鉦の音。
まぼろしか。
みんな今頃なにをしているのだろうか。
寒い。
温かいお湯につかっているはずなのに、とても寒い。
あの4人にバカにされるのは仕方ない。あの4人は英雄であり、私はただのオッサンなのだから。
4人はきっと子どもの読む絵本の登場人物となり、たくさんの子どもの胸を躍らせる英雄になるだろう。
百年たっても、二百年たっても忘れられずに人々の心に生き続けることだろう。
私はいまここで死のうとしているが、ひと月後でさえ私のことを覚えている人間が何人いるだろうか。
人はいずれ必ず死ぬ。
だから死は受け入れることができる。
しかし、自分がこの世界に存在したことを、誰も覚えていないことは悲しい。
子どもでもいれば、父親が死んでもその記憶は残るだろうし、孫は優しいおじいさんを忘れはしないだろう。
誰にも愛されず、誰からも忘れられる。
死は恐れないが、忘却は恐ろしかった。
浴槽はきれいな朱に染まっていた。
そのときはじめて死にたくないと思った。
早く血を止めないと、と思うが両腕がうまく動かない。
寒い。
まずは湯船をでなければ、と思うが膝に力が入らず、立ち上がることができない。
ダメか。血が流れすぎだ。
手遅れになってから後悔するとは、いままでの人生そのものだ。
あー死にたくないなぁ。心の底から願う。
その時、突然頭の右うしろで鐘の音がした。鐘というより、お祭りの時に鳴らす鉦のような甲高い音だ。
チキチン、チキチン、チキチン。
三度なって音は止まった。
頭は浴槽の後ろ側に持たせかけているから、後ろは壁のはずだ。壁の向こうからきこえたにしては、音がはっきりしすぎていた。
振り返りたかったが、体が思うように動かない。ふと自分の体をみると、また黄色い光が全身をおおっている。この光はなんなのかと考えるが、答えはみつからない。
そのとき、鉱泉から食堂への出口の扉が突然開いた。
「なんじゃこりゃ」
湯気ではっきり見えないが、声はなじみのあるものだった。
助けて、といいたかったが声が出ない。
ベンユ爺さんが湯船に入り、私の右腕をつかんで湯船から引き上げようとしているが、重いのでなかなか動かない。
そのとき私の意識は途切れた。
気がつくとベッドに寝かされていた。
部屋の家具からすると二階の自分の部屋ではなく、一階の宿泊客用の部屋のようだ。
左手首には布が巻き付けられていたが、血はにじんでいない。
どれくらい眠ったのだろうか。
水が欲しい。
のどが渇くのだから、生きてはいるのだろう。
また意識が遠のいていった。
扉の開く音で目がさめる。
私の首が動くのをみて、ベンユ爺さんは驚きの表情をみせる。
「おお、気がついたか。テキン様も回復術では血は戻せんから、意識が戻るかどうかはわからんといっておったが、よかったよかった」
ベンユ爺さんの、打算のない笑顔がうれしい。
声を出そうとしたが、唇が渇いていてうなることしかできなかった。
「水を飲むか」
枕もとの水差しから皿に水をそそぎ、頭をもちあげて私の口元にあてがう。
皿からすするように水を飲み、目でもっと水を欲しいことをうったえる。
「水くらい、いくらでも飲め」
何度も皿に水がそそがれ、口とのあいだを往復する。
「ありがとう」
かすれた声で、ベンユ爺さんに礼をいい、気になっていたことをきいてみた。
「何日」
「何日。何日寝ていたかということか。今日で3日目になる」
思っていたよりも眠っていた時間は短かったようだ。
「ちょっと待っていろ。急いでテキン様をよんでくる。意識が戻ればもう一度回復術をかけるとおっしゃっていたからな。絶対に眠るんじゃないぞ」
また意識が薄れそうになるが、さきほどの水が与えてくれた力でかろうじて踏みとどまる。
どれくらい時間がたったのかわからなかったが、ドタドタという音とともに、ベンユ爺さんが枯れ枝のような老人をつれて部屋に入ったきた。