宿泊客。
「おかえり」
クタクタに疲れた体で赤銅亭に帰ると、シェスが笑顔で出迎えてくれる。
「ただいま」
一人で暮らしているときは、誰からもことばをかけてもらえなかったが、今は違う。
「疲れたでしょう。先に食事にする。それとも汗を流してくる?」
食事の準備をしてもらうあいだに、汗を流してくると伝え、鉱泉にむかう。
滝のように流れた汗が乾き、塩を吹いている上着を脱ぎ、手ぬぐいを手にして大きなため息をつきながら浴室にはいる。
「ああ、どうも」
先客がいるとは予想していなかったので、もごもごと口ごもるばかりでうまく返事ができなかった。
頭を下げ、あらためて挨拶をする。ここは出ていくべきかとも考えたが、疲れ切った体が入泉を欲していた。
「いらっしゃいませ。大変申しわけないのですが、私も鉱泉を使わせてもらいます」
先に鉱泉につかっていた男がうなずいたのを確認し、手桶で体を流してから、湯船のできるだけ離れたところにはいる。ひんやりとした鉱泉が体に心地よい。
「赤銅亭の主人です。なにもない田舎の宿屋ですが、ゆっくりしていってください」
「ええ、しばらく滞在させてもらう予定です。それにしても、山からけっこう離れた宿屋に鉱泉があるというのは珍しいですね。この時期の冷泉は最高ですよ」
男の背は低く、お世辞にも筋肉質とはいえない体をしていた。肌は青白いが病的な感じではなく、ふだんから日の光を浴びない場所ですごしているだけのように思えた。つまり貴族様だ。
宿泊料は食事付きで1日銅貨10枚だから、10日も滞在してもらえば正銀貨1枚になる。朝から晩まで働いて、銅貨1枚の今の状況からすると、このお客さんは神のような存在だともいえる。
「アンネセウ・アギロパです。親しい人にはアンネとよばれています」
そういいながら、こちらに向き直ったアギロバさんは右手を差し出してきた。姓があるということは、やはり貴族なのだろう。
右手を握り返すのが挨拶になる地方があることは知っていたが、貴族様の手をそう簡単に握ってもいいものかと逡巡しているうちに、アギロバさんのほうから私の右手をぐっと握りしめてきた。
「よろしくお願いします」
にっこり笑うアギロバさんは、平民か貴族かなどということを気にしない人格者なのだろう。それとも変わり者か。
「ロワです。こちらこそよろしくお願いします。それにしても、なぜこんな寂れた町へこられたんですか」
「銅山の視察にきたんですよ。鉱山技師なんです。銅山の採掘量を戻すことができるかどうか調べにきたんです」
鉱脈の枯れた銅山を復活させることなどできるのか。もしそうなれば、またこのメコアの町にも活気が戻るかもしれない。しかしこの小太りのアギロバさんにそんな力があるのだろうか。
「そんなことできるのか、って考えてるでしょう。わかりますよ」
アギロバさんはニヤリと笑った。
「もちろん、できる鉱山とできない鉱山があります。こうみえても、私は鉱夫という贈物を持っています。国がお金を投資して、それ以上の利益が得られるなら投資をおこなって鉱山を再開しますし、投資しても利益が得られないなら放置します。私はその調査にきたのです」
まさか、この人は―――。
「どうしたんですかロワさん」
私は昨日のできごとを思い出していた。目の前のアギロバさんのことなど忘れて。
まさか、あんなつまらない願いまで、贈物の力で実現するのだろうか。
だったら、私はなにを支払うことになるのだろうか。