月はこんなに綺麗なのに
パソコンにカメラとマイクとディスプレイをセットして、ビデオチャットのアプリを立ち上げる。カメラもマイクもタブレットについているけど、こっちの方が画質も音質もいいもの。
今日はちょっと気分を変えて、家のベランダに出てみよう。WiFiは好調、ここからでも問題なく通信出来る。遠くには、空に伸びる建物の明かり。それを見ると、ちょっと切ない気分になる。
お酒とおつまみをお気に入りの食器に盛ってテーブルに置いて、照明はムードのあるLEDキャンドルライトで。寒いので、足元にはヒーター。それからお化粧も忘れずに。
今夜は一週間ぶりのデートだ。オンラインなのがちょっと残念だけど。
待ち合わせの時間になると、すぐにチャットルームに彼が入って来た。この時間になるのを待ちかねていたみたい。何となく可愛く感じて、ちょっと笑ってしまう。
『ハロー、明日菜。元気だった?』
一週間ぶりに見る彼、和真。何か変わったような、ちっとも変わってないような。
「元気だよ。和真はどう?」
『俺も変わりはないよ。……あれ、今日は部屋じゃないんだね?』
「うん。今日は特別に、我が家のベランダからお送りしてまーす」
『ベランダ? そっちは冬なんだろ、大丈夫なの?』
「大丈夫。寒さ対策も感染対策も、しっかりしてるから」
わたしは和真に微笑みかけた。
和真と付き合い始めてから三年が経った。出会った時から何となく惹かれるものがあって、付き合うごとに想いは強まり、いずれ結婚したいと考えるようになった。和真に長期出張の辞令が下ったのが二年前。その仕事は和真の専門知識を必要とするもので、彼が直接行かないといけなかった。わたし達は遠距離恋愛をすることを選んだ。
それでも、時々はこちらに戻って来て会っていたのだけど──一年前、新種のウイルスによる感染症が発生した。ウイルスはあっという間に世界中に広がり、パンデミックとなった。
ある所では街が封鎖され、ある所では国の出入りが禁止され、人々の多くは家から出られなくなり、それでもウイルスは猛威をふるった。本当だったら今頃帰って来て、一緒に結婚の準備をしている筈の和真は、いつ帰れるかすらわからなくなった。
幸いネットは通じるので、こうして週に一度程度、ディスプレイ越しに会っている。お互い、ほんの少しの不安を抱えながら。
「和真、ちゃんとご飯食べてる? 忙しいとすぐ食事を抜くんだから、心配だよ」
『ちゃんと食べてるよ。明日菜、顔を合わせる度にそう言うんだから。物資はストックがあるし、ある程度は自給自足も出来るから、普通に生活は出来るさ。こっちに来る物資は全て厳重に殺菌処理されているから、新型ウイルスの感染もまだ確認されてないしね』
「それでも、心配だよ」
『俺は君の方が心配だよ。俺の知らない所で明日菜がウイルスに感染してしまったら、って思うとさ』
「わたしだって、ウイルスに感染しないような対策はしてるよ。アルコールで消毒しすぎて、手が荒れちゃった。ほら」
わたしは和真の鼻先に手を突き出した。和真は苦笑いした。
「……ねえ、和真、いつ戻って来れるのかな」
『このパンデミックが治まらないと、当分は無理だろうね』
和真は正しい。理系だし、冷静だし、思慮深いし。そんな和真の言うことは、大抵は正しい。でも世の中、正しいだけでは成り立たない。わたしの気持ちはおさまらない。
「実際のわたしに会ったら、きっと驚くよ。あまり出歩かないから、前より太っちゃった」
『全然そんな風には見えないよ』
「実際に見て、触れてみたらわかるよ」
『俺もさ、暇な時は筋トレばかりしてるんだ。だから俺も、触れたら前とは違ってるかもなあ』
わかってない。実際に触れて欲しいって言ってるのにさ。
「……和真、今夜わたしがどうしてベランダに出てるか、わかる?」
『え?』
わたしは空を指差した。多分和真には見えないけれど。
「今日は満月なの。月がとっても綺麗なの。だから、月を見ながら話をしたかったの。──あなたのいる場所だから」
……そう。和真の出張先は、月面コロニー。
塔のように高く伸びる軌道エレベーターの先にあるステーションから、月への定期船が出るようになって何年か経つ。まだ一部の企業や研究機関の人しか行けないけれど、人はなんとか月に住めるようになった。それほど技術が進んでも、世界はまだ未知の感染症には弱い。
月から個人でオンライン通信が出来る時間は限られているので、話せるのは週一回のこの時間だけ。出来ないよりはましなのかも知れないけれど。
ねえ和真。月はこんなに綺麗なのに、決して手は届かない。あなたの姿は3Dディスプレイでまるで目の前にいるように見えるけれど、あくまでも立体映像で触れるわけでもない。
わたしは今すぐあなたに会いたいのに。この手で触れたいのに。
『21世紀初頭のコロナウイルスのパンデミックの頃には、こうやって誰かが月に行くことも、月と地球でこんな風に話せることも出来なかった』
和真は優しく言った。
『あの時のパンデミックも、ワクチンが開発されたことで治まった。このパンデミックも、人々の叡智できっと抑えられる。その為に俺達も頑張っているんだ。……だから、もう少しだけ待ってて』
月面には優秀な研究者が集まっている為、パンデミック以降はワクチンや特効薬の開発が進んでいるという。地球と切り離された環境だからこそ出来る実験もあるらしい。
わかっている。今はまだどうしようもないことは、わかっているんだけど。
ぽろ、と一筋涙がこぼれた。テーブルに落ちた涙の粒は、月の光を受けてきらりと輝いた。
──本当に。
月はこんなに綺麗なのに。