籠の鳥も羽ばたくことができる。
世界を救う英雄の部屋にしては、その部屋はみすぼらしかった。
背の高い人だと、体を折り曲げないと眠れないようなベッド。
サイドテーブルの上には、水差しと木のコップ。
パーティーで行動しているときは、野宿することも多かったが、町では最高級の宿屋に泊まるのが当たり前だった。
それでも、実家で暮らしていた時と比べれば雲泥の差だ。真冬でも板の間の上にそのまま寝転がり、上から薄い布団をかぶるだけだった。暖炉の残り火が消え、夜中に寒さで何度も目を覚ました人間にとっては、綿の入った布団にくるまれて眠れるという今の生活は、まさに夢のようなものだった。
「ロワ様、食事をお持ちしました」
ドアがノックされ、グバウという名の警護の兵士が食事を部屋に運び込んだ。
「食器は後で取りにきますから、そのままにしておいてください。なにか他に御用はありませんか」
「いいえ。ありがとうございます」
礼を述べ、ドアが閉まるのを確認してから、木製のトレイの上の食事に目をやる。
チラチラ燃える灯心の薄暗いあかりでは、木椀の中のスープになにが入っているのかまではわからない。
横に添えられたのは、こぶし二つほどの大きさの黒いパン。
せめてスープから、温かい湯気でものぼっていれば食欲も刺激されるのだが、スープは冷めきっていた。
どういう理由かはわからないが、ハリシルへの旅の途中、食事はいつも冷たいものばかりだった。はじめは嫌がらせをされているのかとも思ったが、特に兵士たちにそういった素振りはなく、ただ温かいものを提供するという意識がないだけのようだ。
冷めきったスープを、木の匙を使って口に流し込んで顔をしかめる。
やはりここでも同じ。
スープはとても塩辛く、とてもそれだけで味わえるようなものではなかった。
仲間たちとの旅で強く感じたのは、どの店でも、どの料理でも塩を使いすぎでなにを食べているかわからないということだ。
しかたなく黒パンをスープに浸して食べる。こうすると塩辛さが和らげられるが、それでもまだかなり塩辛い。なんの肉なのかはわからないが、それでも当たり前のように肉入りスープが食べられることに感謝しながら匙を置く。これからしばらくのあいだは、まともな食事はとれそうにないのだから。
昨日まで泊まった四件の宿屋では、客が料金を支払わずに逃げるのを防ぐためか、すべての窓に木や鉄の格子が入っていた。入口の前には一晩中兵士が立っているので、気づかれずに逃げることはできなかった。
この宿屋には、部屋が二階にあるからか窓に格子はない。
兵士たちも、まさか私が逃げるとは思っていないはずだ。
月は新月に近いが、晴れているので月明かりがないわけではない。本当の暗闇では、ただの農夫である私がむしろ困ってしまう。
食器はいつも、起こしにくるときに下げていたから、これから朝まで邪魔は入らないはずだ。
腰の短剣に布を巻きつけて、音が出ないようにする。袋の中から外套を出し身につけた。
初夏とはいえ、夜はまだまだ冷える。
こまごました荷物を入れていた袋を体に縛りつける。一年間の旅暮らしで、戦士としての技量はあがらなかったが、旅人としての経験は学んだ。袋の中身は驚くほど少ない。
ここまで準備してから、部屋の外にいるであろう兵士の様子をうかがう。
特に反応なし。
掛け布団の下に、不要な荷物で人の形をつくっておこうとするが、荷物が少なすぎてそれっぽく見えないことに気がつく。いまさらどうしようもないので、布団をわざと乱しておく。
灯心を指でつまんで灯りを消す。
子どものころ、父親が親指と人差し指で灯心をつまんで消すのをみて、真似して指先を火傷したのを思い出す。年を取ると、面の皮だけでなく指の皮も厚くなるようだ。
息をひそめて、もう少しだけ廊下側の反応を待つ。
廊下にも灯りがついているようで、入口のドアの下から灯りが差し込んでくる。
これなら、窓からの月明かりが廊下がわに漏れることはない。
できるだけ音をたてないように窓の掛け金を外し、窓を少しだけあけて外の様子をみる。
目が暗闇に慣れてきても、動いているものはなにもなかった。
できるだけ音がしないように気をつけながら、窓を大きく開ける。
窓の下は、土が踏み固められた道のようで、ここからまっすぐ下に降りても問題はなさそうだった。
右足を下の窓枠にかけ、体重をかける。大きな音がしないことを確認してから、腰をかがめた状態で全体重をかけて窓枠の上にのる。よちよち歩きのように、少しずつ足をずらして体の向きを変える。両手で窓枠をつかみ、そろそろと足を窓の外におろしていき、おなかを窓枠の上にべったりとつける。両手を少し休ませ、今度はおなかを窓の外に滑らせていく。しだいに全体重が両腕にかかり、窓枠からぶら下がるような姿勢になった。
目算では、この状態で地面から足先まで身長と同じくらいの高さのはず。
意を決して、窓枠を握る手を放す。
その瞬間、すべての重さが消えた。
両足に衝撃が襲う。着地するときに膝を曲げ、衝撃を逃がそうと思っていたのだが、体が反応できない。
バランスを崩し、背中から地面に倒れこんだ。衝撃で息が詰まる。
予想していたより大きな音が出たに違いないとは思ったが、体が動かない。
道の上であおむけに転がり、自分の部屋の開け放された窓をみつめることしかできなかった。