恋人候補の事情
私が住んでいるのと同じマンションの一室を拠点とするライは、実にまめまめしく、甲斐甲斐しく立ち回った。
栄養バランスの考えられた食事を作っては持って来て、締切が近づくたびに荒れてゆく私の部屋を整え、仕事にかまけると放りがちな生活に関するありとあらゆることを人並み以上の水準に引き上げてくれた。『恋人候補』が派遣されたんじゃなくて、家事代行が派遣されたのかと思うほどだった。
同じ空間に居ても身の危険を感じさせないために性的欲求を抑制する措置を受けているという説明を聞いたときは、プロジェクトの本気度に関心するやら呆れるやらだった。
決して押しつけがましく感じない態度と絶妙な線引きの見極めにより、私の許容範囲に収まったライの手腕は見事だったという他ない。要するに私は、流されるままライのいる生活に慣れたのだった。
尽くされるってこういう気持ちなんだなぁ、と、かつて書いたバーチャル恋愛ゲームのシナリオに思いを馳せてみたりしつつ、正直なところとても居心地はよかった。そう感じるように振舞われているのだから当たり前なのだけど。
そんなわけで、端末に向かって仕事をする私と、適宜休憩を入れられるようにと気遣って食事や飲み物など持って来てくれるライ、というのは気付いたら『いつも』の風景になっていた。
今はまだ私の部屋で食事を作ったりまではさせてないけど、そのうちそれもなし崩しに許可してしまいそうな未来が見えなくもない。今でさえ「わざわざ自分の部屋と往復するの面倒じゃないのかな」とかちょっと思ってるし……。
自分の部屋に戻っているときと私の部屋で家事をしているとき以外のライは、基本的に私の仕事の邪魔をしないように大人しくしている。自分の携帯端末を弄っていたり、何が楽しいのか私の仕事する様を眺めていたり。
私が同じ空間に人が居ても集中力が削がれないタイプだったのと、「構ってほしいとは言わないけど、一応『恋人候補』として少しでも長く時間を共にさせてもらいたいな」というライの主張による妥協点だ。
同じ空間に居て苦痛を感じない距離感を維持したまま時間を共有し続ければ、絆されるというか流されるというか、気を許してもいいかなと思ってしまうのはふつうだと思う。
なので、仕事の合間の気分転換に、ライと他愛ない会話を交わすようになるのには、そう時間はかからなかった。
「ライって、このプロジェクトのために雇われてる形になるんだよね?」
「うん、そうだよ」
「どういう経緯でこんなあやしげなプロジェクトに関わることになったの? その顔があれば、他にもっとまともで稼げる職があったでしょうに」
この疑問はわりと初期から抱いていた。天然自前ものらしいけれど、それを疑ってしまうくらいに整った顔。いわゆる中性的な顔立ちに分類されるだろう。男物を着れば細身の優男風、女物を着れば高身長のモデルと見紛う。人には好き好きがあるといえど、かなりの万人受けの素材だ。
いくら大企業の一大プロジェクトとは言っても、派遣の『恋人候補』だなんてけったいなものを職(というのも何だか違う気がするけど)にすることはなかっただろうに。
私の投げかけた問いに、ライは軽く首を傾げた。
「もっとまともで稼げる職って?」
「モデルとか芸能人とかあるでしょ」
「それまともかな? それに今じゃバーチャルに押されてるでしょ、リアルなヒトのモデルとかって」
それは一理あるけれど、そういう事情を差し引いてもライならば人気を博しただろう、と思うのは欲目だろうか。
口には出さなかったけれど、内心が伝わってしまったらしい。ライはくすりと笑って、「そんなにこの顔を評価してくれてるなら、俺を永久就職させてよ」と冗談めいて口にする。
元々『恋人候補』として派遣されたとはいえ、そこを飛び越して配偶者希望までちらつかされると、さすがにどういう思考回路をしているのか気になってくる。
「……そんなに人生投げてるの? 孤児とかそういう生い立ちなわけ?」
もしそれが事実でも事実じゃなくても、踏み込みすぎなのを承知で口にしたのは、これで感情が揺れるなりすれば、少しは人となりも見えるだろうかと思ったからだ。
何せライは、これまでのところ、何をしても何を言ってもにこにこと嬉しげなそぶりを見せるばかりで、何に喜び、何に怒り、何に悲しむ人間なのかさっぱりなのだ。
「その人のことを良く知りたければ、何に対して怒りを覚えるのかを知るのが手っ取り早い」という、どこで聞いたんだか今やあやふやな説をほどほどに信じている身としては、それなりに考えた結果さりげなく勝負に出た――といってもよかったのだが、対するライの反応はといえば、怒るでもなく気を悪くするでもなく、世間話の一つですよといったフラットな口調での、「まぁ、そんなようなものかな」だった。
「ほら、俺こんな顔でしょ。小さい頃からやけに変なのが釣れてさぁ。顔がよければ誰でも誘拐やら変質者に遭うってわけじゃないみたいだから、特に目を付けられやすい何かがあったのかもだけど、そこは俺にはわかんないや。で、そういう経験を積み重ねれば人間に不信感も持つし、この顔も厄介ごとのもとでしかないし。見事に『容姿をとやかく言われるのが一番嫌いな人間嫌い』が出来上がったんだけど」
さらりと語られた内容は、今のライを見ていると信じがたい。何せライは人間嫌いだとか、自分の容姿に思うところがあるような素振りを見せたことはなかった。前者に至っては、博愛の精神でも持っているんだろうかと思っていたレベルだ。
本人が言うからには容姿をとやかく言われるのが嫌いで人間も嫌いだった時期があるのだろうけど、そこからどうして今のように達観したというか、落ち着いたのだろうか。
「しかも俺の家族、こういう感じの顔じゃないんだよね。パーツパーツで見れば両親からの遺伝要素はわかるんだけど、配置の妙でひとりだけ別種の顔になってるの。家族みんな顔弄ってないし、まぁふつうかなってくらいだし、俺が浮くわけ。で、俺のこの顔で舞い込むトラブルでしょ? 親の精神が参っちゃってさ。あときょうだいもこの顔見たくない時期とかあったみたい」
先に踏み入ったのは私だけど、どういう顔で聞けばいいのかわからない。本人のテンションが上がるでもなく下がるでもなく一定なので尚更だ。
「だから自分で金稼げる歳になってから家出たんだよね。そっちのがよさそうだったからできる限り縁も切ったし。出て行った人間に煩わされたくないだろうと思って。でも別に恨んでるとかはないし、感謝もしてるし、何で俺だけって思ったことくらいはあるけど、産んで、育ててもらったのは事実だから。そういうわけで、面倒くさい親戚付き合いのあれこれとかはないよ?」
さもアピールポイントのように押して来られても、経緯が重すぎてコメントに困る。
でもせっかくライが自分の事情を話してくれる流れになったのだ。もう少し突っ込んでみてもいいだろう。
「それがどうして、否応なく人間と深く関わるような『恋人候補』になったの?」
問うと、ライは少し考えるような間をおいて、びっくりするくらい優しい目をして。
「『運命』って、信じる?」
そう、いたずらっぽく笑った。
その目が、その声音が、あんまりにもきれいで。
とっさに言葉が出なかった。
「俺はね、信じてるよ。……信じるようになった、っていう方が正しいかな。あなたを見て、あなたを知って。ああきっと、これが運命だって思った」
それが、お互いに顔を合わせた時のことじゃないのは察せられた。
まるで口説かれているようだったけれど、ライはただ、自分の中の事実を話しているだけだと、何故かわかった。
「……それは、いつ?」
「モニター候補を教えられたとき。こんな偶然があるなら――それはもう、運命だって思ったんだ」
どんなに記憶を思い返しても、『恋人候補』としてライが派遣されてこの部屋で顔を合わせるまで、ライに会ったことはないと断言できる。すれ違ったことさえもないだろう。一度すれ違っただけでも覚えているだろうほどに、ライの造形の美しさは頭抜けている。
だけどライは、モニター候補として私を知る以前に私のことを知っていたと匂わせてくる。偶然を運命と思うような、そんな存在として、私を記憶していた。
たぶんこれは、どんなに私の頭を捻っても、答えなんて出てこない類の問題だ。だから私は、直球で訊くことにした。
「あなたが私を初めて知ったのは――認識したのは、いつ、どこでだったの?」
「五年前。あなたの綴る文字の中で」
即答だった。けれどこれもまた、まるで謎かけのような曖昧な答えだ。
五年前といえば、私はようやく今の仕事――文章での仕事をちらほらもらえるようになった頃だ。今時分、文章は人力よりAIに綴らせた方が早いし、オーダーに即時対応した多種多様な文を作成できる。それこそニュース記事から文学からゲームのテキストまで。
だから、コストのかかる人間のライターは、よっぽどの実績があるか、問答無用で人を惹きつける文章が書けるか、何らかの魅力的な要素がなければ仕事としてやっていくのは難しい。
私はそれでも文章を綴る仕事に就きたかったから、必死で案件を探したし、営業もした。その甲斐あって、少しずつ文章で食べていけるだけの仕事をもらえ始めたのが、五年前だ。
その頃の仕事を思い返す。小さなコラム記事の代打、テーマに沿った記事を量産していく案件、ゲームシナリオの一部のみのライティング……。
ふと、意識にひっかかるものがあった。
あまり大きくない企業からの案件だった。『キャラクターとメッセージのやりとりができる』というサービスで、キャラクターを演じてメッセージを作成してほしい、というものだった。今ではAIに任せればリアルタイムで、タイムラグもなく、メッセージの返信どころかリアルタイムで会話しているような音声だって作成できるけれど、「キャラクターに命を吹き込みたい、ユーザーからそう感じられるような返信をしてほしい」と言って依頼してくれた。
それは私が文章の仕事に就きたかった理由にも繋がる理念だったので、特に気合を入れて臨んだ記憶がある。
人を雇う分サービスは少し割高で、競合サービスもあったから、その仕事は半年も経たずになくなってしまったのだけれど――もしかして。
「もしかして、ライ、『迷える星々の在処』のユーザー……だった?」
正解だというように、ライは微笑んだ。
「――俺が人間嫌いを謳歌してた時だったよ。直接人に関わらない仕事をよく紹介してくれてた人が、サービスのレビューを書く仕事をくれてさ。それで知ったのが『迷える星々の在処』だった。比較レビューの仕事だったから、他のサービスもやったけど、レビューが終わっても続けたのは『迷える星々の在処』だけで」
そこでいったん切って、ライはおどけるように笑った。
「何せ人嫌いが極まってる頃だったから、俺は相当面倒なユーザーだったと思うんだけど、メッセージの相手――人々の感情を糧に生きる長命種って設定だったっけ――は、何を書いても真面目でも不真面目でもない、ただ主観を伝えてくるばっかりで。あれはユーザーの性格に合わせてたんだろうと後から気付いたけど」
「――そうだね、あのキャラクター……『夜月』は、相手がより『話しやすい』ように相手によって対応を変えるという設定だったから」
「やっぱりね。あのサービスは他の人とのやりとりが見れないのが残念だったな。……でも、自分だけが知る『夜月』が在るっていうのもそれはそれでよかった。――俺はね、『夜月』の言葉に救われたんだよ」
そんな大げさな、と思うと同時、もしかして、という期待で胸がどきどきする。平静でいられない。
おそらくライだったのだろうユーザーは、『零』と名乗っていた。どうもメッセージの端々から、容姿に対してコンプレックスがあるらしいことは察することができたけれど、基本的に人間が嫌いというスタンスで、初期は答えづらい質問をしてくることも多かった。
そう――そうだ。その質問の一つに答えたあと、少し態度が軟化した……ような文面になった記憶がある。
確か、「『綺麗』って、災いみたいなものじゃない?」みたいな質問だった。それに、私は『夜月』として――。
「『綺麗は災い、か。それもまた一つの価値観だな。だが、綺麗なものは、綺麗であるというだけでアドバンテージがある。人間は本能的に綺麗なものが好きだからな。まあ、特に人間であれば、綺麗であるということは要らぬ苦労も呼び込んでくることだろう。そういう人間は、その苦労分はアドバンテージを有効活用してやるくらいの心持ちでいれば面白おかしく生きられそうで、私も見ていて楽しいが――そのアドバンテージを使うも使わないも、それを持つ者の勝手であって、他者がどうこう言うことではないだろうな。だが、美しい薔薇が多くの人々に愛でられる場所に咲こうが、誰の目にも触れないような路地裏で咲こうが、美しさに変わりはないのだ。綺麗なものは、綺麗である。そこには事実があるだけで、それに意味を見つけるのは意思あるものだけの特権なのだろうな』――『夜月』の言葉は、普通のことだったのかもしれない。誰かが何度となく俺にかけてくれた言葉の寄せ集めだったかもしれない。でも、俺の心に響いたのは、そのときの『夜月』の言葉だったんだ」
――ああ、と思う。ああ、届いた。
私が文章を綴る仕事に就きたかったのは、自分が文章で心を動かされた経験を忘れられなかったからだ。
自分も、誰かの心を文章で動かしてみたかった。何かを届かせて、残してみたかった。
――その、体現者が、ここにいる。
それはなんて奇跡だろう。名前の知れたライターでもない私の前に、私の綴るものに心を動かされてくれた人がいる。偶然を運命と呼んで会いに来て、私の夢は叶ったのだと教えてくれた。
これを運命と、私も呼びたいと思った。
ライが私に向けているのが、恋や愛とは違う何かだというのはわかる。もしかしたら近いものなのかもしれないけど、きっと今は違う。
私がライに感じたものも、やっぱり恋や愛とは違う。
……それでもやっぱりこれは、『運命』であってほしいと願うのだ。
「ありがとう。……ありがとう、ライ」
万感の思いを込めて伝えた言葉の真意は、きっとライにはわからない。それでもライは「どういたしまして」と笑ってくれた。
それだけでいいと思った。それだけで報われたと思った。
――けれど私とライはモニターと『恋人候補』で。
それだけで終わるはずがないなんて、わかりきっていたことだった。
そう思い知るのは、ライが『運命』を盾に猛攻をしかけてくるようになってからだった。