109.久しぶりの二人旅
「ふふ、やっぱり旅っていいよね」
ほろ馬車の御者席で、ミモザが浮かれた声を上げている。私はその隣に座って、風に髪をなびかせていた。夏の気配のする、濃い緑の香りの風だ。
石畳の上を、馬車は軽やかな音を立てて走っている。王都を出て、南西の大きな町へ受かって。
ファビオから封書を受け取った私たちは、すぐに旅の準備に取りかかった。ちょっとうきうきしながら。
「旅に行きたいなって前から言ってたけど、こんな形で出かけることになるなんて思わなかったな」
「そうね。調べものをするため……だけど、どうせなら旅そのものも楽しみたいわね」
「まだ、透明化の魔法を使いこなせてはいないけど、馬車でのんびり進むのも楽しそうだね」
ミモザは透明化の魔法の練習中で、短時間なら透明になったまま移動できる。けれどさすがに、自由自在に使いこなすにはもうしばらく練習が必要らしい。
「……きちんと透明になれるまで、竜の姿で飛びたくないし……緊急事態ならともかく……」
「ふふ、これ以上『白き竜の神様が降臨した地』を増やしたくないものね」
複雑な表情で口ごもるミモザに、明るく笑いかける。そうこうしているうちに、旅の荷物ができあがっていた。
長く生きてきて、毎年のようにあちこちに遊びにいっていた私たちは、旅の準備もお手の物だった。というか、人里ならお金と薬草があれば大体何とかなるし、野宿は得意だし。野の獣も賊も怖くないし。
そうして荷物をまとめた私たちは、馬車を一台用意した。ここから南西というと、さらに暑くなる。辺境の冷涼な気候に慣れた私たちには、ちょっと辛いかもしれない。
だから四方に壁がある箱馬車ではなく、前後が吹き抜けになっているほろ馬車を選んだ。
前側が一段高くなっていて、そこが御者席になっている。ひさしがあるから日差しは遮られるし、風は通る。これなら、道中も涼しく過ごせるだろう。
荷物を馬車に手早く積み終えて、王宮のみんなにあいさつをして回る。ちょっと出かけてくるわ、と。
みんな私たちの気まぐれな行動には慣れてしまっているので、とても気軽に送り出してくれた。と思ったら、メリナがやけに真剣な顔で何かを差し出してきた。
「おそらく大丈夫だとは思いますけど、こちらと連絡を取りたくなったらこれを使ってください」
それは、野鳥の卵そっくりの何かだった。しかも三つも。綺麗な青色のそれを小さな袋にしまうと、彼女はその袋を手渡してくる。見た目よりずっと重い。
「これは使い魔の卵で、魔力を注げばふ化して小鳥になります。私のところに戻ってくるように設定してありますから、その小鳥に伝言を持たせてください」
それからメリナは、袋を指さした。その表面には、複雑な模様が描かれている。おそらく何らかの魔法陣だろう。
「この魔法陣は、使い魔をあなたのところに送るための目印になっています。こちらから伝えたいことができたら使い魔を飛ばしますので、この袋は肌身離さずに持っていてください」
「ありがとうメリナ、助かるわ。こんなものまで作れるなんてすごいわね」
「わ、私は使い魔の魔法が一番の得意分野ですから、これくらいたいしたことありません」
彼女の口元はとても照れ臭そうに、そしてたいそう得意げに上がっていた。平然とふるまおうとして失敗している。
前からそんな気はしていたけれど、メリナは褒め言葉にめっぽう弱いし、かなりの照れ屋だ。ただ、色々と素直じゃないだけで。可愛い。
袋を服の隠しポケットに大切にしまい込みながら、彼女にもう一度礼を言った。
「べ、別に……今の王宮では、まだお二人の力を借りる必要があるかもしれないからで……お二人が旅の最中困ったりすることなんてないってないだろうって、分かってますし。だから、お礼なんて」
つっけんどんに答える彼女の口元は、やはりちょっぴり嬉しそうに笑っていた。
そんなやり取りを経て、私たちは久々にのどかな旅に出た。ミモザが手綱を操って、私はその隣でのんびりと飾り紐を修理して。
目的地である南西の街までは、急げば片道半月ほどの道のりだ。馬車ではなく馬ならもっと早く着けるのだけど、どうせなら旅をのんびりと楽しみたい。
「せっかくだから、何かおみやげを買って帰りたいよね。馬車だから、少々買い過ぎても問題ないし」
手綱を取りながら、浮かれた声でミモザが言う。
「南西の街って、海産物が名産品らしいわね。海が近いから」
「海かあ。僕も先代の竜も、海を見たことはないんだ。ついでにちょっと足を延ばして見に行きたいな」
「そうね、それもいいかもしれないわね。私も久しぶりだし」
思えば、最後に海を見たのは前世でのことだ。今の私が生まれ育ったあの屋敷も、そして王都も、海からはずっと遠い。そして追放先である辺境にいたっては、ひたすら高い山と深い森ばかりだ。
辺境で暮らし始めてから、毎年春先にあちこち遊びにいっていた。けれど海の近くにいったことはなかった。雪が解けてから旅に出て、春野菜の種をまく時期には戻ってくる。そんな制限があったので、そう遠出もできなかったのだ。
「ああ、やっぱりあなたと二人きりっていうのはいいなあ」
そう言って、ミモザが幸せそうに目を細めた。王都を発ってから、何度この言葉を聞いただろうか。
「王宮でも、ほぼずっと一緒に行動していたでしょう? 小屋では二人きりだし」
「それはそうだけどね。でも僕は、王宮の近くに住むようになってからずっと、ううんその前から、あなたと二人きりで旅がしたくてたまらなかったんだ」
「確かに、ここ一年くらいずっとばたばたしていたものね」
去年の春先、東の街に遊びにいった私たちは、街の荒廃ぶりに驚いてそのまま辺境の小屋に戻った。そうして、ヴィットーリオとロベルトに出会った。
それから秋の終わりまでは、ずっと二人を鍛えていた。王族の、貴族の身分を捨てることになった彼らが、森の中で自然の恵みと共に生きていけるようにと。
ところが冬の初め、いきなり追っ手がやってきた。いったん避難しようとみんなで小屋を出て、東の街へ向かった。でもそこで色々あって、結局王都に戻ってきた。
あの冬の旅も、一応旅ではあった。けれどあの時は、追われる者としての悲壮感のようなものが常に付きまとっていた。いつもの気軽な旅とは、まるで違う。
そして今年の春は春で、魔術師たちの騒動に巻き込まれててんやわんやになっていた。珍しい体験ではあったし、今となってはある意味楽しくもあった。けれどこれも、二人きりの旅ではなかった。
「……改めて思い出してみたら、ばたばたなんてものじゃなかったわ……数十年分くらいの騒ぎが一気にやってきた感じだった……」
「そうそう。だからこの旅の間は、全部忘れてゆっくりしようよ」
ミモザがそう言いながら、私の顔をのぞき込む。そうね、と答えて笑いかけると、彼も心底嬉しそうに笑った。ガラスのように透き通った、天使を思わせる笑顔だった。
何物にもせかされない、二人きりの久しぶりの旅。それはとっても楽しかった。あれこれとお喋りをしながらのんびり馬を走らせ、夜は夜で宿場町の中を二人でぶらつく。
それに昼間ののどかな時間を、飾り紐の修理に充てることもできた。ほどいてつないだ革紐に少しずつ鉄鉱石を根気よく少しずつ融合させていく。そんな地道な作業も、こうやって風を浴びながらだと結構はかどった。
王都よりも南のこちらのほうにはほとんど来たことがなかったので、何もかもが目新しくて興味深い。道の両脇に並ぶ建物、食べ物、雑貨。王都からそう離れてはいないのに、ほんのちょっとだけ様子が違っていた。
先に進むほど、さらに雰囲気が変わっていく。それを楽しみながら、私たちはずっと笑顔で進み続けていた。
そうして数日後、比較的大きな宿場町にたどり着いた。
「いよう、べっぴんさん。俺たちと付き合ってくれや」
夜の街に繰り出して屋台巡りをしていた私とミモザに、そんな声がかけられる。
声の主は酒臭い男たちだった。割とこざっぱりした格好の、中年というにはやや若い三人組の男性だ。身なりからすると旅人ではなく、地元の人間だと思う。
彼らからは危険な感じはしない。まあ、ごく普通の一般市民といったところだろう。ただいかんせん酒が入りすぎている。さっさと家に帰って寝たほうがいいように思える。眠らせてやろうかしら。
こっそりと荷物の中を探る。いざという時のために、眠りをもたらすマジマの粉を詰めた袋がそこにあるのだ。
その時、男たちの一人が朗らかに笑った。
「こりゃあまた美人ぞろいだなあ。女同士で食事ってのも、味気ないだろ?」
その言葉に、私とミモザは同時に目を見開く。何ともおかしなことに、彼らはミモザのことを女性と間違えているようだった。しかも、食事に誘っている。
確かにミモザは天使を思わせるような線の細い美形だ。それに、相変わらずぶかぶかの上着を着ているせいで体の線は半ばほど隠れている。
酔っ払いたちが女性と間違えるのも、無理はないかもしれない。酔ってなくても間違えそうだし。
「僕は男だよ。そしてこちらは僕の奥さん。夫婦水入らずなんだから、邪魔しないで」
苦笑しながら、ミモザがそう釘を刺す。必死に笑いを噛み殺している私のほうに、ちらりと視線をよこしながら。
酔っ払いたちはぽかんと口を開け、それから一斉に顔を突き出してミモザをまじまじと見た。
「へえ、言われてみれば男……男か? 男だよなあ? まあ、声は確かに男か? いや、高くて澄んだ綺麗な声……んん? 自信なくなってきたぞ」
「驚いたぜ。もったいねえなあ。こんなにべっぴんなのに」
「お似合い……というか、似合いすぎの夫婦だよなあ」
「分かってくれた? じゃあ、僕たちは行くね」
そう言いながら、ミモザはすっと私の肩を抱く。しかし酔っ払いたちの反応は、完全に予想を裏切るものだった。
「ま、いいんじゃねえか? この際男でも、夫婦でも」
「なああんたたち、俺らと一緒に飲もうぜ。いい店知ってるんだよ。とびきり飯のうまい、最高の場所さ」
「男でも、これだけ綺麗ならじゅうぶん酒のつまみになるぜ。べっぴんさんが二人、最高だ」
男たちは口々にそんなことを言っている。彼らは一体何がしたいのか。訳が分からない。
「……酒のつまみって、どういうことなのかしら」
「どうって、そりゃあそのまんまの意味だよ。あんたらを見てたら、いい感じに酒が進みそうだなって」
「せっかくだから、きれいどころを見ながら飲みてえよな」
「むさくるしい顔を突き合わせてるのにも飽きたんだよ。目の保養がしてえ!」
彼らはそんなことを言いながら、うんうんとうなずき合っている。少々礼儀はなっていないようだが、悪い連中ではなさそうだ。
「どうするの?」
ミモザがこっそりとささやきかけてくる。少し悩んで、言葉を返した。
「……まあ、たまにはいいんじゃないかしら。彼らは地元の人間みたいだし、いい店っていうのに興味があるのよね」
「あなたって、おいしいものに目がないよね」
「そういうあなたこそ、目新しいものが大好きじゃない」
「長い人生を楽しく生きるには、ささやかな刺激も大切だと思うんだ」
そんなことをひそひそ話している私たちを、酔っ払いたちが戸惑い気味の目で見ていた。
どうやら私とミモザがあまりにも落ち着き払っていることに、逆に驚いているらしい。確かに普通の若夫婦であれば、こんな状況になったらもう少し取り乱すものだろう。
彼らの方に二人同時にくるりと向き直り、にっこり笑う。
「そうね、だったらご一緒させてもらおうかしら。いいお店とやらに、連れてってくれるのよね?」
「お、おう。じゃあ行くか」
「しっかし、えらく肝のすわったべっぴんさんだぜ……たぶんどこかで逃げちまうんじゃねえかなって思ったんだけどな」
「俺たち、がさつだもんな。見た目怖いし」
「しかしそっちの嬢ちゃん……若いのに、なんというか……かあちゃんと話してる気分になるのは俺だけか?」
「お前もか。俺もそう思った」
どうにも失礼なことを口にしつつも、酔っ払いたちはのそのそと歩き出した。
「かあちゃん……そんなことを言われるなんて、思いもしなかったんだけど……」
「落ち着きと包容力があるって意味だよ。ほら行こう、ジュリエッタ」
いまいち釈然としない私の腕を取って、ミモザも歩き出す。よく見たら彼は、笑いを噛み殺していた。
「それはまあ、実年齢なら、ね……」
そんなことをつぶやきながら、私はただミモザに引きずられていった。