そんな決まりがあったの」
遥かな昔を思い出しながらそう答えると、隣で手綱を操っているミモザの眉間にくっきりとしわが寄った。
「なんか、嫌な感じの決まりだね」
「そうでもないのよ。あの村にあったのは、小さな漁船ばかりだったから。揺れる小さな船の上で網を引いて魚を捕るのは結構危険なのよ。ちょくちょく死人も出てたわ」
もうずっと胸の奥にしまいこまれていた思い出が、勝手によみがえってくる。けれどそれは、決して不快な感覚ではなかった。
「だから、体力がなくて力の弱い者を漁につれていくのは危ない、そういう意味もあったのだと思うの」
「まあ、それなら納得もできなくもないかな」
そうして二人で苦笑し合ったちょうどその時、行く手に宿場町が見え始めていた。
「ああほら、今日の目的地が見えてきたわよ。川船のおかげで、ずいぶん楽ができたわね」
「でも、川の流れを直すのに手間取っちゃったから、結局時間としてはあんまり短縮できてないんだよね」
「あれもまた、旅の思い出ってことでいいんじゃないかしら。どうせ、急ぎの旅じゃないのだし」
「確かにね。とっても楽しかったし」
大きな赤い夕陽を背負った宿場町からは、おいしそうな匂いが流れてきていた。