黒い子猫、どこへ行くか
猫とは実に興味深い生き物だ。
己が好奇心に忠実で、何らかの危険があるかもしれないにも拘らず、時折わたしに近寄って、あるいはじゃれてくる猫もいる。時にそれはわたしに傷を与えることもあるが、猫にしてみればそんな気はない。ただ、好奇心なのだ。
空き地の茂みの朝露が残るころ、最近よく黒い子猫がわたしを訪れる。ずんぐりむっくりとしていて、転がせば転がっていきそうにまるまるとしている。毛並みもよく、ふさふさとしており、できるならその上で寝転がってみたいほどだ。
どうやらこの子猫、遊び相手としてわたしをいたく気に入ってしまったらしい。迷惑ではあるが、子供の相手をしてやらなければ、大人気がないというものだ。痛い。
この子猫、まだ生まれてそう日が経っていないのだろう。危険がある場所にも無警戒に飛び込んでしまう危なっかしさがある。この日も、道路に飛び出しそうだったところをわたしが止めなければ、命がなかったかもしれないという瞬間があった。
どこにいっても、動物は常に危険の中で生きるものだ。それをこの子猫はまだ理解できていない。いずれわかってくれるとよいのだが……
それから少し経ってのこと。
ここしばらく、子猫が来ていない。来るのは悲痛な鳴き声で我が子を探す黒い親猫だけだ。わたしには子供を失う悲しみなどわからないが、きっと、それは辛いものなのだろう。親猫の声がそれを物語っていた。
それが命である。わたしは子猫からそう教わった。命は常に生きながら、死へと向かっているものだと。
それは全く面白くない事実だ。子猫も親猫も、そしてわたし自身でさえ、死へと生きている。生きている以上、絶対にその縛りから抜け出すことはできないのだろうか。それとも、わたしの知らない命の生き方があるのだろうか。
それを考えるわたしは、まるで子猫のようだった。最後の好奇心に、わたしは興奮した。
ああ、あの子猫はわたしを見て、きっとこのような気持ちだったのだろう。それは、まあ、最後に味わう感覚としてはいささか陳腐かもしれないが、どうしてか、なかなかに良い。
わたしは生き物だ。わたしは生き物として、生きている。わたしがわたしの種として生まれ、無事に生き長らえたということは、次世代の種を残す義務を持つということだ。その義務も、もう全うした。あとはこの、わたしより一回り大きい雌の個体が、わたしの頭を喰って、それで終わりである。
あの子猫は最後に、どこへ行ったのだろうか。
頭の外殻が砕かれる音だけが、最後に延々続いていった。