時薬。
自分が逆の立場なら、仕事場の好きでもないオッサンにいい寄られれば、そんな職場にいきたくなくなるだろう。
もっとこう、なんとかできなかったのか。
恋愛経験のないオッサンが、勝手に舞い上がって、勝手に告白して、勝手にフラれただけだ。
なにが絶対に幸せにするだよ、身の程をわきまえろ。
髪の毛をかきむしりながら、自分の恥ずかしいことばに赤面する。
もっと時間をかけて、お互いにもっと深く知りあうことができれば、結果は変わったのではないか。
覆水盆に返らず。
シェスが、どこかで誰かに私のことを、オッサンのくせに結婚を申しこむとかありえないとバカにしている姿が頭に浮かんだ。
恥ずかしすぎる。この町から逃げ出そう。
私のことを誰も知らない町にいって、そこで死ぬまで一人で暮らそう。
いや、いっそのことシェスを殺して自分も―――とてもではないが、そんなことはできない。
けっきょく、その日シェスはこなかった。
翌朝、目が覚めると服を脱ぎ捨てて鉱泉に飛び込む。自分の鉱泉なのだから、どんな風に使おうと誰にも文句はいわせない。
鉱泉からあがり、体を拭くと、このひと月続けてきたのと同じようにスープ準備する。
最後の味の仕上げはシェスにまかしていたが、今日は自分なりにかなり多めの塩を入れて調整しておく。
しばらくすると、常連になった鉱夫が二人、食堂に入ってきて、いつものように朝食を注文する。
「あれ、今日もシェスさんいないの?」
何気ないことばが、私の心をえぐる。今日は休みだとこたえ、スープを運ぶ。
「なんか今日はスープの味がうすいね。塩をもらえる?」
黙って塩の入った小さな壺をわたす。
しばらくすると、二人は食事を終えて出ていった。
誰もいなくなった食堂で、ひとり考える。
昨日も今日も、代官所の役人がこなかったが、ひょっとしてシェスはあの役人に?
いや、あの役人がくるようになってから、まだ10日もたっていないはずだ。
私は、あの役人の名前も知らない。
シェスが名前をよんでいたような気がするが、興味がなかったのだ。
さきほどの二人の名前も知らなかった。
どうせ今日も昼に食事をとるお客さんは来ないだろうと、メニューの板を下げる。
どれくらい時間がたったのだろう。
椅子にすわり、テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、人の気配がした。
「おーい、今日も鉱泉を使わせてもらうぞ」
ベンユ爺さんだった。
暗く落ち込んでいる私をみて、ベンユ爺さんはよくわからないメロディーの鼻歌を止めた。
「どうしたんだ、あんた」
「べつになんでもありませんよ。ちょっと疲れただけです」
ベンユ爺さんに相談しようかという考えが頭をよぎるが、やめておく。
失恋話を相談するほど、ベンユ爺さんに心を開いているわけではない。
「勝手に使ってください。食器を片付けてきます」
朝の二人連れの食器を、やっと片付ける。
長い時間ほったらかしにしていた椀は乾ききってしまい、野菜がこびりついていた。
完全に乾くと、洗うのがめんどくさくなるな。しばらく水につけて置くか。
普通のことを考えると、気がまぎれる。
洗い物をして、テーブルを拭いたり、掃き掃除をすることにした。
しばらくすると、ベンユ爺さんが鉱泉からでてくる。
なにかいいたそうにしていたが、こちらが話しかけないので、なにもいわずに出ていった。
今日はもう寝ることにしよう。
布団に入って、目を閉じていれば睡魔が忘却の世界に連れていってくれるはずだ。
時間だけが、この気持ちを癒してくれる。