第二十四話 戸惑い
唐突にクロの頬から噴き出た血を前に、周囲の傭兵たちは呆気に取られて固まってしまう。
職業柄、頬を切り裂いた程度の出血など彼らとて見慣れている。
戦場にいることがほとんどである傭兵団の中で、実際に人を殺めたことのない者などサムくらいなものだ。そのサムとて治癒師という役割上、彼ら以上に人間の血液には免疫がある――あるのだが、クロの行動にはただただ目を見開くことしかできなかった。
頬から舞い散った血など関係ない。
クロが自らの頬を――それも人並外れた美貌を自らの手で台無しにした行為にこそ、サムを含めて傭兵団の面々は呆然とさせられたのだ。
クロと一触即発であったヴルドも、ヴルドを止めていたグラッツも――傭兵団一冷静沈着として知られている副団長のベノでさえ、クロのその暴挙には唖然とするばかりだった。
「いてて……やっぱ痛いなぁ」
「――おい、サムっ! この坊やに早く治癒を掛けてやれっ!」
「……え? あ、はいっ!」
自分で切り裂いた頬に手を当てたクロが呑気な声で呟くと、真っ先に我に返った団長であるバルムがサムへと鋭い声を放った。その声に自分を取り戻すと、サムも間を置いてから動き出す。
「ったく、とんでもねぇ坊やだな……治療が終わったら、あとで俺のとこに来てくれ。ベノもな」
サムによってクロの治療が開始されると、バルムは呆れを多分に含んだ声音でそう言い、一転して真面目な顔つきで団員たちを見渡した。
「こほん……さて諸君。意外な形となったが、クロは俺たちに『覚悟』って奴を見せてくれた。たしかに、見た目は頼りない子どもだ。剣を持てるのかすらも怪しいし、他の組織からクロの姿を揶揄されることだってあるだろう。けどなぁ? クロは俺の信頼する副団長や仲間たちが連れてきてくれた新しい仲間なんだよ。俺たちの――つまり、お前たちの仲間なんだ。それだけで入団資格は十分だったってのに、クロは文句のつけようのない覚悟を示した。これでもまだグダグダ言う奴がいたら――分かってるよな?」
念を押すように低い声で団員全員に問いかければ、傭兵たちは背筋を伸ばしてバルムの言葉を傾聴する。
クロの治療に専念するサムは、バルムの言葉が気になりながらも目を向けないように耐え、入団したばかりのクロは不思議そうな顔で団長となる者の方を見ていた。
「お前らも知っているように、俺は仲間と認めた者は全力で守る。危害を加えてくる輩や、謂れのない誹謗中傷からだって守ってやる。俺の仲間でいてくれるなら、お前らの居場所――この傭兵団は絶対に守り続けてみせる。だから、だからお願いだ。どうかお前ら、今後も俺の仲間であってくれ。頼むから、俺をお前らの敵にさせないでくれ」
懇願するような口調で、しかしその声音には揺ぎ無い芯の強さが満ち溢れていた。聞く者を威圧するような、強制的に納得させるような強い響きがあり、そこにはバルムの絶対的な自信が窺える。
「自分から離れる者などいない」あるいは「たとえ裏切り者が出たところで問題ない。軽く叩き潰してみせる」といった、一種の傲慢とも思える、上に立つ者特有の優越性が如実に表れているのだった。
「……団長。もちろん、我々はあなたの元から離れはしません。我々はあなたを頼り、あなたのために剣となり盾となり手足となって使われるためにここにおります。あなたが仲間と認めるのであれば我々の仲間。それすなわち、我々自身とも言えます。どこに否定や排除する余地が生まれましょうか……」
バルムの言葉に静かな声でベノが応え、そしてベノは素早く背後の団員たちへ振り向いた。
「お前らは聞いた。我らが団長はクロを仲間と認め『月喰い傭兵団』への入団を許可した。今後、クロへ謂れなき誹謗や中傷を行った者は、団長の手を煩わせはしない――私の手で粛清してやる。無論であるが、これはクロに限らない。仲間内で不和を生じさせるような輩には一切容赦しない。わかったか?」
いつもの穏やかな話し方を一切合切捨て去ったベノが、淡々と感情の籠らないような声で告げる。
やがて一拍の間を置いて、団員たちは一斉に両手を打ち合わせて拍手を開始した。
「おおっ!」
「団長、万歳っ!『月喰い傭兵団』万歳っ!」
「『月喰らい』っ!『月喰らい』っ!」
拍手の音とともに辺りに響き渡る傭兵たちの威勢のいい声。その声を聞きながらクロの治療を続けるサムの耳に、クロの乾いた声も微かに聞こえた。
「……なんだ、この茶番は?」
団長であるバルムが散会を宣言し、傭兵たちにはしばしの小休止が与えられた。あと一時すれば完全に日が暮れ、夜が訪れてしまう。
今日はここで野営し、明日の朝にガルザー帝国とベレエム聖国の国境へ向けて出発することとなったのだ。
先ほどまでの張りつめていた雰囲気を一変させ、傭兵たちは思い思いに休息を取り始めた。雑談をする者、自分の得物を手入れする者、黙々と鍛錬する者さまざまだ――ちなみにギルデークは雑用や炊事担当として扱き使われている。
「まったく、君は本当に突拍子もない……」
そんな中、クロに治癒を施し終えたサムが額の汗を拭って呆れ混じりに呟いた。そしてクロの頬へ優しく自分の指を這わせる。
「――取りあえず、出血は止まって傷は比較的奇麗に塞がったよ。幸いにも、君の持っていた狩猟用ナイフが業物だったおかげだろうね――けれどやはり、白い跡が残ってしまった」
「ちょっと、くすぐったいなぁ」
「え? あ、ご、ごめん……」
いつものように治癒した患部を確かめるために頬へと触れたのだが、どうやらサムの触り方がくすぐったかったようだ。クロが機敏な動きで身を引き、サムは慌てて謝罪した。
「いや、急な事で驚いただけ。それよりありがとう。今まで治癒は何度かかけてもらったことはあるけど、こんなに短時間で治してもらえたのは初めてかな? やっぱ腕良いんだ」
「それほどでも――え? 治癒を何度か受けた? ベルフィリス領では、平民でもそんなに気軽に治癒が受けられるってこと?」
「……あー。まぁ、幸い機会に恵まれてね」
サムの指摘にらしくもなく視線を彷徨わせると、ぎこちない笑みでクロが頷く。そして、自分自身の頬を確かめるようになぞった。
「うん、ばっちり塞がってる」
「先ほどもいったけど、傷は一応完全に塞がってるよ。ただ、どうしても白い跡が残ってしまった。もしかしたら、一生治らないかもしれない……本当、なんだってせっかくの整った顔に傷をつけてしまったんだか……」
「なんだ? サムはオレみたいな顔がいいのか?」
「はぁ? な、なんでそうなるだっ! べ、別に君のことなんて好きじゃないっ!」
面白そうな顔で首を傾げたクロにサムが焦って怒鳴りつけると、怒鳴られた本人はキョトンとしたように目を丸くする。
「いや……オレみたいな顔になりたいのかと思っただけなんだけど」
「へ? あ、そういうことか……う、そ、そりゃあ、どうせなら君のような美形に生まれたかったよ。きっとみんなそう思うよ」
「なんだそりゃ。オレの顔はともかくとして――」
「ちょ、え? く、クロ?」
そこでクロは食い入るようにサムを下から上目遣いで見上げ、身体を伸ばして顔を近づけてくる。
その顔と顔がくっつきそうなまでの距離の埋め方と鼻こうをくすぐる仄かないい香りに、サムはたじろぎ身体を逸らした状態で一歩下がった。が、
「うん、サムの顔も十分整ってるだろう?」
「――っ?」
唐突なクロの花が咲き誇るような可憐な笑みに、完全に一瞬気を取られて不完全な後退となった。
結果、
「うわ、あぁ?」
サムは無様に尻餅をつく。
「あはっ! おいサム、なにしてるんだよ。ほらっ」
そんなサムの姿にクロが笑いながらも手を差し伸べてくるが、サムは悔しくて自分の力だけで起き上がった。
「ちょ、ちょっと足を絡ませただけです。それよりも、治癒は終わったのでさっさと団長のところに行きましょう」
「なんだよ? サムも来るのか?」
「え?」
土の付いた自分の尻を手で払いながら促したサムに、クロが意外そうな顔をした。
そしてその言葉で初めて、サム自身もクロについて行くつもりになっていたことを意識する。
「……君がまた無茶をしてもすぐ治癒にできるように、だ。それに団長や副団長に失礼があったらいけないし」
「はは、サムは心配性だな。まぁ、いいや。よし、行こうか」
「ええ……」
クロにではなく、まるで自分自身に言い聞かせるように口から言葉は零れたが、それでもクロは気にする様子もなく首肯した。
なんだか釈然としない気持ちを抱きながら、歩き出したクロの背をサムは追った。




