開店準備。
「おはようございます」
表のほうから女性の声がする。おそらくシェスティンさんが来たのだろう。
少し待つように声をかけ、表にでる。
「おはようございます。早いですね」
笑顔がまぶしい。
「募集の張り紙ははがしたんですか?」
観察力もなかなか優れているようだ。
「雇いたい人が決まったのではがしたんですよ。シェスティンさん、あなたを雇いたいと思うのですが、どうでしょうか」
シェスティンさんは、とびっきりの笑顔でうなずいてくれた。
「ありがとうございます。それで仕事はいつから?」
「さっそく明日からはじめたいとおもっているのですが、どうですか」
「大丈夫です。何時にここへ来ればいいのでしょうか」
旅の途中で立ち寄った大きな町には、朝早くから軽い食事をだす料理屋があった。スープとパンだけの食事だが、近所の独り者が仕事へいく前に腹ごしらえをするために寄り道をしていく店だ。昼には少し裕福な商人が食事に立ち寄り、夜は肴と酒を目当てに人が集まってくる、そんな店。しかし、赤銅亭ではしばらくのあいだは、酒と夕食は提供しないつもりだったので、朝から昼まで働いてもらうのがいいだろう。
「三の鐘の少しあとから、七の鐘までではどうでしょうかシェスティンさん」
「朝から昼過ぎまでということですね。わかりました。それと、雇われてるんですから、これからはシェスでかまいませんよ」
まじめな顔で答えるシェスティンさんも可愛かった。恥ずかしげもなく見とれていると、明るい声で別れの言葉を残し、きびすを返して出ていった。
これはまずい。
完全に惚れてしまったんじゃないか。
今まで、人を好きになることや、人に好きになってもらうことなんて、自分には無縁なものだと思っていた。広い世界をみて、ある程度お金の余裕ができると、人間は新しい欲を持つようになるのかもしれない。
明日が待ち遠しいが、いろいろと準備をしておかなければならないことがあることを思い出す。
まずは食材をもう少し仕入れなければならない。
それに宣伝も必要だ。紙は値段が高いので、大きな町の料理屋は黒く塗った板に蝋石で、その日の料理の種類を書いていた。このあたりの町では見たことはないが、お客さんをよびこむいい方法だと思っていたので、すでに板と蝋石は準備している。
明日の朝から食堂をはじめてみても、しばらくはお客さんはこないだろうから、シェスティンさんへの仕事の説明もゆっくりやっていけばいいだろう。
八百屋の御用聞きにはネギと香草を、肉屋には脂の多い腸詰と、猪肉の大きな塊を注文しておく。
お客さんがこなくとも、歓迎の意味をこめてシェスティンさんに振舞ってもよいだろう。
板に蝋石でためしに書いてみる。
<スープとパン、鐚銭5枚>
ピンとこないので、布を濡らしてきてこすって消す。
<腸詰と葱のスープとパン、鐚銭5枚>
こちらのほうがわかりやすいだろう。
字の下手さが気になるので、シェスティンさんがきれいな字を書けるならお願いしてもいい。
薪代と材料費を考えると、一人に1杯のスープとパンを売れば、もうけは鐚銭1枚。
シェスティンさんに日当の銅貨1枚払うためには、すくなくとも10杯のスープを売らなければならない。それ以上は自分のもうけとなるが、とりあえずは一日10杯を目標としよう。
このあと、私の見込みがいかに甘いものであったかを思い知ることになるが、そんなことはどうでもよかった。
シェスといっしょにいられる時間こそが至福だったのだから。