「こんなに風が強いなんて」
「こんなに風が強いなんて」
強い風が正面から吹き付けてきて、まともに目を開けていられない。酸欠になりそうだ。
メルサは目を眇め進行方向を見た。
風に煽られメルサの黒髪が頬を叩く。
はるか空の上は風が強くて寒いなんて、今まで知らなかった。
月夜の飛行実習でだって、学院の一番高い塔より高くは飛んだ事がなかったから。
メルサは落とされないよう、そして高所の恐怖を紛らわすためにチビの首にぎゅっとしがみついた。チビの首の皮膚は硬くて、ひんやり冷たい。
女子寮の窓から飛び出したあと、落下しながらチビに着せたローブが風を含んで広がったかと思うと、黒竜がその下から現れた。それは紛れもなくチビ。
誰も下にいなくて良かったと胸を撫で下ろす。
メルサとそう変わらない大きさのチビは、メルサを背中に乗せて、薄い皮膜状の翼をはばたかせて大空を舞った。
チビはメルサを乗せていても力強くぐんぐん上をめざす。
上昇の途中、バチンと弾けた音と静電気にも似た衝撃を受けたが、あれはなんだったのだろう。
放物線を描くように舞い上がったチビとメルサ。黒い森に囲まれた古城のような佇まいの魔術学院が小さくなっていく。
「どこに行くの」
問いかけても返事はなく、金の瞳に黒い縦長の瞳孔はまっすぐ前を向いている。
ドラゴンの姿でも意思の疎通は可能なはずなのに。チビにその意思がないということかと、メルサは鼻白んだ。
メルサのローブは、窮屈そうにチビの首に引っかかって風を含んで暴れる。
黒い森を越えて、雪に覆われた集落の灯りがポツポツと見えたかと思うと、瞬きの間にその景色は雪深い山脈へと様変わり。
そして尾根に沿って東へと飛んでいくと、雪は姿を消して、大きな道幅の街道が森の中にまっすぐと通っていた。
夜の闇を寄せ付けない灯りが目の前に現れる。
ずいぶん大きそうな街だ。
大陸の向こうに途方もなく大きな、たっぷりと黒い水を湛えた……知識でしか知らない海が見えた。
「海が……!」
メルサははじめて見る景色におもわず歓声をあげた。
その直後、チビは急旋回し降下をはじめる。
「ひゃあ……!」
メルサがその首にしがみつく。ひとりと一匹は街道端の林の中に降り立った。
「うわっ」
ガサガサッと繁みが揺れる。彼らが降り立つに最適な空き地があるわけはなく、ただ木の間に突っ込んだだけだったのだから、それも当然だった。
地面に踞ったローブがモゴモゴと蠢くと、それは高さを取り戻して人間に姿を変えたチビが出てきた。
メルサは軽くチビを睨み、問いかけた。
「ここはどこ」
チビは獣がするようにふるふると頭を振り、髪についた葉を落とすと、ニッと笑った。
「知らない」
予想外の言葉にメルサは口が閉まらない。そんなメルサをバカにするようにチビは言う。
「孵化してこのかたメルサの傍から離れた事がないのに知るわけないだろ」
「それもそうか」
メルサはがっくりと肩を落とした。まあ、帰ろうと思えば帰ることができるのだからいいかとメルサは思う。
チビは人間の姿になっても夜目が利くのだろう。先ほどからチュチチュチ、とかヂーヂーとか鳴き声が闇から聴こえる度に興味津々にキョロキョロと落ち着きがない。
メルサはチビのローブの下が裸だと思うと落ち着かない。
日中ならば、近くの民家の洗濯物から衣類を拝借することもできなくはないが、今は夜である。とっぷりと日が暮れている。こんな時間まで洗濯物を干したままになっている家があるとは思えない。
濡れた服を乾かす術は知っていても、服を魔法で出すことはメルサにはできない。そもそもそんな魔法があるのかも知らない。
「帰ろうよ」
せめて服を用意してからまた来よう?
闇に目を凝らすチビにメルサは言う。チビは細い顎をあげたかと思うと、鼻をひくひくとさせた。
メルサもクンクンと嗅いでみるが、青臭い植物の匂いがするばかりで、チビが何を嗅ぎつけたのか分からない。
「メルサ、こっちから旨そうな匂いがする」
ずかずかと下生えをかき分け、踏みしめ歩くチビに引っ張られ、メルサは無駄とは思いつつ、やっぱり声をあげずにはいられなかった。
「チビ、服! 服ー!」
ただでさえ林の中は虫が多いんだから、吸血虫に大事なところ刺されたらどうするのとメルサはヒヤヒヤする。
「しっ」
鋭い空気の噴出音とともにメルサの口をチビの手のひらが覆う。
「?」
ゆっくりと何かを窺うように草陰にチビが屈んだ。メルサもそれに倣い、そしてチビが指でさすほうを見る。
すると、そこには大きな木を背にした三人の男が座っており、大きな袋を囲んでいた。すぐそばにも紐が弛んだ袋が横倒しになっている。
小枝を集め火も焚いている。そして、何かの肉を火で炙っているようだった。
男たちの風体は上品とは程遠い。ひとりが下卑た笑みで袋の中に手を突っ込んだ。持ち上げた手からこぼれ落ちるのは、まばゆい金貨、銀貨。そして横倒しになったもうひとつの袋からのぞいているのは、銀食器、クリスタルのグラス、ネックレスなどの宝飾品。
とうてい彼らの持ち物とは考えられない。どこかで盗みを働いてきたのではないかとメルサは思った。
そして同時に見つかったら大事だと、身体中に緊張をみなぎらせる。
彼らがもし魔法の使えない人間だった場合、メルサが魔法で攻撃することは禁止されている。
また、彼らが魔法使いだった場合も半人前のメルサにどれくらいの勝率があるだろう。
ここは逃げるが勝ちだ。
「……帰ろうよ」
ヒソッとチビに声をかけるも、チビは獲物を狙う大型動物の目になっている。
「い・や・だ。お腹が空いた」
「帰ったらごはんあげるってば。ウィルがごはん用意して待ってるよ」
チビが狙ってるのは肉か盗賊か。それとも金貨か。
いくら相手が盗賊だからといって、泥棒から盗むことをしてはいけない。メルサにだってそれくらいの分別はある。
ああ、まともな人間というのは、生きるのになんと制約の多いことか。
「大丈夫、うまくやるから」
「うまくやるからじゃなくて……他人のものを奪うのは泥棒なの」
マスターってものの善悪もしつけなきゃいけないのか……。
ドラゴンとしての道徳心のあり方は分からないが、人間とともに生きていくなら、お互いのためにそれは必要な知識である。
メルサは気持ちを強く持った。
「とにかく、他人の物を盗っちゃだめ!」
メルサが場所も考えずにチビを叱りつけた結果、盗賊たちは一斉にメルサたちが隠れている繁みに顔を向けた。
そして頭目と思われる男が、ひとりの男に指示をし、立ち上がった男は、猪の頭でもかち割れそうな鉈をつかんでゆっくりとした足取りで近づいてきた。