111.川イルカたちの受難
そのまま街道を南西に走っていると、じきに大きな川が見え始めた。風に乗って、ひんやりとした水の匂いが流れてくる。
「このまま進むと、あそこの大きな橋を渡ることになるみたいだけど……」
「確か、橋は渡らずに川沿いに北に向かえ、って言ってたわね」
そろそろ薬が効いてきたらしく、頭痛も治まっていた。御者台に上がって、うんと伸びをする。
「あっ、あそこじゃないかな。ほら、草原の中に細い道がある」
ミモザが手綱を取りながら、右手の草原を指し示した。よく見ると、草地の中に道のようなものがある。その道は川の上流、北側に向かって続いていた。
「川船、楽しみね」
「川イルカって、どんな生き物なのかなあ。気になるよ」
そんなことを言い合いながら、私たちは馬車を北の細道に向けた。
「……あれ、何かしら」
細道を進みだしてすぐに、妙なものが見えてきた。
大きくゆったりとした川の水は、雨の後のように土色に濁っていた。その中に、何か浮いている。
つるりとした大きな、やや細長い形をした淡い桃色の何か。馬よりもまだ大きなそれは、流されまいとしているのか弱々しく泳いでいた。
「あれって、生き物……だよね。なんていう生き物なのかな。魚にしてはうろこがないし、ナマズにしては顔が違うし」
ミモザもしきりに首をかしげている。
「もう少し近くで見てみない?」
「そうね。気になるわ、あれ。あんなところで何をしているかも」
馬車を止めて、徒歩で川べりに近づいていく。
のっぺりとしたそれには、良く見ると尾びれと胸びれ、あと背びれのようなものがあった。それは私たちに気づくとよろよろとこちらに泳いできて、きゅい、と弱々しく鳴いた。
「魚……じゃないわね、今鳴いたし。でも、そもそも聞いたことのない声だわ」
「どっちかというと馬に似てる気もするね。不思議な生き物だなあ」
その謎の生き物は流れに逆らうように必死に浮かびながら、つぶらな黒い目でこちらをじっと見ている。
助けを求めているように思えるのは気のせいだろうか。どことなく、体調が優れないような表情をしているような。
「あっ」
その時、頭の中に薬草の名前が次々に浮かび上がった。病人を前にした時の、最適な薬草の組み合わせが自然と分かってしまう、あの不思議な感覚。
ぽかんとしたまま薬草の名を口走る私を見つめて、ミモザが目を丸くする。
「ええっと……その組み合わせだと、腹痛の薬ができるね」
長年私と過ごしているおかげか、彼もすっかり薬に詳しくなっていた。よほど特殊なものでなければ、だいたい効能を当てられるくらいには。
「そうね。冷えて弱ってしまった胃腸を整え、穏やかに回復させる……この大きな魚、お腹でも壊してるのかしらね」
「どうする?」
「せっかくだし、治療してあげましょうか。必要なものは馬車に積んであるし、何とかなるでしょ。……さすがに、魚の治療をするのは初めてだけど」
そんなことを言いながら馬車に戻り、二人でせっせと薬を調合する。その間、あの大きな魚は顔を岸辺に乗せて、必死にこちらを見つめ続けていた。
あの魚、さっきよりちょっとほっとした顔をしている気がする。まさかとは思うけれど。
「さて、薬ができたのはいいんだけど……どうやって飲ませたものかしら」
薬の煮出し汁が入った椀を片手に、悩みながら魚に近づく。その間も魚は逃げることなく、小刻みに震えながら私の手元をじっと見ている。
やっぱりこの魚、私たちがやろうとしていることを理解しているような。だったら……。
「……これ、薬なんだけど……口、開けてみない?」
物の試しとばかりに、魚に話しかけてみる。自分の口元を指し示しながら、そっと口を開けてみせた。通じる訳ないだろうなとそう思ったけれど、一応。
しかし魚は、きゅい、とまた小さく鳴くと、細かい歯がずらりと並んだ口をぱかりと大きく開けたのだ。
「うわあ、本当に言葉が分かってるのかな。それとも、偶然?」
すぐ後ろから、ミモザの驚いた声がする。真相はどうであれ、まずは薬を飲ませてみよう。
開いた口に、手にした椀の中身をぶちまける。冷ましてあるから遠慮なく一気に。
と、魚がびくりと身を震わせる。けれど薬を吐き出すことなく、ちゃんと口を閉じていた。そしてそのまま川の中でびちびちとはねている。苦しそうだ。
「……まあ、あの薬苦いからね……」
魚の暴れっぷりを見ながら、ミモザがしみじみとつぶやいている。彼自身はこの薬の世話になったことはないけれど、好奇心にかられて味見したことがあるのだ。
しばらく川の中でのたうち回った後、また魚はこちらにやってきた。気のせいか、さっきよりちょっとご機嫌のように思える。
魚は私たちを交互に見て、一声鳴いてから川の上流に泳ぎ始めた。それをぼんやりと見送っていると、魚はぴたりと動きを止めた。こちらを振り返って、きゅいきゅい、とさらに鳴いている。
「ねえミモザ、ついてこい、って言ってる気がするのだけど」
「僕もそう思う」
「私たちの目的地も川上のほうだし、一応そのままついていってみましょうか」
二人して馬車に乗り直し、魚と並走しながら細道を走る。そうしていたら、行く手の川辺に何かが見えてきた。
頑丈な床に太い柱を並べ、その上に屋根を乗せただけの簡素な木の建物だ。とはいえ結構歴史のあるものみたいだし、割と大きい。壁のない大きな倉庫みたいな感じだ。
「あれが、川舟の乗り場かしら」
「たぶん、そうじゃないかな。でもなんだか、様子が変じゃない?」
首をかしげながらその建物に近づき、馬車を止めて様子をうかがう。
建物の中には男が数人集まっていて、並んで川のほうを見つめていた。困ったように腕組みしている者や、ため息をついている者もいる。
「すみません、川舟の乗り場はここですか? この辺りなのだと近くの宿場町で聞いてきたんですが」
たまたま通りがかったごく普通の夫婦のふりをして、男たちに話しかけてみる。彼らは一斉にこちらを見て、それから同時にうなだれた。
「ああ、確かにそうなんだが……今、ちょっと川船は……」
彼らの目線が、また川のほうに向かう。つられてそちらを見ると、そこにはさっきのものと同じ、大きな魚のような生き物がたくさん泳いでいた。けれどみんな、元気がない。
ここまで私たちを案内してきた魚が、心配そうな顔でその間を泳ぎ回っていた。しかもちらちらと、こちらを見ている。
男たちは川の中を見つめたまま、一斉にため息をついた。
「見ての通り、川船をひく川イルカがみんな体調不良でな。……なんでか、一頭だけ回復したみたいだが」
「春の終わりの大雨で、上流のほうで流れが形を変えてしまったんだよ。そのせいで、川の水が冷たくなってしまったみたいなんだ」
「あれから、体調を崩す川イルカが増えてしまったんです……」
「それに冷たい水を嫌って、かなりの数の川イルカが下流の方に移動しちまってな。ここに残ってるのは、俺たちに特になついてるごく一部で……」
「これから水温が上がっていくはずだから、そうなればこいつらもまた元気になるはずなんだ。それまで、川船の営業は延期かな……わざわざ来てもらったのに、すまないね」
てんでにそう言って、彼らはまたうなだれた。分かりました、と答えて、いったんその場を離れる。
「あの魚が、川イルカだったんだね。ところで、他の子たちの体調不良も治せそうだったりする?」
まだ川辺で頭を抱えている男たちに聞こえないように、ミモザが声をひそめて尋ねてくる。
「ええ。さっき診たあの子と同じ調合よ。きっとみんな、水が冷たくなったせいでお腹を冷やしちゃったのね」
「だったら、治してあげる?」
「そうしたいのはやまやまなのだけど……手持ちの薬草が足りないのよ。さっきの感じだと、一頭当たりそこそこたくさんの薬草が必要になりそうだし」
「さっきの町に、在庫があるかなあ」
「小さな薬屋ならあったわ。でもたぶん、ほぼ買い占めることになってしまうと思うの。そうなったら、他の旅人や町の人が困るでしょう」
「なら、やることは一つだね」
「そうね」
こんな短いやり取りでも、私たちは互いの考えをくみ取ることができる。それくらいに、私たちは長い時間を共に過ごしている。人間の夫婦では、あり得ないほど長く。
私たちは馬車と一緒に、もう一度船着き場に向かって歩いていった。
それから少し後、私はミモザと二人で森の中を歩いていた。馬車を船着き場の男性たちに預かってもらい、周囲の森に薬草を探しに出ていたのだ。
幸い、必要な薬草は広く自生しているものなので、探すのにそう苦労はしなかった。
風の魔法を弱めに発動させて草や茂みをかき分け、どんどん突き進む。足場がないところは、加工の魔法で即席の道を作って。そうこうしていたら、ほんの数時間で十分すぎるくらいの量が集まった。
「本当は、一度干したほうがいいのだけどね。生のままだと、苦みと青臭さが強く出るから」
「薬効は変わらないんだよね? だったらもう、生のまま煮込んじゃおうよ。あのまんま苦しませておくのもかわいそうだし、ちょっと苦いのは我慢してもらって、ね」
ミモザは薬草がたっぷりと入ったかごを持ちながら、優しい顔でそんなことを提案してくる。
「……やっぱり、それしかないでしょうね。私は医者じゃないからはっきりとしたことは言えないけれど……あれ、一日や二日で治るものでもないと思うから」
そんなことを話しながら、たくさんの薬草と共に船着き場に戻ってくる。男性たちの困惑した視線を浴びながら、大量の薬を作る準備に取りかかった。
大きな布を広げて、そこに薬草をずらりと並べていく。その時、足りないものに気がついた。男性たちのほうを振り返って、身振り手振りを交えて話しかける。
「ねえ、大鍋がないかしら。これくらいの。もっと大きくてもいいのだけれど」
「あるが……どうするんだ、そんなもの」
これだけの薬草をまとめて煮込むには、結構大きめの鍋が必要になる。でも私たちは旅の途中だから、当然ながらそんなものは持っていない。加工の魔法で作れなくもないのだけれど、そんなことをしたらかなり目立ってしまう。既に結構目立ってはいるけれど。
だから彼らに借りられないかなと思ったのだ。船着き場の隣にある小屋、あれって管理人が寝泊まりするためのもののように見えるし、鍋くらいあるかも、と。
ひとまず問いには答えてくれたものの、男たちは私たちが何をしているのか理解できていないらしく、まだ呆然としている。
「川イルカの薬を作るのよ。今、必要な薬草は摘んできたから」
「薬を作るって、あんた医者か何かなのか?」
「私は薬師よ。さっき、通りすがりに一頭治療してきたところ。川イルカを治療するのは初めてだけど、うまくいったわ。ほら、あの子」
私の言葉に応えるように、一頭だけ元気な川イルカがきゅう、と鳴いて合いの手を入れた。やっぱりこの生き物、人間の言葉が分かっているのでは。そう思わずにはいられないほど、見事な合いの手だった。
「さっき下流で出会って、薬を飲ませたんだよ。ずっとしんどそうにしていたけれど、だいぶ良くなったみたいだね」
ミモザがさらに言葉を付け加える。川イルカが嬉しそうに、またきゅうきゅうと鳴いた。
男たちはまだちょっと信じられないという顔で、それでも大鍋を持ってきてくれた。
そこに水を張って、摘んだ薬草をざっくりと刻んで放り込む。それを火にかけて、ぐつぐつと煮え始めたら少し火を弱くしてもうちょっと煮込む。
「うん、そろそろだね」
そう言って、ミモザが手桶とひしゃくを手にする。火を消して、大鍋の中の煮出し汁を手桶に移していった。だいたい冷めたところで、ずらりと並んだ川イルカの口に次々と煮出し汁を放り込む。
「たぶんこれで、数時間もあれば良くなると思うわ。特に調子の悪い子たちは、完治まで丸一日くらいかかるかもしれないけれど」
私の言葉に、さっきの川イルカがまたきゅいと鳴く。男たちはまだ呆然としていたけれど、やがて誰からともなく頭を下げてきた。
「ありがとうございます、助かりました」
「まさかこんなところに、薬師の方が通りがかるなんて」
「恩に着るぜ。川イルカたちの分も、礼を言わせてくれ」
彼らの感謝の言葉に、笑顔で答える。川イルカがかわいそうだったからおせっかいをやいただけなの、気にしないで。そう答えつつ
それはそうとして、さっきから一つどうにも気にかかっていることがあった。
「ねえ、ミモザ」
「うん、ジュリエッタ」
「もうちょっとだけ、寄り道が必要よね」
「だね。さっそく行こうか」
首をかしげている男たちを尻目に、私とミモザはうんうんとうなずき合っていた。