第五十話 斬鉄
「おい、異常はないか?」
「いえ、特に。さすがに今日落とされた砦を今晩中に取り戻しには来ないでしょう」
「ふん、まぁな。連中だって馬鹿じゃない。この砦に籠っていたからこそ、この砦の強固さは知っているだろうしな」
「はい……ちぇっ、中の奴らは今ごろ祝杯でも挙げてるだろうに」
「そう腐るな。防備が万全になれば俺たちにもおこぼれはあるさ。今日のところはしっかりと見張りをしとけよ?」
「はっ!」
そんな遣り取りが砦の裏側にある一ノ門付近で行われているのを、クロは身を低くして観察していた。
一ノ門の前に見張りが二人立っている。手には燭台を持っており、近くに人がいれば気付くことができよう。
そしてその見張りに声を掛けたのは、どうやら砦の外周を見回っている兵士のようだ。こちらも燭台を片手に、ぐるぐると砦の外側に掘られた堀に沿うように歩いて見張りをしていた。
「警備は薄いな……これなら――」
クロは砦の見張りが三人であることを確かめ、音にはせず唇だけを動かす。クロのいる場所は門の傍で見張りをする兵士から二十歩ほど。兵士の持つ燭台の明かりはそこまで照らせず、小声であれば届くとも思えないが念のためである。
そのまま身を低くしたままクロは門の前から離れ、回り込むようにして見張りの兵の死角側へ移動した。そして暗闇でもしっかりと見通すことのできる眼で塀を確認し、どのように攻略するかを検討する。
軍議での話や見取り図通り、堅守と呼ばれるだけあって手強そうな城壁だ。壁の下方は傾斜が付くように張り出されており、上部は完全な垂直となっている。高さもベノが言ったようにかなりのものだ。クロの背丈の五倍近くはありそうだ。
塀の傾斜は常人が駆け上がるにはかなりきつくなっており、さらに言えば塀の周囲には幅のある堀があるのだ。堀を飛び越えてから傾斜を駆けあがるなど、もはや人のできることではない。
「……行けるか」
だがクロは周囲を見渡し、巡回の兵士が通り過ぎたのを確認し一気に駆け出した。
その爪先だけを素早く軽やかに接地した走法は、夜の静寂を乱すことなくクロの身体を堀の前へと運ぶ。
そして堀の直前でクロは一気に地を蹴った。
クロの背丈を超えるような幅の堀を軽々と飛び越え、なおかつその高さも常軌を逸したものであった。
塀の傾斜の最上部までただ一度の跳躍で到達すると、着地と同時に膝を屈曲させる。そして十分に力を溜め込み、角度のある傾斜によって身体が仰向けに倒れるよりも早くその場を蹴って垂直に飛びあがる。
この間、わずか二、三秒である。そのような刹那ほどの時間で、クロの身体はほとんど物音を立てることなく塀の上部へと降り立っていた。
「……おい、いま物音がしなかったか?」
「え? そうですか?」
しかし微かに聞こえた音が気になったのか、門の傍にいた見張りの兵が警戒するようにクロの下の方へやって来た。
とはいえ、この様な短時間で小さな音のみを立てて塀を攻略する者が現れるとは思わないのだろう。塀の上を見ることはない。
「うーん……たしかに聞こえたんだが――」
「空耳では? ちょっと気を張りすぎてるんですよ、きっと」
「……そうかもしれないな。実際、異常はどこにもなさそうだ」
燭台の明かりを頼りに周囲を手早く検めると、兵士たちは門へと戻って行った。彼らの定位置はあくまでも門の傍であるため、この場所にいくらもいられなかったのだろう。
「……助かったな」
クロは額に浮かんだ冷や汗を袖で拭いながら小さく呟く。そして塀の内側に見張りがいなことを確認して、今度は一切の物音を立てずに降り立った。
自身の五倍はあろうかと言う高所から降り立ったにもかかわらず、少しも足を痛がる素振りもない。完全に重力を殺していた。
周囲を見渡し二ノ門の位置を確認。それが話に聞いていた通り、一ノ門に比べまだ攻略が容易そうであることに安堵した。
やはり伯爵の兵や傭兵たちにはこの一ノ門こそが鬼門になるだろう。だが逆に言えば、この門さえどうにかしてしまえば勝ちも見えてくるだろう。
クロは一ノ門の扉をじっくりと観察した。
「これは……斬れないな」
門扉は十人の兵士で閉めるというだけあって、おそろしく分厚い金属製の物であった。これはどれだけ剣を振るったところで、人が通れるように切断することは不可能だろう。
そもそも扉自体を破壊してしまっては、この砦の防御性能が著しく低下する。今後も国境の要としてこの砦を使用することを考えれば、できれば損壊は軽微で済ませたい。
門扉の上部へ視線を移せば、そこから二本の太い鎖が伸びていた、これを引っ張ることによって扉を動かしているのだ。
鎖の先を辿れば、二ノ門の辺りに設置された二つの大きな滑車にそれぞれ繋がっている。これで鎖を巻き取り、門扉を固定しているのだろう。
「……さて」
このような形状になっていることは、軍議の場で見た見取り図で分かっていた。一筋縄ではいかないことも、予め予想はしていた。
ただ扉を開けるだけでは駄目だ。そんなことをしても、伯爵らの兵がこちらへ来る前に再び閉められてしまう。もちろんクロが妨害するのも一つの手ではあるが、さすがに二百を相手にするのは骨が折れる――それは最後の手段のつもりだった。
ならばどうするか? 簡単だ。
門扉と滑車を繋いでいる鎖を斬ればいいのだ。
そうすれば門扉は自動的に開かれ、子爵の兵が閉めようとしても鎖が断たれていてはそれもできない。無論、予備の鎖もあるのかもしれないが、修復し閉門するには時間がかかる。その間にきっと傭兵たちは来てくれる。サムが連れてきてくれるはずだ。
クロは門扉と滑車に繋がれ、ピンと張り詰めた格好になっている鎖の前に立った。そしてゆっくりと音を立てないように剣を抜き放つ。
「……太いな」
やはり重い扉の開閉に使用されているだけあって、年季の入っているように見えるその鎖は随分と丈夫そうに見えた。年季が入っていると言うことは、長年使われながらもここまで途切れることのなかった頑強さの証明に他ならない。単に切断すると言っても、並みの者には叶わないだろう。
いや、そもそも並みの剣では歯が立たないに決まっている。
「ふぅー……」
クロは上段に剣を構えると、静かに息を吐きだして呼気を整える。そしてカッと目を見開いて構えていた剣を振り下ろした。
クロの握る剣はずっと彼女と戦場を渡り歩いてきた相棒だ。
わずか十にも満たない年で家宝の一つであった剣を譲り受け、それを何年も腰に差してきた。
敵兵を時には鉄鎧ごと斬り殺し、岩陰に潜む敵を岩ごと斬り倒し、そうしてそれでも欠けることのなかった剣だ。
クロの怪力と合わされば――斬れないものなどそうはない。
剣が鎖を斬る音は高く澄み、夜の静けさの中で主張するように響き渡った。きっと、すぐに子爵の兵たちが気付くだろう。
「――もう一つ」
一つ目の鎖が完全に断たれたことを確認し、クロは素早くもう一つ残った鎖の前で構えた。そして再び上段から振り下ろし、見事二度目の斬鉄を果たす。
鎖の支えを失った門扉は一瞬だけ停滞し、すぐに地響きを立てて塀の外側に向かって倒れて開いた。
「今の音は……あ? ど、どうして門が――」
「おいっ! 誰が門を開けたっ! 直ぐに閉め直せっ!」
門の見張りをしていた二人の兵士が慌てたように塀の内側へと入ってくる。クロは闇に紛れて彼らから距離を取ると、再び塀の上まで飛びあがった。
そして懐から持ってきていた蝋燭を取り出し、『火熾し草』を擦り合わせて火をつける。そしてそれを傭兵たちがいる村の方角へ向け塀の上でゆらゆらと揺らしてやれば、砦を見張っている伯爵の兵や傭兵たちにもわかるはずだ。
これを見れば、きっと駆け付けてくれるに違いない。
「見ろっ! 門の鎖が斬れてるぞ?」
「ちくしょうっ! これじゃあ閉められないっ!」
「もっと灯りを寄越せっ! これじゃあ何にも見えねぇよっ!」
クロの下の方がにわかに騒がしくなってきた。どうやら砦の中からも異変に気付いた兵士たちがわらわらと出てきたらしい。
予想外の事態に狼狽えてんやわんやとなった子爵の兵たちを尻目に、クロはひたすら蝋燭の明かりで合図を送り続けるのだった。




