はじめての幸せ
ベンユ爺さんたちが帰るのを見送ったあと、シェスにあらためてきいてみる。
「まかないで食べてるときに、味がうすいって思わなかったのかな」
シェスはうつむいて、なんと答えようか少し考えていた。
「たしかに、少し味がうすいような気がしました。でも、町ではこんな味付けが普通なのかなって思って」
消え入るような声でつぶやいて、悲しそうな顔をした。
たしかに、魔竜退治の旅に出ているときも、4人から料理の味がうすいと文句をいわれたことがある。
塩や香草でそれぞれ好きなように味の仕上げをするということで、最後はみな納得したのだが、たしかにテシカンなどはたっぷり塩をふっていたような気がする。体を動かす剣士だからと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
台所にもどり、木の椀にスープをよそって、木の匙と塩入れの小さな壺を手にして食堂に戻る。
「どれくらい塩を入れればちょうどいいか、シェスティンさんの好みでいいから味付けしてみて」
シェスはスープと私の顔を交互に見比べながら、おそるおそる塩の壺に手を伸ばす。
壺から人差し指と親指で塩を一つまみして、スープに入れる。匙でかき混ぜ、味見をしてから、私にチラリと視線を走らせた。
「遠慮しなくていいから、正直に」
さらに二つまみほど塩を入れ、もう一度味見をしたが、味に納得できないのか首をひねり、さらに一つまみ塩を入れてかきまぜた。
「これくらいで、ちょうどいいと思います」
シェスは、おずおずと椀と匙をこちらにすべらせた。
匙を手に取り、スープの味を確かめようとしたが、その匙でさきほどシェスがスープを口にしたことに思い至る。
花びらのようなシェスの唇が触れた匙を、私のようなオッサンが使ってもいいのだろうか。思わずシェスの顔を見てしまうが、特に不快感などをあらわす様子はない。
ためらいは一瞬で、スープを味見する。
めちゃくちゃ塩辛い。
こんなものを皿一杯飲むことは、とてもじゃないができないんじゃないか。
しかし、上目づかいでこちらを見るシェスには、一片の悪意も見られなかった。
多くの人が、私の料理を味がしないと思っている。
ベンユ爺さんやシェスが嘘をつく理由はない。
つまり、私の味覚がおかしいと考えるのが当たり前だ。
「旦那様は宿屋を現金で買い取るようなお金持ちですから、この味つけが上品なお金持ちのものだと思っていました。ごめんなさい」
シェスが潤んだ目で声を震わせながら、頭を下げた。
人から邪魔者扱いされ、自分には価値がないと思って泣いていた男が、今度は別の不幸な女性を悲しませる。
シェスへの愛おしさがこみあげ、いたたまれない気持ちになる。
「いや、ごめん。謝るのはこっちのほうだ。俺がおかしいのに、君が謝る理由なんてぜんぜんなくって―――」
シェスがテーブルの横をすりぬけ、私の胸に飛び込んでくる。
小さい。
細い。
はじめに感じたのはその二つだった。
右手には匙をもったままだし、自分の胸の中で嗚咽をあげるシェスをどうしていいのかわからなかった。
肩くらい抱くべきなのだろうか。それともぎゅっと抱きしめるべきか。
永遠とも思える幸福な一瞬は、あっというまに過ぎ去った。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
目を真っ赤にしたシェスが、あわてて私から離れる。
気まずい沈黙が、あたりを支配する。
気まずさに耐えられなくなった私が、必要以上の大声で沈黙を破る。
「謝るのは私のほうです。シェスティンさん。むしろ、本物のお客さんが来る前にわかって、よかったんじゃないですか。これからは、料理の味付けをシェスティンさんにお任せしたいと思いますが、お願いできますか」
目じりの涙をぬぐいながら、シェスがうなずいた。
「ロワさん、雷が鳴った時のアヒルみたいな顔してますよ」
どちらともなく、二人の間で笑いがふきだした。
人生で初めて感じる幸せで、私の胸は満たされていた。
しかし、私はそれが大きな間違いであることを、後に知ることになる。