第九話 放任
クロの言う通り、一行が山頂に辿り着く頃には大きな雲が上空に流れてきて、辺りを暗闇へと引き込んだ。
辛うじて火を熾すのには間に合い、何とか野営を張ることはできたが間一髪だった。サムを担いだクロのペースに引っ張られて山を登らなければ、間違いなく往生していたことだろう。
「お前さん、いったい何を喰ったらあんなに軽々と山を登れるんだ?」
焚き火の前で木の枝を小さなナイフで削っていたクロに、グラッツが問いかける。クロが何のために枝なんかを何本も削っているのかは分からないが、この少年のことだ。決して手慰みではあるまい。
「昔から、山を登るのは慣れてるんだ。それにこの山は標高も低いし傾斜も緩やか……おまけに割と人が通るのか道も悪くない。一人だったらとっくに山越えしてるよ」
「……はは。そいつはすごいな」
簡単に言ってくれるが、この道程は近道にはなるが護衛対象の商人には厳しいだろうと判断し、往路には選ばなかったのだ。
そのためそれは冗談なのだろうが、木の枝を削るクロの雰囲気は特に変わらず、本気で言っているようにも思えてしまう。
どうにも表情が見えないと分かりづらい。
「なぁ、他に誰もいない時ぐらいフードを取らないか? それではお前さんが笑っているか怒っているかもわからん」
「……それもそうか」
グラッツの提案にクロは少し考えるように手を止め、やがて納得したのかあっさりとフードを取り除いた。
露になる端正な顔立ちと、暗闇に溶け込むことのできない歪な黒髪。
焚き火が仄かに照らし出す情景と相まってクロの姿は少し神秘的に見え、グラッツは息を呑んで見つめてしまう。
「サムの容態はどう?」
「――ふっ、ああ……」
ぼんやりとクロの横顔を見ていたグラッツは、突然こちらを向いて視線を合わせた顔に驚き、驚いた自分自身に小さく苦笑する。本当に、心臓に悪い少年である。
「サムは問題ねぇよ。今晩中には治癒魔法で完治するって話だ」
サムは今、別の焚き火の傍でベノやギルデークに負傷の様子を見てもらっているところだ。そしてサムが完全に自分の足を治療するのか見張っている。
放っておけば不完全なまま治癒を終え、再び痩せ我慢をしかねない。
「そっか。オレ、治癒師が自分に掛ける治癒魔法は治りにくいって言うの初めて知ったよ。そんな話聞いたこともなかった」
「いや、別にそんな事はねぇーよ。ただ、サムは特別なんだ。あいつはその……自分に治癒魔法をかけることになれていないんだ」
「……うん?」
言っていいものかと少し考えたが、クロの問いかけるような青の瞳と、そして一応は団員であると言う事実にまぁいいかと自分を納得させた。
「本来、治癒師は自分の怪我を治癒魔法で治しながら最初は力を付けていく。そりゃあ、そこらに怪我人や病人が転がっているわけないからな。自分でわざと怪我して用意するしかないってわけだ。ところがサムはとある教会の孤児院で育てられ、そこの神父に治癒魔法の才能を見出されたんだ。なんせ教会だ、金のない病人や怪我人がひっきりなしに訪れ、サムはそいつらを治癒することで力を伸ばしたんだ」
「なるほど、その結果自分自身を治癒するのに慣れてなくて、回復が遅いってことか?」
「まぁそうなるな」
肯定して見せたグラッツに、クロは訝し気な視線を送る。
「けどさぁ、それって自分以外の人に対しては、物凄く腕のいい治癒師になっているんじゃないか? 最初から他人相手に鍛えられたんなら」
「お、察しがいいなぁ。国や騎士団に召し上げられて蝶よ花よと大切にされている治癒師どもとは雲泥の差があるぜ。なんせあいつらときたら、大事にされすぎて滅多に戦場に連れて行ってもらえないって話だしな」
「オレも聞いたことある。いざ戦場に連れて行ったら、怪我人見て気絶した治癒師もいるってさ。それで怪我人を治癒する前に、自分が介抱されちゃったんだって」
「あっはっはっ! そいつは傑作だっ!」
グラッツの馬鹿笑いに、クロも楽しそうに薄っすらと笑った。フードをしていないこの少年の笑った姿を見るのは初めてでグラッツは笑いながらいいものを見たなと朧気に想った。
「まぁ、治癒師の多くは貴族や王族に召し抱えられて、薬では治らない病気なんかを治療するためにいるからな。常に俺らと行動を共にするサムのような奴が珍しいんだろう」
「それさ。だからオレ、気になるんだよ。教会で頼りにされていたはずのサムが、どうしてグラッツたちと一緒にいるのか。なぁ教えてくれよグラッツ、どうやってあんたたちはサムを引き抜いたんだ?」
「……」
先ほど薄く笑って見せたクロは、その笑みのままでグラッツに問いかけてくる。けれどその青色の瞳は真剣で、おためごかしや誤魔化しは許さないと言った風情だ。
「……さてな。そればっかりは俺の口からは言えねぇーよ。あんまり愉快な話じゃねーし、安易に話せることでもねぇ。サムに聞いてみな。あいつが言ってもいいと思うのなら、教えてくれるだろうぜ」
「なんだよ? そんなに話しづらいことなのか? まぁ、グラッツたちのことだから、無理やり連れ去ったわけじゃないだろうけど」
「馬鹿、そんなことする分けねぇだろうが。第一、サムを無理強いで連れまわすなんて不可能だ。あいつ、ああ見えて芯は強いからなぁ、自分の主義に反することは命がけで抵抗しやがる」
だからこそ、足を挫いてあれほどの腫れがありながら、誰にも言うことなく歩き続けるなんて真似をしたのだ。見かけこそどこにでもいそうな十五の瘦せっぽちな少年だが、頑固さにかけては一級品である。
「ふーん、まぁそうでもなければ傭兵団なんて居られないか……これくらいでいいかな」
聞きたいことは一通り聞いたのか、クロはグラッツから視線を外すと削っていた木の枝をじっくりと眺めてから立ち上がった。
「おい、どこに行くつもりだ? 半時もすれば飯の時間だぞ」
「だからその飯を調達してくるんだよ。これで」
尖った枝の先端を上に向けるクロに、グラッツは呆れて目を瞬かせた。
「……お前さん、まさかそれで動物を狩ってくるつもりか?」
「そうだけど?」
「やめとけ、時間と体力の無駄だ。雲はいなくなったが、完全に陽は落ちてしまった。こんな暗闇で焚き火を離れてまともに獲物など探せねぇよ」
「問題ないよ、生まれつき夜目は利くんだ」
「……生まれつき?」
夜目とは本来、後天的に身に着ける体質だ。稀に、生まれた時から夜目が利くという種族もいるが、それはあくまでも純粋な人間ではない種族の話だ。目の前の少年はグラッツと同じ純人間だろうから、きっと何かの比喩か言い間違いなのだろう。
「夜目が利くとは言っても、この暗さではどうしようもないだろう? 食料なら俺やギルが担いできたもんがある。お前さんにだって分けてやるよ」
「けどそれは、オレが入団する前に買ってきたものだ。つまりオレの分は勘定に入っていないんだろう?」
「……まぁな」
やはりと言うかなんというか目敏い少年である。四人分の食料を少しずつ減らして、クロに分けるつもりだったのだ。むろんギルデークが本人のいないところで憎まれ口を叩いていたが、結局は了承したので問題はない。
「皆納得している。大人しく俺たちの用意した飯を食えよ。まぁ、干し肉が精々だけどな」
「それは今後のために取っておくよ。いつ何があるか分からないし、もしかしたらあんたたちの言う拠点への旅が伸びるかもしれない……それに、これだけ生き物の気配がある山だ。もし多めに取れたら分けるよ」
「いや……そういう問題じゃなくてな」
結局止めようとしたが、クロは削った木の枝を五六本全て持ち出して暗闇に包まれた繁みの中へとはいって行った。その足取りには迷いはなく、どうやら夜目が利くと言うのはあながち嘘でもないらしい。
「……まぁ、直ぐに諦めて帰ってくるか」
追いかけようとも思ったが、グラッツは焚き火の傍へと腰を落とし直した。いくら多少の夜目が利くとは言え、この暗闇では動物など見つけられないだろう。仮に見つけたとしても人間よりも機敏に動く獣たちを、どうやってあんな削っただけの枝で狩ると言うのか。荒唐無稽もいいところである。
幸いこの山に魔物が出ると言う話は聞かない。少年を一人で放っておくのは心配ではあるが、遭難するような深さの山でもないし直に焚き火の光を目印に帰ってくるだろう――グラッツは安易にそう考えたのだった。




