第三十六話 醜悪なる魔法使い
『醜悪なる魔法使い』と呼ばれる存在が、ガルザー帝国の基盤を支えていることは有名な話である。
団所属の魔術師であるヌウロが自身のことを「あくまでも術を用いてケチな魔術を行うほか能はない」と評していたが、そこに謙遜はあれどたしかにその言葉通り、魔法使いと魔術師とでは歴然とした差があるのだ。
魔術師が周到な準備をしてその準備に見合った成果を出す存在であれば、魔法使いは掛けた手間以上の奇跡を可能にすると言われている。
つまり、小さな労力で大きな見返りを創り出すことができ、当然、大きな労力であれば奇跡とも言える現象を生み出すのだ。
そのため、魔法使いと呼ばれる者たちは世界に大いなる貢献をしたが、同時にその存在自体を危険視された。結果――彼らは迫害され根絶やしにされることとなる。今ではその存在が確認されることは例外を除いてほとんどない。
『醜悪なる魔法使い』にしても、帝国の者以外でその姿を見た者はほとんどおらず、また彼を見るときはその者の最期であるとも言われていた。
ゆえに、件の魔法使いはガルザー帝国の脅威を喧伝するための架空の人物であると疑われることもままあった。あるいは単なる魔術師を誇張して恐怖心を煽っているという噂もある。
いずれにせよ、永らく帝国兵と戦ってきたグラッツをして見えたことのない存在であった。
「……エザール? エザールって、あの『醜悪なる魔法使い』のことか? なんだってそんな大物が」
クロの言葉に呆気にとられるグラッツとは違い、エザールと呼ばれた青白い顔の男は薄笑いを浮かべる。
「ふん、意外と賢しい小僧だ。だが、私の正体が分かったところで貴様らには打つ手などあるまい? 我が名を黄泉への土産としろっ!」
言うや否や、再び浮かび上がってクロへ接近するエザール。
クロは迫り来る相手に向かい、持っていた剣を投擲した。
「馬鹿めっ! 気でも違ったか?」
エザールは自身へ向かって突き進んでくるクロの剣を避けることすらしなかった。彼の胸元に深々と突き刺さったはずの剣は、まるでそこに身体が存在しなかったかのように止まることなく飛んでいく。
「はっ! 死ねっ!」
「クロっ! 避けろっ!」
勝ち誇り、無防備な身体に振り下ろされたナイフ――そのナイフを持つエザールの右腕をクロが強引に掴み取った。
「――なっ? なぜ、私に触れる?」
「へぇ……変な感じだ。腐った肉でも触ってるみたいだ」
「は、離せっ、小僧っ! どんな手を使ったかは知らんが、貴様に私を傷つけることは――」
「うん、やっぱりここが怪しい」
掴まれた右腕を取り戻そうと暴れるエザールに、クロは懐から取り出した狩猟用ナイフを構えて流れるような動きで彼の右足の甲を靴の上から斬りつけた。
「ぐっ? ぎゃあぁぁぁぁっ!」
その瞬間、今まで身体を真っ二つにされても腕を斬り飛ばされても痛がる様子を見せなかったエザールが、形相を一変させて大声で絶叫する。
そのあまりの叫び声にクロも虚を突かれたのか、警戒するようにエザールの腕を離して後退りした。
「き、貴様っ! わ、よくも、私の核をっ! 貴様、貴様貴様っ!」
目を血走らせて憎々し気な視線をクロへと向けるエザール。そんな彼に対し、クロは狩猟用ナイフを堂々と構え口の端を吊り上げた。
「もしかして、痛みを感じたのは初めてか久しぶり? 戦士で足の甲を斬られただけでそんな絶叫を上げる奴、オレは見たことないよ」
「だ、黙れっ! 殺してやる、殺してやるぞ小僧っ! 先ほどの攻撃で勝った気になるなよ?」
「おい、クロ。あいつの弱点は右足の甲なのか? それさえ分かれば俺も助太刀するぜ」
睨み合うクロとエザールの間に入るようにグラッツが声を掛けてきた。その言葉を受け、血走った目のままエザールがニヤリと笑う。
「……ほう、面白い。たしかに良い攻撃だったが、それで私に勝とうなど甘い奴らだ。まとめて殺してやる」
「……グラッツ、気を付けて。あいつ、弱点を左の腹に変えたよ」
「なにっ! こ、小僧っ! 貴様っ!」
冷静なクロの言葉に、エザールの余裕に満ちた笑みがとうとう凍り付いた。そしてその表情こそが、クロの言葉が事実であると如実に物語っている。
「なぜだ? なぜ核の位置が貴様に視える? 魔術師か? いや違う……なんだ? なんだ貴様は? なんだその歪な存在感は? まるで、まるで人の身に化け物を、怪物を、竜を――」
「おいっ! 余所見してんじゃねーぞっ!」
今まで殺し合いをしていたことも忘れたかのように、驚愕に満ちた眼でクロをみていたエザールは、脇から突っ込んでくるグラッツなど眼中になかったようだ。
「ぐあっ?」
左の脇腹を咄嗟に庇ったエザールだが、どうやら微かに斬り裂かれたようだ。痛みに顔を顰め、浮かび上がりながら後退する。
「小僧、貴様は危険だ。危険すぎる……貴様だけは、貴様だけはここで――」
「クロっ! グラッツっ! 無事か? って、なんだありゃ?」
浮かぶエザールを前に油断なく構えていた二人の背後から、魔物たちを倒してきたと思しき『月喰い傭兵団』の面々が声を掛けてきた。
そして宙にいるエザールの姿に呆気にとられる。
「くそっ! 雑魚どもがぞろぞろと……まぁいい、不完全ながら目的は果たした。ここは大人しく退かせてもらおう」
「逃げる気か?」
傭兵団の方を見ながらじりじりと下がり始めたエザールに、クロがゆっくり近づきながら問いかける。
そのクロに対し、エザールは隠し切れない引き攣った笑みを浮かべて見せる。
「ふへっへ。精々、誇るがいい。この私を相手にして生き残った事実を。そして、次に会うときが貴様の最期だ。小僧、貴様は……貴様だけは近いうち必ず殺す!」
「知らなかった。魔法使いってのは負け惜しみだけは一流なんだな」
「――っ! つくづく忌々しい小僧め……ふん、さらばだ」
エザールが後方の空間に掌を翳せば、そこに人が一人通れるだけの黒い穴が生まれる。エザールはそこへ飛び込もうとクロへ背を向け――。
「逃がすわけ、ないだろうっ!」
「がぁっ?」
背を向けた瞬間にクロが放った狩猟用ナイフ。それがエザールの左わき腹へと見事に突き刺さる。
「小僧……貴様、覚えて――」
その言葉を最期に空間に空いた穴の中でエザールの身体に亀裂が入り、硝子を殴りつけたかのように粉々に砕け散った。そしてそれとほとんど同時に、穴が一気に狭まり閉じ切ってしまう。
これでは砕け散ったエザールがどうなったかを知ることはできない。
「……はは。やったな、クロ。あのエザールを見事討ち取ったな!」
閉じた空間を睨み付けていたクロに、近づいたグラッツが笑みを浮かべてその肩を手荒く叩いた。
だが、クロの表情は変わらず硬いままだった。
「うん? どうかしたか?」
「いや……相手は魔法使いだから、これで倒したと思わない方がいいのかもしれない。死体を確認したわけじゃないから」
「え? さすがにあれは死んだんじゃないか? だって、よく分からないが身体が粉々になったんだぞ?」
「オレも倒したとは思う。手応えもあったし、あいつの身体から漂っていた妙な気配もなくなったから……」
その言葉とは裏腹に、やはりどことなく自信がなさそうに考え込むようなクロ。
そんな新入りの姿に古参としてもどかしい気持ちを覚えたグラッツだったが、肩を竦めるだけで何も言わなかった。かける言葉が見つからなかったのだ。
ただ、周囲を見渡し近づいてくる仲間の姿と一難が去ったことを確認し、内心で安堵の溜息を吐くのであった。




