第四十四話 エルモの屍山
エルモの屍山。それはラブリスの大連峰の南端に位置する、謂わば大連峰の入り口。東西南北にそれぞれある入り口と呼ばれる山を越え、初めてその大連峰へと足を踏み込める。
入り口……そう、地獄への入り口。
ラブリスの大連峰を踏破した人間はいない。如何なる実力者も足を踏み入れたが最後、そこから帰った者はいない。
『魔王の居城がある』、『あまりに濃い瘴気により生物は存在出来ない』、『魔界への入り口』、『魔界そのもの』など説は多数ある。
多数あるのだが、それを確かめた事のある者はいない。確かめに行った者は誰一人帰って来ていないのだから。
故にラブリスの大連峰、そこはこの大陸……いや、世界における人類立入禁止区域となっている。
クレアはその大連峰より遥か南、大連峰の入り口とされているエルモの屍山の入り口とされる林道より数キロ離れた小高い丘の上にて一人佇んでいる。
その視線の先にあるとは当然の如くエルモの屍山。見えるのは瘴気漂う、痩せ枯れた人の棲まう事の許されぬ荒れた森林群のその入り口。
双眼鏡を片手に様子を見ると山の中で何かが動く気配は欠片も無い。普通ならばいるであろう動物達の動きすらも。
(しっかし、いつ来ても不気味よね彼処は)
覗き込む先の異様な雰囲気に体が強張る。あの山より流れて来る風が頬を撫で、それは不気味なまでに冷たくその身に纏わりつく。
彼女は過去に一度……と言ってもまだ一年程前の話だが、一度この山を訪れている。それはギルドからの依頼でこの山に逃げ込んだ魔物の討伐。
討伐自体はすぐに終わったが、流石屍山と呼ばれるだけあり、その瘴気に当てられて供をしていたギルドナイト数名が死亡、クレア自身も謎の高熱にうなされ一週間もの間床に伏せていた。
今は彼女が首から下げるネックレス、【退魔】の術式の掛かった装飾品があるので多少の無茶は出来るだろうが、正直気は進まない。
そもそも何故私がこんな危険を冒してまで魔物の国を救わねばならないのか。
(決まってるでしょ。親友の為よ)
自問自答にすらならぬ一問一答にて己の疑問を払拭し、クレアは足を一歩踏み出す。
「パトリシア、アンタは此処で待機よ。
その際に彼女について行こうとした送迎役のフレアのペット、小型飛竜種のパトリシアを言葉で制止する。
この飛竜はあくまで送迎役。戦闘に巻き込まれて翼を怪我でもされたら帰りが大変だと。
クゥォォオオオ……と小さく唸る飛竜。フレアの躾がしっかりしている為か言う事をよく聞いてくれる。
そうしてパトリシアと別れておよそ一時間、まだ山の入り口には辿り着いていない。近付けば近付く程に瘴気が濃くなり、空気が重く淀み、体を動かす事は愚か呼吸すらもキツくなる。
まだ山に到着すらしていないのにだ。
一年前はそんな事はなかった。ならば一年前と比べて耐性が落ちたのか? いや、違う。
彼女は黄金騎士として常に成長を続けて来た。さらに今は【退魔】の効果のある装飾品も着けている。
純粋に瘴気の量と質が一年前とは桁が違うのだ。
そんな彼女が山の入り口に着いたのはそれから二時間後。あまりの瘴気の量に何度も嘔吐した。何度も気を失いそうになった。
だがそれでも愛剣を杖代わりに、己に光の回復の術を掛けながら、這々の体でなんとか山の入り口に辿り着いた。
こんな濃い瘴気の中、離れた地に異常気象を起こさせる強力な魔物相手に、万全の状態ならばいざ知らず、今のこの状態で勝てるのかと、考えたくもない事まで考えてしまう。
_____私はこんなに弱い人間だったのか。
「……らしくないわね」
弱音を吐きかけた己を律し、頬を両手で叩く。
さて行こ_____
「ッッ!!」
瞬間的にクレアは己より右側へと跳んだ。距離にしてほんの二メートル。ドウッと大地を抉る音。何が起こったのか確かめるまでもなく彼女は腰より提げた伝説の剣をその鞘より解き放つ。
「……これはまためんどくさそうなのが来たわね」
上がる土煙り、だが風もなく僅かしか上がらぬ砂埃ではその姿を隠す事は出来ない。そしてそこにいるのは二つの影。
文字通り、言葉通りの【影】が二つ。だがそれは紛れも無いただの影。ただの影が同じく影の剣を持ち、クレアが数瞬前まで立っていたであろう地面を突き刺している。
クレアと同じくらいの背格好、だが厚みは無い。厚みと言っていいものか、そこに存在するは存在せしもの。
文字通り言葉通りの影が二つ、そこにあるだけなのだ。
「影騎士……ね」
ポツリと、その正体を口零した瞬間に再び斬り掛かる二体の影、その動きは洗練されたギルドナイトに引けを取らない。
影騎士とは影人と同系列だが進化を違えた別系統の魔物である。
自我と知識、肉体を手に入れた魔族である影人。対して影騎士は自我も何もなく、それらを使役する術者の思うがままに高い戦闘力を振るう魔物。
種としては影人の方が遥か高みにいるのは間違いないが、純粋なる強さ……と言う点では影騎士に軍配があがる。種の繁栄を目的とする影人と、戦闘を目的とする影騎士の差だ。
……が、それでも所詮は一介の魔物。英雄とまで称されるクレアには敵わない。
幾重にも斬り掛かってくる二体の影騎士の連撃をクレアは苦もなく躱す。幾らギルドナイト並みの力があろうと、それは良くてB級。A級ギルドナイトのクレアとは天と地程の実力差がある。
十体程で一斉に来るのなら未だしもたかだか二体、それでは黄金騎士は仕留められない…………クレアが瘴気に侵される事なく全力を出せるのなら、だが。
クレアは【光の加護】を受けている。平たく言えば光属性の持ち主だ。それに対する影騎士は闇。クレアの攻撃は影騎士を容易く消滅させるだろう。この瘴気に蝕まれてさえいなければ。
この瘴気は生者を蝕む呪いのようなもの。彼女の中の光は呪いを抑えるのにその力を使っている。
つまりだ。闇の者である影騎士はクレアに対して強いアドバンテージを持ち、そしてクレアは光の力を使えぬ以上はただの【影】である影騎士を斬る事は出来ない。影には斬られるといった概念など存在しないからだ。
故にクレアはただ避ける。
縦に振り下ろされる一刀を体を捻り最小限動きで、続く横薙ぎの一撃は左脚を後方に、上体を大きく反らせて回避する。
そして歩幅で三歩分跳躍にて後退し、己の持つ伝説の剣を影へと向ける。
「私の言葉が通じるなんて思ってない。でも言わせてもらうわ」
力強い目で影を見据え、真っ直ぐに言の葉を紡ぐ。
「私は魔族を憎む。魔族を呪う。しかして友は魔族の王、ならばこそ私もこの手で滅ぼす相手はしかと見定める。過去に囚われ無秩序に滅ぼす事は正義とは言わない。言わないが、攻められるのであれば戦うわ。全力を以ってして貴方達を滅ぼすわ」
終わると同時、伝説と呼ばれし彼女の【水龍の剣】、その切っ先より水滴が落ちる。
同時、その二体は彼女へと攻撃を開始する。
「……そう、届かないのね。なら仕方ないわよね」
そう呟いた彼女はとても良い笑顔を浮かべていた。
直後、水の刃が二体の影騎士を横薙ぎに切り裂いた。
剣を振るったのではない。
水龍の剣は【魔剣】である。その力は周囲の水を操る力。効果範囲は決して広くはないが、それでも汎用性は恐ろしく高い。今の一撃も空気中の水分を集めて刃としたものだ。
ただの剣での攻撃と違い、水龍の力を扱う【概念】の一撃。影だろうがなんだろうが御構い無しに切り裂く強力過ぎる力である。
が、これには欠点が一つある。それは剣の能力発動に必要な魔力が多い事だ。人間の中では高い魔力量を誇るクレアでも日に十発も打てれば良い方だろう。
ちなみにフレアなら数百発は打てる。
ともあれ影騎士の消滅を見届け、戦いは終わった。エルモの屍山入り口における初戦は____だが。
入り口でこれだ。しかもいきなり切り札である水龍の剣の能力を使わされた。
「……先が思いやられるわね」
体調も最悪。切り札の温存もままならない。未だ入り口。これより濃くなるであろう瘴気。
愚痴りたくもなる。
しかし、重い病に倒れた友の為。彼女は気力を振り絞る。
◇◇◇
「はい、フレア様あーんしてください」
「泡影……私は病人だぞ?」
「だから病人のフレア様の為に病人食の沼地に住む六本足の一つ目カエルの姿焼きを持ってきたんですよー?」
「いや……あのな、病人食って言ったら消化の良いお粥とかな? そんな感じのがだな?」
「これも消化にいいですから安心してください! 消化によく栄養満点で舌に乗せたらとろける至高の逸品ですよ?」
「なにそれこわい」
「フレア様? 王たるお人が好き嫌いはよくないですよ?」
「好き嫌いの問題か? ……と、そうだ、先にそれ神崎博之に食わせてこい。それからにしよう私が食うのは」
「神崎様はフレア様より先に持って言って無理やり食べさせましたよ?」
「あれ? 結果としては別にいいんだが、それ普通に順番おかしくないか? 普通私に先に持って来ないか?」
「どうせ神崎様に毒味役をさせるだろうと思っていたので先に食べさせてきたんです」
「なにその行動力こわい」
「てなわけでほら、フレア様あーんしてください」
「待て、それを食った時の神崎博之の感想を教えろ」
「吐いてまし……ってフレア様暴れないでください!」
「ええい離せッッ! んな下手物食わされるくらいなら風邪こじらせて肺炎での死を選ぶ!」
「そこまで!? って大丈夫ですから! 普通に美味しいですから!」
「やめろ! 離せ! それを近付けるなぁぁああああっ!!」
「あ、割と美味い」
「そりゃ魔物用のご馳走ですから。人間の神崎様には合わなくて当然ですよ」
「うむ、うん、普通に美味い。泡影、おかわり」
「はいはい、すぐお持ちしますよ」
最近更新が超鈍亀で申し訳ないです。




