お屋敷での一幕
青年の手記には記されなかった日常の一コマ
開幕
屋敷への滞在が決まったその後、知りうる限りの情報を吐き出して、老婦人からもなぜ2人が接触しようとしていたのか、など詳しく説明された。
そして明日からの身の振り方について話し合いとなったのだが……
あの緊迫したやり取りは何だったのだろう。
「あなた、家事ができると言っていたわね!よかったわ!これでコーヒーだけの生活から脱却ね!!!!」
「はい?」
突然の老婦人のテンションについていけない。
「あなた、いえ、一緒に暮らすのだからこんな他人行儀じゃ駄目ね。何と呼ぼうかしら。なにか案はあるかしら?」
「こいつでいいだろこいつで」
この屋敷にいることになったからか、老婦人に対する神崎の態度が崩れた。いや、割と最初から崩れてはいたがとうとう言葉遣いすらも自らの主人に対してふさわしくないものとなった。対する老婦人も先ほどまで見せていた、老獪でどこかミステリアスな姿などなかったかのようにはしゃいでいる。
「こいつはないわよ、こいつは。そうね、あなたお友達には何と呼ばれていたのかしら?」
「え、あ、はい!あの、ゲンって呼ばれてました。」
「なるほど、漢字からとったのね!じゃぁ同じ呼び方は芸がないから……今度は下の名前からタツって呼ぶことにするわね。神崎もそれでいいかしら?」
「……」
「神崎!」
「はぁ、わぁったわぁった!タツな、タツ。タツ、いいか!お前はまず下っ端の従僕だ!俺の指示には従え。それから俺とゆかり、様の部屋への立ち入りは禁止だ!」
「下っ端も何も私と神崎しかいないのだけどね。」
「は、はぁ……あの、それで結局俺は何をすればいいの、ですか?」
「そうね、所作とか言葉遣いとかいろいろ勉強してもらわないといけないわ。でもそれ以上に!まず!なによりも!紅茶の入れ方を覚えてちょうだい!次は食事の作り方よ!」
老婦人からやたらと力のこもった声が出てきた。必死か……?
「え……」
「つい最近までシェフがいたのだけど、諸事情あって辞めてしまって。それに神崎ったら、お湯を沸かすぐらいしかできないのよ?!だからいつも食事は外食だし、本当は紅茶を飲みたいのだけれど、ティーパックの物なんておいしくないし……しょうがないからドリップコーヒーになるのだけど、本当はちゃんとした豆を挽いて淹れたものが飲みたいの……」
悲しみに顔を覆う老婦人の言葉は真に迫ってきた。横の神崎はすねた子供のようにそっぽを向いてしまっている。
「うるせぇ」
「いっそ自分でやろうと思ったりもするのだけど」
よそを向いた神崎のほうを見ながら老婦人はため息をつくが、神崎は気づいているだろうに視線をよこしすらしない。
「危ないからダメだ」
夫人の提案にも一瞬視線を投げてすぐに逸らすとそっけなく切って捨てた。
「これなのよねぇ。横で一緒にしてても、途中でめんどくせぇってやめちゃうし……ほんとどうしようかと」
眉を下げ、困ったように笑う老婦人がタツのほうを見るが、タツはタツでしょうもないことに驚いていた。
「はぁ……え、いやこのパターンでまさかの神崎さんがスパダリじゃないとか」
タツの独り言に反応した老婦人がこれまたしょうもないところに疑問を抱く。
「スパダリってなぁに?」
「えっと、俗語といいますか……理想的な彼氏?旦那?」
「?神崎は恋人でも夫でもないわよ?」
「いや、世間一般的にはすごく、何でもできる男性に対して使う?言葉です。いや、すいません。俺もよくわかってないです」
正直定義などあってないようなものだ。
「よくわからないけれど……そんな人って、いるの?」
「どう、なんでしょうね……?」
老婦人とタツが2人して小首をかしげていると、いつの間にか神崎がタツをみて疑問をはさんできた。
「というか、なんで俺がそのすぱだり?とかいうのだと思ったんだよ?そっちのが不思議だわ」
「そうね、何か根拠があってのことなのかしら?」
「や、根拠というか、何というか。俺たちの娯楽?の一部に神崎さんみたいな執事とかよく登場するんすけど、大体そういう人は強くて優しくて格好いい上に頭が良くて、料理も洗濯も掃除も何でもできる、みたいな設定が……」
どうも一般的な娯楽などを知らないだろう2人に何と説明したものか、と頭をひねり
説明というか弁明というか、とにかく言葉を紡ぐタツ。
何となくニュアンスは伝わったのだろう。
「なんだそりゃ。あーあれか、すぱだりってのは女子供の考えた理想の夫とか父親像のことか!」
理想の父親、ではなく恋人、であるがささいなことだ。ここを修正していたらさらに時間がかかる。
「あ、それです!だからちゃんとした明確な定義はないというか、ニュアンスの言葉というか」
「あぁ、なるほどな!そんで俺がお前らの言うすぱだりってやつだと思ったわけか。いや、まぁあながち間違ってはないような……?」
少なくとも誉め言葉であるということは伝わったようで、神崎が少しうれしそうな顔をする。先ほどまでの仏頂面から一気に親しみやすく少し幼い印象に変わった。逆に老婦人の声はひどく冷たいものに変わったが。表情は先ほどから変わってないが、これが漫画であったなら顔の上半分が塗りつぶされている、そんな感じである。
「間違いだらけね。どちらかというとタツのほうがその定義に当てはまるのではなくて?さっき言っていた通りなら家事は一通りできる上に友達思いで、まだ幼さは抜けていないけどなかなかきれいな顔しているもの。身長もそんなに低くはないし……タツ、あなた恋人いないの?」
話題を変えるためか、対象をタツに変更してきた。神崎と一瞬とはいえ盛り上がっていた空気も老婦人の言葉で一気に冷え込み、地雷を踏んだ!と慌てていたタツにとっては対象が自分に移ることはまだしも質問の内容については全く頭になかった。
「は?いえ、いない、です」
「いないの?!あなたさっき自分で言っていたすぱだり?とやらに十分合致しているわ?!それなのに、ま、まさか……?」
老婦人の言葉に条件反射のように否定する。ソウたちと一緒にいると似たような質問をされることも多く、放置するといろいろと面倒だったことを思い出したからである。
「ないです!それはないです!俺は女の子が好きです!」
「で、でもさっき神崎をすぱだりって……つまり神崎がタツの理想……?」
「え、わるい、俺そっちの趣味はない」
わざとか、そうでないのかはっきりしないまま今度は神崎までもが話に入ってくる。
「俺の話聞いてました?!俺神崎さんが理想とか言ってないですよね?執事にスパダリが多いとしか言ってないですよね?女の子が好きだっていいましたよね?」
「そ、そう……」
老婦人を納得させたところで今度は神崎がぶっこんできた。
「なぁ、女の子って何歳までだ?」
「なんか違う疑惑まで湧き上がってる!すみません言い方が悪かったですね!俺どちらかというと年上のほうが好みです!」
「え、だめだぞ。ゆ「っと!これも俺が悪かったです!俺は!自分の!年齢+5歳!ぐらいまでの!女性が!好みです!」……そうか」
言わせない!と言わんばかりに神崎の言葉にかぶせて、いろいろと面倒な疑惑をつぶすことに成功した。
「元気いっぱいね。まぁ、タツが誰を好きになってもいいのだけど。とりあえず今日はもう遅いから、明日またいろいろと決めましょう。とりあえず、これだけ読んでおいてちょうだい。明日厨房を案内しますね」
思わぬところで精神力と体力を消耗したタツにそもそもの原因事体どうでもいいというような態度の老婦人。本当に本心が読めなくて困る。今後タツはこの調子で振り回されることとなるのであろう。
どこからが冗談だったのか、思いをはせているタツにどこから出したのか老婦人が一冊の薄い本を手渡した。
【初心者でも簡単!おいしい紅茶の入れ方】
――あ、これは冗談じゃなかったんだ……
「じゃあおやすみなさい。神崎、お部屋に案内してあげて」
本を手に黄昏ているタツのことなど知ったことかとばかりに老婦人も神崎もさっさと動き出す。
「1回で覚えろよ。次は教えない」
「あの、ありがとうございました。俺、できる限りのことはします!お二人の力になれるよう努力するんで……これからよろしくお願いします!」
色々遊ばれた気はするが、この2人のおかげで自分は助かり、ソウとハルを探しだせる可能性も手に入れたことを考えると、タツにとってはこの2人が命の恩人以上のものであることは確かである。あらためて自分の決意表明をし、神崎の後に続く。老婦人はタツを連れて行ったあと、神崎が帰ってきて自室へ帰るのだろう。
「えぇ、どうぞよろしくね」
幕引き