高校生・1年・春・日常
力が入らなくなった。
「どうしたの、たっちゃん」
姉の声はぼんやりとしていてよくわからない。
ああ、これは
星が死んだのか。
「おはよう、兄ちゃん」
2歳差の兄弟ではあるが、弟の光星(こうせい)の背はとても高い。おそらく、クラスで一番だろう。兄弟の関係に不満を持ったことはないが、兄を敬う弟は宝物だ。
「今日は部活なのか?」
「うん」
菓子パンを頬張り、着替える。背は高くても一挙一動が細かく、たまに失敗するその姿から気に入っていると、同級生からきいたことがある。
「じゃあな」
「はい、いってきます」
丁寧な言い方に、俺は10秒ほど玄関に留まった。
「いらっしゃい、たっくん」
「また、長居していきますね」
路地裏を通り抜けた場所に、古本屋がある。主人のスノさんは、積みあがった本に腰掛け、経済学の本を読んでいた。
俺もスノさんようにいつもの山に腰を下ろし、近くから本をとって読んだ。
「たっくん、名前を教えてよ」
「いやです」
俺は名前があまり好きではない。名字のほうが好きだった。兄弟だから、というだけではない。かといって、涙を流すほどの酷く辛い過去があるわけでもない。理由は単純。名字が好きだから。これで十分なのだ。
「スノさんだって、教えてくれないくせに」
「でもたっくんは、そんなの気にしてないよ」
「スノさんは気にしているということですか?」
「好奇心というものは厄介なんだ」
微笑みながら言うもんだから、言い返す気力もなくなった。
「あら、竜也。また本屋?」
帰り道に母がいた。エコバックを提げ、スポーツドリンクを持っていた。
「うん、光星は部活だと思う」
「わかったわ」
母との喧嘩は珍しいことではない。投げやりな自分と、言われたこと以上をこなす光星、頼んだことを求める母。つまり、弟が頑張っているから兄も働け、というのである。中学生と高校生の違いは未だにわからないが、勉強の違いは目に見えてわかった。
母もきっとわかっている。兄のほうが大変ということくらい、知っている。だが、弟は部活に精を出している。だから、休日は弟のほうが大変といってもいいくらいだろう。その休日に、兄はいつも本屋に顔を出している。怒るのも、頷けないことはない。
「今日はおでんよ、じっくり煮込んでね」
「もう煮込んであるんでしょ」
「あら、そうよ」
「昨日、鍋があったから」
「兄ちゃん、高校は楽しい?」
「光星、中学は楽しいか?」
質問に答えてくれなかったからか、頬をふくらませ、こっちを睨む。こういう小動物みたいな一面があるから、可愛がられるんだな、と思う。
「楽しいよ」
「そう、楽しいか」
「兄ちゃん!」
光星が怒る。いつもどおり。からかわれているとわかっていても、こいつは毎度毎度怒る。本気で怒っているわけではないことくらいわかるので、苦笑して答えてやるのだ。
「はは、楽しいよ。兄ちゃんはとても楽しい」
「それ、学校のことじゃないでしょ!」
ふん、とそっぽを向く光星をおいて、本屋で買った数学の本を読む。フェルマーの最終定理。きっと証明することに意味があるんだろう。証明してどうするんだろう。有名、テレビ、本、印刷、引用……。いかんいかんと頭を振る。思考がスキップするように跳ぶ。悪い癖だった。
「兄ちゃんのこと、好きになれないよ」
「嫌いにもなれないんだろう?」
「もう勝手に言って」
ヘッドフォンをつけ、曲を漁る弟がいた。
できるだけファンタジーにするつもりです。