お姫様の想い人
フェリーチェ・ディ・ロゼリア・エルディアナ姫。
エルディアナ王家に君臨する高貴で幸せなお姫様。
隣国に留学に行っている皇太子の兄を覗いて、エルディアナで暮らす王族は国王とフェリーチェ姫だけ。
そんなエルディアナ王国たった一人のお姫様は、それはもう蝶よ花よと大切に育てられ、実に美しく愛らしい淑女に育った。
「ジゼル! ジゼルはどこにいるの!」
ウェーブがかったハニーブロンドの髪に、輝くローズピンクの瞳を持つ姫は、黄色のドレスの裾を掴み、どこか荒ぶった様子でメイドの名を叫びながら王宮の廊下を走っていた。
「姫様、どうなさいました? 私はここにおります」
「ああ、ジゼル! お願いよ、私の頬を思いっきりつねって! 早く私をこの悪夢から目覚めさせてちょうだい……!」
「は、はい……?」
姫の頬を、一介のメイドごときがつねるなどという事件が起きれば、彼女は即刻死罪となることだろう。
しかし、今のフェリーチェには大切にしているメイドを思う余裕などなかったのだ。
彼女にとって、この世で最も信じられない事実。
信じ難い、この世の終わりのような知らせを受けたばかりのお姫様には……。
「一体、何があったというのですか。ご令嬢たちとの茶会を楽しまれていたはずでしょう?」
「ジゼルお願い、貴女にしか頼めないの。ああっ、これは夢よ! 早く目覚めなさい、私のバカ!」
「落ち着いてください、姫様……!」
「アレクシスが王国騎士団に入ったなんて、悪夢に違いないんだからっ!!」
そう、この可愛らしい齢十五のお姫様は一人の青年が王国騎士団入りしたという話を聞かされてから、おかしくなってしまったのだった。
アレクシス・ワイセンベルク公爵令息。
ワイセンベルク公爵家の一人息子であり、十七歳という若さで王国騎士団に最年少入団した若き天才騎士。
彼は、フェリーチェに不可解な感情を抱かせる唯一の存在だった。
自分のすべてを投げ出してでも一緒になりたいと願う、ただ一人の男。
「姫様、ハーブティーです。飲めば少しは気持ちが落ち着くはずですよ」
「ジゼルお願い、お願いよ……これは全て夢だと言ってちょうだい……」
「ああ、姫様、どうか泣かないで……。敬愛する姫様の望みは何だって叶えてあげたいのですが、この全てが現実だということは姫様が一番よくお分かりでしょう。お辛いでしょうが、どうか現実に目を向けてください」
姫とメイドは姉妹ほどしか歳が離れていなかったが、フェリーチェが赤ん坊の頃から見守って来たメイドのジゼルは、フェリーチェに甘いのと同時に、いつだって正しい道に導いてきた。
そのため、いくら姫が現実逃避しようと縋っても、姫の幸せを心から願っていたジゼルは首を縦に振ることはできなかった。
「ごめんなさい、ジゼル……」
そして、フェリーチェもジゼルに圧倒的な信頼を置いていた。
(分かってる。本当は、全部分かっているの)
愛ゆえに厳しく接する国王の父。
幼い頃に亡くなり、今では肖像画でしか姿を見ることが叶わない母。
滅多に顔を合わせることない皇太子の兄。
家族からの愛を受けることなく育った姫は、家族という存在に強く憧れを持っていた。
いつの日か、姫という身分を捨て、誰かの妻となる日が来るならば、その相手は自分だけを愛してくれる殿方が良いとフェリーチェは心から願っていた。
そして、その相手は他の誰でもない、アレクシスでなければ意味がなかったのに。
『ねえ、アレクシス。あなたは、どうしてわたしの傍に居てくれるの?』
『ワイセンベルク家は遥か昔から王室に忠誠を誓っている家門です。父上が国王陛下の右腕と呼ばれているように、後継である俺もまた、姫様をお守りすることが役目なのです』
『わたしを守る? アレクシスは、わたしを守ってくれるの?』
『その通りです、姫様』
『じゃあ……ずっとわたしの傍に居てね。何があってもよ。ずっとわたしを守ってね、アレクシス』
輝かしい幼い頃の思い出が、黒くすさんだ悲しき記憶へと変貌するのは一瞬のことだった。
「ずっと私を守ってくれるって、約束したじゃない……」
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「エルディアナ王国の光。フェリーチェ・ディ・ロゼリア・エルディアナ姫様にご挨拶申し上げますわ」
「珍しいですね、貴女が私を訪ねてくるだなんて。それで、一体何の御用ですか?」
「ふふ、相変わらず姫様は本当に可愛らしいですね。きっと、世界中のどこを探しても姫様ほど愛らしいお方は見つからないでしょう」
あれから、いったい何度眠りにつき、何度朝日が昇っただろう?
アレクシスが王室騎士団に入ったと聞かされて以来、私は心が抜落ちたようにぼんやりと日々を過ごしていた。
そんな過去最高に不機嫌な私の前に現れたのは、花が咲くかのような穏やかな笑みのレディ。
セレリア・ドルモルセン公爵令嬢。
落ち着いた声色の下に棘を忍ばせるこの令嬢を、私は幼い頃からずっと“要注意人物”として認識していた。
今度は一体どんな嫌味を言いに来たのかしら?
どこか癪に障る言葉のチョイス。それが気のせいではないということは、過去の腹立たしい言葉の数々が証明していた。
私が、まだ六つになったばかりだった頃。
私の遊び相手として王室に招かれた、年の近い上流貴族の二人の子供。
国王の右腕と称されるワイセンベルク公爵家の令息アレクシスと、国王の剣として名を侍らすドルモルセン公爵家の令嬢セレリア。
はっきりと言って、私はセレリア嬢が嫌いだ。
理由は数え切れないほどあるものの、苦手という言葉では抑えきれないようになったのは今から九年前。
王室の庭園で開かれたフラワーパーティーでの出来事がきっかけだった。
『まだ幼い姫様には、少々危険かと思いますわ。もし転んでお怪我でもされたら……』
『そんなことない、リーチェにもできるよ!』
王室薔薇園で開かれた、貴族の子供向けの簡単なゲーム。
迷路のように張り巡らされた赤薔薇園から、数本紛れ込ませた白薔薇を見つけ出した者が優勝するというもの。
そんな子供向けなゲームを誰より楽しみにしていた私の参加を止めたのが、セレリア嬢だった。
『姫様がお怪我をされて困るのは、わたくしと公子なのですよ。それとも……わたくしや公子が罰せられようとも、姫様はどうでも良いということお考えなのでしょうか?』
『そ、そんなこと……!』
『あら、姫様ったらムキにならないでください。もちろん分かっております、姫様はとてもお優しい方ですもの。さあ、わたくしたちだけで行きましょう、公子』
『……姫様、どうされますか?』
『アレクシス、わたし、ここで待ってるよ。メイドがすぐ迎えに来るから、アレクシスは行ってきて。ちゃんと、わたしの分のお花も持ってきてくれないとダメだよ』
『……姫様がそう仰るのでしたら』
『さあ公子、姫様もこう言っていることですし、参りましょう?』
私から手を放したアレクシスに、今がチャンスだと言わんばかりに纏わりついたセレリア嬢。
二人の背中を、必死に作り上げた笑みで見送ったのを、私は数年が経過した今でも忘れられなかった。
今になって考えてみると、アレクシスに好意があったセレリア嬢にとって私の存在は邪魔でしかなかったのだろう。
その後も、セレリア嬢は何かと理由を付けては私を蔑ろにした。いつも私の傍に居たアレクシスと、自身が二人きりになるために。
この世で最も高貴な姫と称えられる私にとって、唯一牙を向くことができない相手とでも言おうか?
決定的な何かがあれば、彼女を王族侮辱罪で罰することができたものの、策略家な彼女が隙を見せることは当然ない。
「それで、セレリア嬢が私を訪ねてこられたということは何か要件があるのでしょう? 早く本題に入ってください」
「嫌ですわ、姫様ったら。わたくしたちの仲ではありませんか。用がなくとも姫様の元気なお姿を拝見したいと思うのがエルディアナ国民の……」
「セレリア・ドルモルセン公爵令嬢、これでも私は姫としての職務があり、暇ではないのです」
「悲しいですわ……。相変わらず、姫様はわたくしには冷たいのですね。わたくしは、姫様のたった二人の幼馴染のうちの一人ではありませんか」
「冷たいだなんて。セレリア嬢の言うとおり、私たちの仲だから言っているのです」
「それなら安心しましたわ。お時間も無さそうですので、早速本題に入らせて頂きます。わたくしが今日姫様に謁見を申し込んだのは、デビュタントのパートナーのことについてですの」
諦めたように目を細めて言い放ったセレリア嬢は、扇子を口元に当てながら、こちら見つめた。
「ああ、デビュタント……そういえば、もうすぐでしたね」
「わたくしもとっても楽しみにしておりますの。もちろん、わたくしだけでなく、国中のレディが心待ちにしておりますわ。そして、姫様の誕生日でもあります。そんな素晴らしい日に姫様をエスコートする栄誉を与えられた殿方は誰なのかと気になりまして」
「エスコート……」
「どうか昔ながらの好として、このセレリア・ドルモルセンに教えて頂けませんでしょうか。姫様?」
デビュタントのエスコートは本来姫の婚約者、兄や弟、従兄などが務めることが多い。
しかし、残念ながら私にはそんな相手は居ない。
婚約者もまだ居ない私にはデビュタントのエスコートに相応しい相手などいないのだ。
しかし、デビュタントの主役である姫の私をエスコートしたがる者は多かった。
皇太子であるお兄様がいる限り、私はどこかへ嫁ぐのが当然だからだ。私を妻に迎えたいと思う者はけして少なくはなかった。
だからこそ、私がこの時期までパートナーを決めていないのは、肝心の意中の相手が私のエスコートをする気がサラサラなかったということ。
本当なら、パートナーはアレクシスに頼みたかった。
数十年前、若き日の皇太子であった父が、身分がずっと下の男爵令嬢の母をエスコートしたように……。
誰かに指示されたものではなく、互いの心が通じ合った相手をパートナーにしたいと憧れるのは、年代の少女ならば至極当然のことだろう。
「お兄様は学園から戻られないそうですし、私には年の近い親戚も居ませんから。一度、陛下に相談しようと考えていたところです」
「あら、やはりまだお決めになられていなかったのですね? ダメですよ、大事なことは早く決めてしまわなければ。後回しにしたって、良いことなんて何ひとつありませんから」
……どこか引っかかる言い方だった。
普段の私を煽るような腹立たしい言い方ではなく、まるで勝利を確信しているかのような……。
「そういうセレリア嬢は、もうお相手がお見つかりなのですか?」
「もちろんですわ、姫様も良く知っておられる方です。齢十七歳で王室騎士団入りを果たした若き天才騎士、アレクシス・ワイセンベルク公子ですわ」
この世で最も高貴で幸せなお姫様。
そんなものは結局、肩書だけだ。
私の願いなんて、一度だって叶ったことはないのだから。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
そして、まだ先の話だと思っていたデビュタントは、あっという間にやって来た。
大広間へ続く大理石の階段には、金糸を織り込んだ赤い絨毯が敷かれ、両脇では燭台が光っている。
ダンスホールの天井には巨大なフレスコ画が描かれており、そこから吊り下がる三層式のシャンデリアが人々を照らしていた。
今までの宴とは比べ物にならないほど飾り付けられた王宮に、私は混乱を隠しきれなかった。
国王である父が華美なものを好まないということもあるだろうが、兄の皇太子即位の時でも、ここまで華やかではなかったと思う。
まあ、あのお父様が私のために考えたとは思えないし、誰かしらが私の顔を立たせようと図ったのだろう。
それなのに私は、娘の誕生祝いの言葉を言ったことすらない父親に感謝の言葉を述べないといけないなんて、本当に滑稽な話じゃない?
いや、それより滑稽なのは、こんなにも豪華なデビュタントの会場の隅で座り込んでいる私の方か。
「姫様がもう成人とは、月日が流れるのは本当に早いですね。非常に美しく聡明に育ったと聞いていますから、今から拝見するのが楽しみですわ」
「子供の成長はあっというものですもの。うちの娘も今夜、姫様と一緒にデビュタントを迎えますの。後ほどご挨拶に向かわせますわ」
「夫人がいつもお話されていたご令嬢にようやくお会い出来るのですね。うちの愚息もご令嬢にお会いできるのを楽しみにしていました。ぜひご挨拶を」
グラスの重なる音、人々の談笑の声、重厚なドレスの裾が床を擦る微かな音……。
パートナーと手を取り合い、胸を高鳴らせながら会場へと足を踏み入れていく少女たちの姿は眩しいほどに美しい。
彼女たちは、今日という日をどれだけ心待ちにしてきたのだろう。美しく咲き誇る若き少女たちの目はキラキラと輝いている。
私は、会場の上空に設えられたテラスから、その光景をただ静かに見下ろしていた。
本来なら使われることのない、誰も訪れようとはしないこの場所は私が落ち着きたい時に逃げ込むための密やかな避難所のような場所だった。
今頃、私の姿がないことに気付いたジゼルをはじめとする使用人たちが宮中を慌ただしく駆け回っていることだろう。
だけど、ここにいる限り、誰も私を見つけることはできない。
ここは、私だけの秘密の場所なのだから。
「姫様」
……ああ、忘れていたわ。
「フェリーチェ・ディ・ロゼリア・エルディアナ姫様」
その声に振り返ると、そこにはサファイアを基調とした漆黒の燕尾服に身を包んだ一人の青年が立っていた。
輝く黒髪に、深い青の瞳。
私ったら、すっかり忘れていたわ。
ずっと私の側にいたあなたが、この場所を知らないはずがないわよね。アレクシス?
「何の用があってここへ来たの? あなたのパートナーなら、さっき庭園に出ていく所を見たわよ。探してきてあげたら?」
アレクシスの姿から視線を外し、会場の人々へと視線を戻す。
「姫様」
「…………」
「姫様、姫様、フェリーチェ姫様」
「ああっ、もう、聞こえてるわよ! 聞こえてる上で知らんぷりしているのよ!」
「姫様……」
「な、なによ……」
「この世の誰よりも幸福に包まれているはずなのに、どうして涙を流されているのですか? 今夜、誰よりも幸せに包まれていなければならない貴女様が……」
アレクシスは静かに、だけど真っ直ぐに私を見つめてそう言った。
「泣いてなんかないわ、私は泣いたりしないもの」
「それでは、僕が今見ているものは単なる幻想なのでしょうか」
「そうなんじゃない? 目が悪くなった可能性もあるわね」
「先日、王室騎士団に入団したばかりなので視力が落ちては困ります。ドルモルセン嬢にも……」
「やめて! ……そんなにあの女が気になるなら、こんなところに居ないでさっさと迎えに行ってあげなさいよ」
「姫様は俺がドルモルセン嬢の名前を口にするのが嫌なのですか?」
「なに、嫌だ言ったらやめてくれるの?」
「それが姫様の命なのであれば」
「アレクシス……あなたに自分の意思はないの?」
「俺の意志は、姫様の意志です」
「……私の?」
「はい」
私の意思が、あなたの意思ですって?
じゃあ、どうして王立騎士団に入ったりしたのよ。
王立騎士団に入った騎士たちは、揃って王家に忠誠を誓う。つまりは、生涯誰とも結ばれず、家族を作らず、自分の一生を王家に捧げるということだ。
あなたはワイセンベルク公爵家の当主の座を継いで、私を妻に迎えていれば、それで良かったのに。
私が、何のために今まで婚約の話を断って来たと思っているの? 私はあなたの妻になることだけを夢見てきたのよ。
「その言葉、もっと早く聞きたかったわ。あなたが最悪な選択をしてしまう前に……」
私は最後にそう言い残すと、濡れた目元を乱暴に拭い、踵を返して駆け出した。
私は事前に持ってきていた黒のローブを頭から深く被った。煌めく会場の光に照らされることのないよう、深く。
途中、優秀な警備兵が呼び留めてきたが、私の顔を見た瞬間に言葉を失い、まるで石像のように動かなくなった。当然だ。直に登場予定の姫がこんなところに居るはずがないのだから。
気づけば、私は薔薇園へ足を運んでいた。
王室直属の庭師が手塩にかけて育てたピンクの薔薇たちが、夜露を含んで静かに揺れている。
この薔薇園は、現国王が今は亡き王妃の髪――肖像画で幾度も見た、あの輝くピンク色に捧げた場所だ。
そして今となっては、王妃の髪の色ではなく、姫の瞳の色の象徴としての方が有名になってしまった。
昔、まだ幼かった兄から『母上の大切な場所を、お前なんかが奪うな』と声を荒げられて以来、私はこの場所が嫌いだった。
私を産んで命を落とした、私の母親。
……ほんと嫌になっちゃう。
私だってお母様に会ってみたかったし、お母様のものを奪うつもりなんてサラサラない。もちろん、幼くして母親を亡くしたお兄様を責めるわけにもいかないけど。
「……私って、本当に愚かだわ」
そして、私にアレクシスを責める資格もない。
私と彼の関係は、ただ私が一方的に好意を向けているだけであり、婚約者でもなければ、ただの幼馴染でしかないのだから。
いくら何でも、自己中心的な考えが過ぎた。
はあ……後で、ちゃんと謝らなくては……。
「自分の立場をよく分かっているようですね」
不意に声が降りかかり、足を止める。
視線を上げると、そこには水色のドレスに身を包んだセレリア嬢の姿があった。
私のピンク色のドレスと対極的な色をして、ただの水色だけでなく、ライラックやエメラルドグリーンが混ざっており、まるで海のような輝きを放っている。
まさに、ドルモルセンのお嬢様にピッタリって感じね。
サファイアを基調にした燕尾服を身に纏っていたアレクシスと、よくお似合いだとでもいうべきかしら。
本当に腹が立つ。どうして私を嫌うの? 昔はあんなにも良くしてくれたじゃない。兄以上に私を可愛がってくれた貴女を、実の姉のようだと考えていた時もあったのよ。
「セレリア嬢、それはどういう意味ですか?」
「あら、まずはどうしてわたくしがここに居るのかお聞きにならないのですね。まさか監視でもしていらっしゃったのでしょうか」
「何を言って……」
「ハッ、図星ですか? 大好きなアレクシス公子を探していらっしゃったのでしょう?」
一体、どうしたっていうのよ。
感情を表にさらけだすなんて貴女らしくない。
「どいつもこいつも、本当になんなのよ……あんたは本当にいつも……」
セレリア嬢の表情が崩れる。
温厚で温和な仮面を常に被っていたセレリア嬢の顔が。
こんなにも感情を露わにしているところを見るのは初めてだ。
「いっつもアタシの邪魔ばっかりして!」
右の親指の爪を噛みしめたセレリア嬢の整った顔が醜く歪む。
それは、今までに見たことのない、淑女の仮面を外したセレリア嬢の姿だった。
「いい気になってんじゃないわよ、フェリーチェ!」
嫌悪を丸出しにしたセレリア嬢が、一歩私に近づいてきた、その時だった。
「姫様!」
私を追いかけてきたアレクシスが、セレリア嬢と私の間に割り込んだのだった。
「ドルモルセン公爵令嬢、一体何を考えているのです! 姫様に暴言を吐かれるなんて正気ですか!」
「公子、何を今更……アタシを置いて姫様の元に行ってしまわれたくせに……」
「先ほども言いましたが、俺は……」
遠くでブツブツと何かを言っている声がする。
何を仲良くセレリアとお喋りしているの?
王国騎士団に入団したなら、姫である私の名誉を守り、その腰についている剣でセレリア嬢の首を切り落としてしまえばいいじゃない。
セレリアの身分を考慮しても、手首くらいなら構わないでしょ。
……普段の私なら、バカみたいに泣きじゃくってあなたに助けを求めていたかもしれないけれど。
「退いて、アレクシス」
「……姫様?」
私も私で、彼女に腹が立っていたから。
「人のせいにするんじゃないわよ、このバカ女!」
私は手に持っていた、黒のローブを彼女に向かって思い切り投げつけた。
「うっ……! ペッペッ! 何するのよ、糸くずが口に入ったじゃない!」
「知ったことじゃないわよ、その下品な舌を切り落とさないだけ有難いと思いなさい!」
「ふ、ふざけたこと言ってんじゃないわよ、この小娘が……!」
言い争いながら距離を詰めた私たちは、どちらかともなく腕を伸ばすと互いの頭を掴んだ。
セレリアの銀髪と、私の金髪が乱れる。
生まれて初めて感じる頭皮を引っ張られる痛みに顔をしかめると、彼女も同様に顔を歪ませた。
身体的苦痛からか精神的苦痛かは分からないけれど、彼女も痛みを感じていることは一目で分かった。
「あんたが皇太子様の妹だから良くしてあげてたっていうのに、皇太子様は留学先で隣国の姫と婚約してしまうし! だから次にアタシに釣り合う男を夫にしようと思ったら、またあんたがアタシの邪魔をするなんて!」
「どうしてお兄様の婚約が私のせいなのよ! お兄様のことが好きなら留学先にでもどこでもついて行けばよかったじゃない! 邪魔をするのは私じゃなくて、貴女の方でしょ? アレクシスは私の男よ!」
腐れ縁で長く付き合いのある私たちの間には、お互い本当に多くの不満があったようだ。自分でも驚くほど言葉がつらつらと溢れ出てくる。
完璧な淑女として名高いドルモルセン公爵家の令嬢と、王国にたった一人のお姫様が声を荒げて言い争い、とっつかみ合いの喧嘩をする光景。それは、どれほど滑稽なものだろうか?
幸い、ここの庭園は会場から離れており、賑やかな音楽団の演奏のおかげで、私たちの声は夜闇にかき消された。
「黙れ! この手を放しなさいよ! マヌケ姫!」
「貴女こそ手を放しなさい、この無礼者! 厚化粧、意地の悪い悪女! ずっと言ってこなかったけど、貴女、歳の割に老け顔すぎるのよ!」
「なっ、なんですって?! 大人びていると言いなさい、このガキ! アンタが子供すぎるだけでしょ!」
髪だけではなく、ドレスにまで掴みかかった私たち。
私のドレスに着けられた純白のパールが飛び散り、セレリア嬢のドレスのレースがビリッと音を立てて破れる。
力いっぱいに彼女に体重をかけて押し倒す。
それと同時に、私の身体は背後から持ち上げられた。
「姫様、落ち着いてください!」
「アレクシス、邪魔しないで!」
さすがに我慢ならないとなった様子のアレクシスが、セレリアから私を引きはがすように抱き上げたのだった。
「王家に忠誠を誓う王立騎士団として、さすがにこれ以上は見過ごせません」
「いいから降ろして! この女にはまだまだ言い足りないことが沢山あるんだから!」
「どうか落ち着いてください、姫様。ドルモルセン嬢も一度頭を冷やしてください、姫様に暴行を働いたのですから只事ではすみませんよ」
「……ハッ、結局こうなるのよね……」
私よりも身長がずっと高いアレクシスに抱きかかえられた私は、セレリアよりも視線が高くなる。
お互いに息をぜえぜえと切らしながら、それでも睨みつけるのを辞めない。
険しく歪んだ水色の瞳は普段よりもずっと濃く、何故か涙が滲んでいた。
「さっさとどっか行きなさいよ。あんたたち、どっちも大嫌いだわ……」
「何を泣いているのよ、私の方が貴女のことずっと嫌いよ」
「はあ……。行きますよ、姫様」
抱き上げられても尚、いがみ合いを止めない私たちに呆れたように溜息をついたアレクシスは私を抱きかかえたまま振り返ると、そのまま庭園の奥へと足を進めていった。
セレリアと距離が開くにつれ、さっきまでの熱が嘘のように引いていく。
代わりに、どうしようもない気まずさが私を襲った。
私ったら、アレクシスになんて姿を見せてしまったのかしら……。
とりあえず私は、口を閉ざしたまま、できるだけ力を抜いて彼の腕に収まることにした。どうか重いと思われませんように!
「ねえ、どこ向かってるの?」
「表には来賓の人たちが大勢いますから、裏口から宮にお送りいたします。その状態ではパーティーに参加されるのはもう難しいでしょう」
「まあ……それもそうだね」
「いいですか、姫様。貴女はこの国でたった一人の姫君なのですよ。もう少し自分を大切になさってください」
そういうあなたの方こそ、少しは自分の発言に責任を持って欲しいものだ。
あなたのその言葉で、どれだけ私の心が揺さぶられるのか。
あなたはまるで理解できていない。
私は、あなたのその一言だけでバカみたいに舞い上がってしまうのよ。
私にはあなただけなの。
あなたしかいないのよ、アレクシス……。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
それから数日が経ち。
主役である私がデビュタントに参加しなかったことに対して、宮は噂で持ち切りだった。
来賓の方など、表向きには体調不良ということにしているが、お父様には、「不愉快なことがあったから行きません」と一言一句そのまま伝えた。身勝手な理由で欠席したのだから、それ相応の罰が与えられて当然だと思ったから。
しかし、お父様の反応は意外なものだった。
突然反抗の意を示した娘に驚いたのか、お父様は私を咎めるどころか、逆に機嫌を取るようなことばかり行った。
私の宮には沢山の調度品が贈られ、アクセサリーやドレスなど溢れんばかりの品々が揃っていた。
今更父親面をするつもりなのかと複雑な気持ちに陥っていた私に、もう一つ、私のために用意したというのが……。
「姫様が遊船とは、珍しいですね」
そう、お父様が私に気を利かせて用意したというものは一人の男だった。
一体、どこの誰がお父様に告げ口したのか。
私の好みでも何でもないものを用意してくると思ったら、ドストライクのものを用意してくるなんて……。
悔しいけど、認めざるを得ない。
アレクシスはいつものように穏やかな笑みで、私を見つめていた。
「アレクシス……いえ、今後はワイセンベルク卿とお呼びした方がよろしいかしら?」
「どちらでも構いません。今日は騎士団の仕事ではなく、一人の令息として来ましたので、姫様のお好きなように」
「そう……」
返事をすると、私は彼から視線を逸らして扇子を口元に添えた。
柄にもなく扇子を持ってきたのは、すぐに熱を帯びてしまう頬と、自然と緩んでしまう口元を隠すため。
ふう、落ち着いて。
平常心よ、平常心。
「姫様、やはりお気になされているのですね」
「えっ……?」
一瞬、心臓が飛び跳ねたように感じた。
もしかして、私の心が分かるの?
そうなの、あなたのことを考える度に私の心は……。
「そうですよね、一生に一度のデビュタントですから……」
「……うん?」
「大丈夫ですよ、姫様。後日改めて姫様が主役のパーティーを開かれるそうです。その際はデビュタント以上の費用をかけて盛大なものにすると陛下が仰られていました」
私ったら、どうしてこんな鈍感男を好きになってしまったのかしら。
そういう真面目な顔をしているところも素敵だと思ってしまうのだから、恋情というものは実に厄介だ。
私が気にしているのは、デビュタントが成功しなかったことじゃない。
大体、私が逃げ出したんだから叱られるべきなのに、褒美を与えるなんて国王陛下もどうかしちゃったのかしら。
他のご令嬢たちのためにパーティーは順調に進められたと聞いて安心したけれど……。
ローズウッドで造られた船は、静かに水を押し分けながら湖を進んでいく。
私の黒く澱んだ心とは正反対に、ペチュニア、ライラック、ルードベキアなど。色とりどりの花で飾られた船は実に美しかった。
水面に映る花々が、陽光を受けてきらきらと揺れる。
あまりにもロマンティックで、少し眩しすぎるくらいだ。
「ねえ、アレクシス」
「はい、姫様」
「この前、私の意思があなたの意思だって言ったわよね? だったら……私の願いは何だって叶えてくれるの?」
「ええ、姫様の危害にならないことでしたら」
「……それじゃあ、王立騎士団を抜けて欲しいって言ったら?」
どれだけ悲しい思いをしたところで、長年をかけて成熟していった私の恋心はそう簡単にはなくならない。
本当に厄介な罠に引っかかってしまった。
「いや、ごめんなさい。今のは失言だったわ、忘れてちょうだい」
「……姫様」
恥ずかしげもなく目に大粒の涙を溜めた私を見て、驚いたように目を見開いたアレクシス。
そんな顔をするあなたを見たのは、初めてだわ。
長年共に居て、あなたのことは何だって知り尽くしている気になっていたのに。
「どうして、どうして王立騎士団になんて入ったのよ。公爵家の跡を継ぐんじゃなかったの? 私を守ってくれるって、ずっと傍に居るって約束したじゃない……」
溜め込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
自分でも驚くほどに声が震えていた。
「姫様、突然どうされたのですか? どうか落ち着いてください」
「落ち着いていられるわけないじゃない! 王立騎士団の人たちは皆禁欲主義者でしょう? わ、私は、あなたの妻になることだけを夢見てきたのに……私と約束してくれたのに、どうして……」
「姫様……俺には、姫様が何を言っているのか理解できません」
「や、約束したことすら忘れてしまうなんて! ひどい! あんまりだわ!」
感情のまま立ち上がろうとした私の動きを、彼が慌てて制する。
「立ち上がっては危ないです、姫様! それに、俺が言っているのはそういうことではありません。もちろん覚えていますよ。貴女様が言った言葉は一言一句、全て」
「それじゃあ、どういうことなのよ……?」
鼻を啜りながら問いかけた私に、彼は少し言いづらそうに視線を逸らすと、おずおずと話し始めた。
「あの時の言葉がそういう意味だとは全く思っていなかったというか……てっきり俺は、あの日姫様が俺に自分の剣になれと命じられたと思ったのです。ですから、誰よりも剣の腕を磨いて王立騎士団に入りました。両親や親戚たちに止められても、貴女様の命を聞くためだけに」
「そんなの聞いてない……!」
「ええ、まあ、言っておりませんでしたので」
「言ってくれなきゃ分からないわよ……! ちゃんと、言葉にしてくれなければ私……」
「それは姫様も同じではありませんか」
「……た、確かに……」
その後彼が紡いだ言葉を、私は一生忘れることができないだろう。
それほどまでに私の心を強く揺さぶり、掴んでは離さなかった。
「いいですか、よく聞いてください。王立騎士団に入ったからといって結婚ができないわけではありません。彼らはレディを守ることよりも、王室に忠義を誓っただけ……その点では、俺も同じです。他のレディに全てを捧げることはありませんが、貴女様だけは違います。俺が忠義を誓ったのは王室ではなく、フェリーチェ姫。貴女様ですから」
「じゃあ……私と、結婚してくれるの?」
「……逆に姫様はよろしいのですか? ワイセンベルク公爵家よりも、ずっと良家からの縁もあるでしょう。他国の皇太子から婚姻の話が出ていると聞きましたが……」
「良いに決まってる! あなた以外の人に嫁いだりするものですか!」
叫ぶようにそう言って抱きついた私を、アレクシスは一瞬戸惑ったように受け止め、静かに腕を回して抱きしめ返してくれた。
「ううっ、グスッ、良かった、断られたらこの船から飛び降りて心中してやろうと思っていたから……」
「そんなことになれば俺は王立騎士団脱退どころか、断頭台行きでしょうね」
「バカなアレクシス、私があなた傷つけさせるわけないでしょ。あなたを虐める人がいたら直ぐに私に言ってちょうだい。お父様に言いつけて、そいつを懲らしめてやるんだから!」
「ははっ、頼りにしてますよ、姫様」
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
……それから、早くも五年の月日が経ち。
「ご婚約誠におめでとうございます。どうかお二人の幸せを心から願っておりますわ。公子に愛想をつかれぬよう精々頑張ってください」
「祝いの言葉ありがとう、我が国の美しい独り身令嬢。難しいかもしれないけど、貴女にも良い縁があること祈っておいてあげるわ」
「ご冗談がお好きなのですね、姫君」
「冗談でないことも理解できないのですね、お可哀想に」
数年前のあの事件以来、私とセレリアの関係は大きく変わった。
お互いに本音で話すことができる唯一の相手ができたからだろうか。
私たちは、お互いに子供だったから。運命のレールを歩かされるだけの、右も左も分からない幼い子供。しがらみの中で必死に生きようとしていたのは私だけではなく、彼女も同じだったのに。
それにもう少し早く気づけていればお互い少しは気が楽だったのかもしれないけど……。
まあ、無理よね。
私たちって、揃って性格が最悪だから!
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「ねえ、知ってる? アレクシス。私って結構性格が悪い一面もあるの」
「……突然ですね」
「たまには意外な一面も見せないと、ダメなんだって」
「はい? そんなこと、一体誰に言われたのですか」
「違うよ、この本に書いてあったの」
「男を落とす百の方法……一体、王宮のどこにこんな本が?」
「信頼できるメイドに手に入れてもらったとっておきよ。あ、お父様には絶対に言わないでよ」
「分かりました、フェリーチェ様」
ふっと笑みを零した彼の表情は、相変わらず素敵だった。
私はずっと、彼のこの笑い方が好きだった。
決して人前では見せない、私だけに向けられた穏やかな笑み。
「絶対に内緒にしててよ? 約束よ、私だけの騎士様!」
可愛いお姫様を書きたかったんです͈ᴗ̀ ̫ᴗ́ ͈
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