締切明けに倒れたら、恋人候補がやってきた
「お、わった……」
ファイルの送信ボタンを押して、『送信完了』の文字を確認するところまでが限界だった。気力の尽きた私は、そのままばったりと床に倒れ込む。
恩義のある仕事先からの突発の依頼が入ってスケジュールが狂い、無理を重ねに重ねた末のことだった。なんとか、本当になんとか、平常通りの仕事も含めて締切破りという結果にはならずに済んだのは幸いだったが、二度とこんな無茶なスケジュールは組まない……と思いながら、寝床へと這いずろうとしたのが最後の記憶だった。
そして、次に目が覚めたら、きらきらしい美貌の見知らぬ青年に見下ろされていた。
「あ、気が付いた? まさか丸一日目が覚めないとは思わなかったから、どうしようかと思ったよ」
誰かに介抱されているのもかろうじて認識していた。連れ合いを作らず独り身で過ごす人々が増えたことで、独り暮らしの人間への介護支援は充実してきている。
例にもれず独り身独り暮らしの私は、そういう層向けの介護サービスに入っていたから、倒れた時点で異常を検知して介護員が派遣されたんだろうと思っていた……のだけど。
「介護員の人には帰ってもらったよ。いてもらってもよかったんだけど、スペース的に三人はちょっと厳しかったし」
丸一日目覚めなかった、というのはあり得る話だ。効率を考えて徹夜はしていなかったけど、睡眠時間はがっつり削っていた。体が休息を欲するのも当然だ。
あり得ないのは、目の前の――生きている人間かと疑うほどに整った容貌の、見知らぬ青年の存在である。
「……あなた、だれ、ですか」
寝起きに掠れる声で問う。
「喉大丈夫? はい水」なんて言ってペットボトルを渡しそうとしてきたその人は、警戒を通り越して不審者を見る目で受け取らないことを選択した私に、ぱちりと目を瞬いた。
「そっか、初対面だもんね。……うーん、起き抜けにするような話じゃないんだけど、そうも言ってられないか」
そして、私に水を受け取らせるのを諦めて、姿勢を正して、――理解しがたいことを、言った。
「俺はね、あなたの『恋人候補』なんだ」
「…………は?」
間の抜けた声が口から漏れた。人間、耳から入った言葉が理解できないと、意味のある言葉では聞き返せないらしい。
「お試しの恋人、って言ってもいいのかもしれないけど。……あなた、アンケートに答えたよね」
「……アンケート?」
「そう。あなたの仕事先から、よければ回答をって送られてきたやつ」
言われて、思い出す。確かに締切ハイになってる最中に、お得意先から送られてきた新規プロジェクトに関わるアンケートとやらに気分転換に答えた記憶はある。文章記述式じゃなくてチェック式だったので、そんなに時間はかからなかった。昨今の『結婚しない・恋人もつくらない人々に関する意識調査』って感じのものだったはずだ。
社会問題として取りざたされているくらいだ。お得意先の元を辿ればかなりの大企業なこともあって、特に疑問も持たずに回答した。
引っかかったことと言えば、『この調査、及び関連するプロジェクトの仔細に興味があるか』みたいな項があったことくらいだ。いったい何を始める気なんだろう、何かネタになるかな、とか思って『興味がある』にチェックしたような。
そこまで考えて、まさか、と思う。そしてそれはそのまま口から滑り出た。
「……まさか」
「うん、多分そのまさか。あなたはモニターに選ばれたんだ。このマンションも管理会社の大元を辿れば同じ企業に行き着く。だから俺が入れたってわけ」
「そ、それにしたって、同意とか……そういうの必要でしょう、普通」
「そこもクリアしてる。その様子だとろくに中身確認しないで返信したんだろうけど、伺いのメッセージが届いてたはずだよ」
言われて、倒れた時のまま開きっぱなしだった端末にとびつく。幾つかメッセージを遡ると、確かにあった。日付的に締め切り前の修羅場真っ只中だ。絶対にまともな判断力がなかった自信がある。
信頼できるところにしか開示していない連絡先だとはいえ、あまりに迂闊な過去の自分に眩暈がする。文面が仕事の依頼の前段階の打診っぽいから深く考えなかったんだろうな、という自分の思考も伺えてしまって更に眩暈がする。
「一応、今言った事情とか俺の身元とか、証明する用意はあるよ。だからとりあえず落ち着いて話せる状態を整えない?」
その言葉にはこちらへの気遣いがあらわれていて、何とはなしに居心地の悪い心地になりながら、私は頷いたのだった。
* * *
正体不明――もとい、『恋人候補』だと言うその人は、『来生ライ』と名乗った。「ライって呼んでほしいな」と言われて、とりあえず要望を呑むことにする。この際、初対面の美形の呼び名なんて些細なことだ。
名乗り返そうとすれば「改めて名乗ってくれなくても、知ってるよ。――東雲彩加さん」とにこりと笑われた。
……まあ、普通に考えて、事前情報は与えられて来てるよね。
ライの説明をまとめると、こうだ。
恋愛に興味が全くないわけではないけれど積極的に恋人をつくることをしない、というような層の人間に『恋人候補』を派遣して、うまく『恋人』になればよし、そうでなければその理由をデータとして収集する――という名目でライは私の元に派遣されてきた、と。
そしてこの『恋人候補派遣』からの『恋人関係成立』までがうまくいくようなら、もっと大々的に行われるようになるらしい。
「……いろいろと無理がありすぎない?」
率直な感想を口にすると、ライは肩をすくめた。
「気持ちはわかるけどね。でもこれ、結構な一大プロジェクトなんだよ」
それは提示された資料とかでわかってはいるけれど、そもそも。
「本気でこれで恋人関係が成立すると思ってるの?」
「俺は末端だからなぁ。でも、『恋人をつくる』っていうところに行き着くまでが面倒で恋人をつくらない人にはいいんじゃない? お近づきになるためのあれこれすっとばして、『自分いかがですかー』って相手候補がやってくるんだから」
「一応恋人に求める条件とかも考慮して派遣はされてるし」と続けられて、アンケートの中にそういった項目もあったことを思い出す。つまりライは私が恋人に求める条件として答えた内容をクリアできると見込まれた人材ということだ。
恋人に求める条件がやみくもに多いというわけでも、難しい条件があるというわけでもないような回答をしたので、そういう面でモニターに選びやすくはあったかもしれない、とは思う。だけど。
「……私、顔の良さは特に求めてなかったはずだけど」
そりゃあ顔がよければ眼福ではあるけど、美人は三日で飽きると言うし、今時美形で目の保養をしたかったら仮想世界がある。それに、整形技術の向上と安価での普及で、自分の体を弄ることも珍しくなくなった昨今だ。見るに堪えない容貌の人を探す方が難しい。
そういうのが相俟って、顔の良さは重視していなかった。というかこんな段違いの美形を求めた覚えはなかった。
「うん、知ってる。――俺が、選んだんだ」
ふ、と。ライがずっと浮かべていた笑みを消して言った。特上の美形が人懐こさを消すと、息をするのも憚られるというのを、その瞬間、身をもって知った。
「……選んだ?」
「うん、そう」
ライがにぱっと笑う。詰めてしまっていた息を、そっと吐き出した。……心臓に悪い。
そんな私の様子に気付いてるのか気付いてないのか、ライはそのまま続ける。
「最終的には、挙げられたモニター候補の中から、『恋人候補』自身で誰のところに行くか決められたんだよ。で、俺はあなたを選んだってわけ」
「それは、どうして」
「あなたがいいと思ったから」
あまりにも真っ直ぐに言われてしまって、なんだかそれ以上聞くことができなかった。『どうして私がいいと思ったのか』なんて、口に出して真正面から訊ねるのは少し恥ずかしかったのもあるけれど。
「まぁ、いろいろ思うところもあるだろうけど、うっかり承諾までしちゃったのが運の尽きだと思って、付き合ってもらえると助かるな」
「……その『付き合って』っていうのは」
「どっちの意味で取ってもらっても。大丈夫、無理強いはしないよ。それじゃあモニターの意味がないしね」
そうして私は結局、「どうぞよろしく」と差し出された手と、笑顔の圧力に屈してしまったのだった。