一、『少年は過去に縛られ、失う』
その日、『白技 奏』という少年は、生きる目標を失った。
彼が住む児童養護施設の食堂。そこに置かれているテレビに、早朝のニュースが映し出されている。
内容は、十年前に起きた連続通り魔事件の続報。
多くの人間を殺傷し、逃走をし続けていたとされていた犯人が、山中で白骨化した状態で発見されたというものだった。
愕然と立ち尽くしている奏の周りでは、彼と同じ入所児童達が食事をしているが、声を掛けるものは誰もいない。
皆、報道の意味と、奏との関連を知っているからこその無関心。
何故なら、奏は、報道されている通り魔殺人犯に目の前で家族を、父を、母を、妹を殺され、唯一生き残った子供だからだ。
そして、人生の全てを復讐のために、なりふり構わず、ただただ一つ、犯人を自らの手で殺すために生きてきた。
隠しもせず、周りから咎められ、諭されても、自らを鍛え、苛め抜き、律し続ける生活。
そんな十年を過ごしてきた奏の身体は、高校生には見えないほど鋭く研ぎ澄まされている。
百八十以上の高身長。脂肪の一切付いていない筋肉質の体。伸ばし放題になり、無造作に首の上で縛った腰まである黒髪。人を射殺せそうなほど鋭い目。その左目斜め上に走る傷痕が、学生服を着ていなければ未成年どころか、真っ当な人間であるかどうかさえ疑念を抱かせるほどに凶悪な顔付きにさせていた。
容姿だけでも彼が歩んできた道の険しさ、孤独さを感じさせるものだったが、それもこれも全て、今日無駄になった。
ニュースが終わり、それでも立ち尽くす奏の周りから、次々と人が消え、食堂から誰もいなくなる。
テレビは既に消されており、なにも映し出されていない。
だが、それでも、奏はその視線を暗くなった画面に呆然と向け続け、外の光景が夕闇に染まり始める頃、不意に彼の意識は途切れた。
「喋らないで、悲鳴も上げちゃ駄目よ。絶対に、なにがあっても動いちゃ駄目よ。お願いだから」
そのぬくもりに強く強く抱き抑えられながら、言われた通り喋らなかった。
そのぬくもりが急速に失われ、鼻孔を鉄さびに似た匂いが刺激しても、身体にぬるりとした感覚が纏わり付いても、悲鳴を上げなかった。
誰かの哄笑が聞こえる。
楽しそうに楽しそうに笑う声が聞こえる。
湧き上がる恐怖の感情を押し殺し、震えそうな身体を必死に抑え込む。
いつまでそうしていただろうか?
笑う声が聞こえなくなり、ぬくもりも完全に失われ、身体の感覚もよくわからなくなるほど硬直してしまった頃。
その時になって、初めて恐怖以外の感情が生じた。
怒りだ。
身体を震えさせようとしていた恐怖を焼き尽くさんばかりに燃え盛る怒り。
自分の上には、母。
その隣には妹。
その上には、父。
全員、固くなっている。
冷たくなっている。
ああ、死んでしまったのだ。
殺されてしまったのだ。
あいつに! あいつに!
殺す……殺す! 絶対に殺す!
殺意に心が埋め尽くされた瞬間、奏は目を覚ました。
悪夢といってもいいものを見てしまったというのに、その目覚めは酷く静かな物だった。
ただただゆっくりとまぶたを開く。
心の中で暴れる憎悪と殺意を、奏は飼い慣らす術を既に身に付けているのだ。
それに加えて、慣れているというのもある。
何故なら、復讐すると誓ったその日から十年、途切れることなく同じ悪夢を見続けているのだ。
そもそも、彼の人生は既に復讐だけに染められている。今更、再確認するだけで狼狽えるような心を持ってはいない。
が、そんな奏でも眉を顰めた。
身体の感覚が曖昧なのだ。
確かに自分を感じる。意識はある。しかし、それを支える肉体を感じない。
故に、まぶたや眉以外なにも感じず、なにも見えない。
まるで身体が霞みにでもなったかのような、浮遊感に近い感覚に、戸惑いを覚える。
とはいえ、眉を顰められたということは、少なくとも顔はちゃんとあるのだろう。
ならば、そこを起点に順々に自分の身体を確かめればよい。
今自分がどういう状況下にあるのか、その疑問は後回しだ。
そう思った奏は、感じることができた額に意識を集中し、ついで頭、首、肩と順々に、己の身体を意識する。
武術において、身体というのは最も大事な基礎だ。
それ故に、自分一人だけでも己の調子や身体の状態を確認できる自己診断の手段は必須だといえる。
どの部分のどこがどのように調子が悪く、どこかが怪我をしているのなら、それに適応した戦い方をしなければ、その時の最大限の力を発揮することはできないのだ。
特に命のやり取りを前提としていれば、それを怠ればまさに死活問題。
だからこそ、奏はそういう術を心得ており、今、それを応用して自分の身体の状態を確認している。
麻酔などで感覚を麻痺させられているというわけではないようで、意識すればするほど、肉体の感覚を確かに感じ始めた。
ほどなくして全身を確認できた奏は、自己診断では異常を感じなかった。
しかし、相変わらずなにも見えない。
まぶたの感覚はあり、目も潰れているというわけではないので、単純に光がない所にいるということなのだろう。
しかも、手を伸ばそうにも、足を伸ばそうにも、動かすことができない。
前後の感覚も曖昧であり、重力も感じないので上下もわからない。
加えて、動かそうとする力が、まるで空を掴むかのようにどこかに抜けてしまうのだ。
さて、身体は無事であることは確認できたが、この状況は一体どういうことだ?
ようやく自らの身に起きている異常事態を確認する気になった奏だったが、その直後に強烈な虚脱感に襲われる。
直前の記憶を思い出したからだ。
人生全てを奉げた復讐が、既に終わっていたという事実を。
正直、なにも考えられず、なにもする気にはなれない。
だが、それでも、十年以上も燃え続けた炎が簡単に消えるはずもなく、それは不確かな状況に居ながら、奏という自分を強引に確立させる。
その時だった。
「ああっ! もう! なんなこの子は!」
不意に女性の声が聞こえ、奏は再び眉を顰めた。
女性の声が聞こえたことに対して疑問に思ったわけではない。その声が、近くも聞こえ、遠くも聞こえる奇妙な感覚を覚えさせたからだ。
奏は音だけで相手と自分との距離を正確にわかる技能を身に付けている。
だから、動いてない状況で声を掛けてきた人物がどこにいるかわからないというのは、警戒する理由としては十分過ぎるのだ。
もっとも、こんな状況、混乱どころか恐慌状態に陥ってもおかしくないはずなのだが、もはやなにもかもがどうでもいい奏は、ただただ身に付けた技術・技能が勝手に行うことに身を任せるのみ。
つまり、いつでもどんな状況でも、一瞬の機会を逃さず、対応できるように身体を虚脱状態にし始める。
「しょうがないわね……時間が無いことだし、このままでいいや。言葉が通じなくてもどうにかなるでしょう」
奏を無視して意味がわからないことを謎の女性が言った次の瞬間、不意に重力が戻り、足が硬いなにかに着地すると同時に、目も見えるようになる。
そして、最初に奏の視界に入ったのは、まるで人形のような金髪金目の少女だった。
少女は驚いた表情でなにかを言う。
だが、奏にはなにを言っているかわからなかった。
英語……って感じでもない。聞いたことがないイントネーションだな……とはいえ、この状況で口にする言葉は限られる。誰? か?
などと思いながら、奏は少女の姿を見た。
金髪金目のふわふわとした癖っ毛の強いロングヘア。人形のように整った顔立ち。女性としての特徴が出る前の幼子であるため、今はまだ可愛らしい印象を覚えるが、成長すれば絶世の美女になることを窺わせるほどの美少女。
白くなんの飾り気もないシンプルなワンピースを着ている彼女だが、その容姿はどんなアクセサリーや模様より際立つため、かえってなにかを身に付ければ余計になりかねない。
異性に、ましてや幼い子供に興味があるわけではない奏ですら、思わずそう考えてしまうほどの魅力が彼女にはある。
しかし、奏が気になったのは、そんなことではない。
さっきの声の主ではないな……
身体の感覚以外全てが消失している時に聞いた女性の声と、目の前の少女の声は同一ではなかった。
そもそも、声の質は明らかに大人だったのだから、それはもう間違いないだろう。
とはいえ、それも、強く関心を寄せられるほどではない。
もっとも奏が気になったのは……
似ている。
奏は何故かそう思った。どことなく殺された妹に似ていると。
だが、何故そう思ったのか、奏にはわからなかった。
奏は日本人であり、当然、妹も日本人だ。
黒髪黒目の妹と、金髪金目の彼女とでは、年齢以外の共通項は見付けられない。
しかし、それなのに、懐かしさと愛おしさを禁じ得なかった。
感覚を消失する異常事態になっても動揺しなかった奏が、目の前の少女に対して狼狽え始め、どうしたらいいかわからず、視線を彼女からそらしてしまう。
そこで初めて気付く。
今いる場所が、備え付きの椅子が横に立ち並ぶ、通路だということに。
つまり、なにかの飛行機やバスの中なのか?
奏がざっと確認した所、左側に三席、もう一つの通路を挟んで二席、右側に二席、それが見える範囲で前方に四列。端から円状にある天井は、小窓から僅かに見える赤み掛かった雲らしきもの。
それらからして、ここは雲の上で、時間帯は夕方、飛行機乗っていると考えるのが妥当だろう。
だが、何故、児童養護施設にいたはずの自分がそんな物に乗っているのだろうか?
ようやく当たり前の疑問を思い浮かべる奏だったが、直後にそれを吹き飛ばす悪寒を覚えた。
似ている。
再びそう思ったのは、雰囲気に対して。
通り魔に家族を殺された時と同じか、それ以上のどろりとした悪意。
それを強く感じるのは背後からだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには明らかな異常者がいた。
虹をイメージして染めているのか、右から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と七色の色をした床にたれるほど異様に長い髪。その髪で鼻と口以外を覆い、ぼろぼろの白いローブを身に付けた不気味な女。
その女の頭には、どういう原理なのか高速で回転しながら浮いている赤いリングがあった。
小さなフラフープのようなそれに、奏はなにか嫌な予感のような物を感じるが、どうしてそう感じるのかわからない。
警戒しながらリングを見ていると、その下の女は面白そうに笑いながら、奏に対してなにかを言う。
意味はわからないが、少なくともまともなことは言っていないだろう。
何故なら、後ろにいる少女がびくりと震えたからだ。
もっとも彼女が震えたのは、女の言葉だけではないかもしれない。
奏が視線を下に落とすと、そこには首から上が無くなっている男性の姿。
血は流れておらず、断面を見ると、炭化している。どうやればこの環境でそんな遺体を作れるのか、現実感がない遺体だったが、人形という可能性はないと奏は確信した。
十年前に見た。そして、毎夜毎晩夢に見続ける遺体と全く同じように見えるのだから。
なんとなく添乗員を連想させる物を身に付けている彼を、女は踏み付けていた。
なるほど。
ここはどこで、どういう状況で、なぜこうなっているのか、女がそんなことをやっているのなら、どうやって首から上を吹き飛ばしたのか、あれこれ疑問が浮かびそうなものだが、奏はそれが頭に生じるより早く身体を動かした。
身体の軸を揺らさず真っ直ぐ前へと滑るように女に近付き、その顎に斜め下から掌底を叩き込む。
何事かを言っている最中にあまりに素早く、かつ、人が動く時に必ず起きる動作を排除して接近した。
故に、女は殴られ、脳を揺らされて初めて、奏が近付いたことに気付いただろう。
いや、あるいは気付けてすらいなかったかもしれない。
笑った顔のまま向きを四十五度強引に変わるほどの衝撃を受けた女は、そのまま膝を折り、踏み付けていた男の遺体の上に倒れ込んだ。
女の意識に連動していたのか、回転しながら宙に浮いていた赤いリングが床に落ちる。
このリング、どういう仕組みなんだ? まあ、とりあえず、そんなことより、今の内に動かないようにしておくべきだな。
そう思ってなにか縛るものはないかと周囲を見回した時、少女が視界に入った。
彼女は唖然とした表情で奏を見ている。
まあ、色々なことを素っ飛ばして、一切混乱せずにこんなことをしたのであれば、多分、奏よりある程度事情を知っているであろう彼女が動揺するのは無理からぬことだろう。




