第2話 異世界というものは
宿を出て空を見上げると、いつものように小雪がチラついている。
季節は冬。炎の魔石やら薪やら小麦やら、何かと物入りな季節だ。
僕の名はシオ。闇医者もどきをしている。
この剣と魔法の異世界に放り出されてからはや三ヶ月が経とうとしていた。最初の衝撃と混乱は、過酷ながらも日々の仕事をこなすうちに、どこか遠い記憶になりつつある。それでも、ふとした瞬間に感じるこの世界の理不尽さと、元の世界へのぼんやりとした郷愁は、胸の奥に澱のように沈んでいた。
「ちっすシオ、今日はやべぇくらい寒いな」
僕の後ろで周りを警戒しながら歩くのはシャノ。僕と歳は近いが、その筋では名の通った腕が立つチンピラだ。スラムのマフィアであるラスラトが僕に付けてくれた用心棒であり、そして僕がこの世界で二番目に治した人間でもある。十代にして酒と女とギャンブルに溺れる、絵に描いたようなダメ人間だが、どこか憎めない気さくさも持ち合わせている。
あ、ちなみに治したのは梅毒ね。死にかけのコイツを治すことで、僕はラスラトファミリー内での最低限の信用――というより、利用価値を証明することができた。シャノ本人は、ケロリと治った自分の|英雄の証⦅梅毒⦆がなくなったことを少し寂しがっていたが、またすぐに新しい勲章を作ることだろう。多分来月には、また僕に金を落としていってくれるはずだ。
「シュテンの旦那、今日急患はいるかい? それか良い金ヅルでもいいよ?」
たどり着いたのは、いつもの酒場『アセスタ』。表向きはただの場末の酒場だが、その薄暗い奥の部屋が、僕の診療所代わりの一つだった。ここで言う急患とは、大抵は飲み潰れた酔っ払いのこと。彼らを勝手に治して、懐から治療費と称して金をスる。正直、二日酔い程度なら僕の力を使えば片手間だ。現代でいえば数百円程度の治療費でガキ二人に奢るだけで二日酔いが綺麗さっぱり無くなるのだから、彼らにとっても安いものだろう。別に金が無くても、シュテンの旦那に頼まれれば治すけどね。
ちなみに金ヅルとは、主に貴族の依頼人のことだ。表では公言しづらい病気や怪我を、こっそりここに治しにくる。そういう相手には、完治させずにちょっとずつ治していき、長くむしり取るのが僕の常套手段だ。
「おう、シオか。そうだな、今日は特にいねぇな。しいて言うならお前のツラが見てて寒い」
カウンターの奥から、酒場の主人シュテンが顔を出す。大きな顔の傷が、その筋金入りの風格を物語っていた。
「そいつは悪かったね。じゃあまた来るよ!」
「おう! また良い女でも引っ掛けてこいよ!」
そんな会話を交わして僕は闇医者もどきを生業としている酒場『アセスタ』を後にしようとしたときだった。
「待てシオ、あぁそうだったそうだった。依頼って訳じゃねえんだがな」
シュテンの旦那が、何か思い出したように僕を引き止める。
「なになに、それって金になる?」
僕の問いに、旦那は少しばかり面倒くさそうな顔をした。
「探し人ってやつだ。あー、確か名前はシオと言ったかな、この辺で医者をしてるらしい」
「…………」
自分の名前を他人の口から聞くのは、なんとも奇妙な気分だ。しかも探し人とは。僕が何かやらかしたというのだろうか。心当たりが……ありすぎて逆に絞れない。
「サルサがブチ切れてたぞ、お前何やらかしたんだ」
シュテンの旦那の言葉に、僕は思わずシャノの方を見た。彼は肩をすくめて「俺は知らねえ」とでも言いたげな顔をしている。サルサが怒っている? それは非常にまずい。あの獣人の怒りは、並大抵のことでは収まらない。
「シャノ、悪いけど僕また潜るからよろしく」
咄嗟にそう口にしていた。ここで言う潜るとはこの都市スリムリンの西部にあるダンジョンのことだ。現在52階層まで探索がされており僕たち人間やその他の種族が生きるためのありとあらゆる物品が採掘される。それは魔石に始まり食料や古代の魔道具など様々だ。ちなみに僕以外の人間はこのダンジョンに対し誰も疑問を持たない。明らかに何らかの意思が働いているのだろう。それは神かはたまた…………
だが僕は気にしない。そんなものに首を突っ込んだらきっと命がいくつあっても足りないだろう。そんな予感がするのだ。今はそれよりも、サルサの怒りの原因を突き止め、穏便に解決する方が先決だ。……いや、解決できるかは分からないが、少なくとも現状から一時的に逃避する必要はある。
そうと決まれば話は早い。ダンジョンに潜ってほとぼりが冷めるのを待つか、あるいは何か手土産でも見つけて機嫌を取るか。どちらにせよ、ここに長居は無用だ。
僕がシャノと共に再び酒場の出口へ向かおうとした、まさにその時。
ドシン、という地響きに近い足音と共に、酒場の入口が影で覆われた。一瞬にして喧騒が静まり返り、緊張が走る。
(うげぇ、親分じゃねえか。なんでここに……まずい、今度はこっちの意味で非常にまずい)
内心の焦りとは裏腹に、シオは顔にいつもの飄々とした笑みを貼り付ける。
そこに立っていたのは、身長2メートルはあろうかという巨漢、スラムの顔役ラスラトその人だった。その鋭い眼光が、真っ直ぐにシオを射抜く。
「それでだ、シオ。お前、仕事サボってここに入り浸ってんのか?」
地を這うような低い声に、シャノがそそくさと壁際に寄るのが見えた。
「いやいや親分、サボってるわけじゃあ。ちょっとこう、新たな治療法のインスピレーションを求めて瞑想を……」
「ほう?」
ラスラトの眉がピクリと動く。
「お前さんがサボった分だけアイツらの復帰が遅れ俺様を苛立たせる。わかるか?」
「はい!」
シオは背筋を伸ばし、一応神妙な顔を作ってみせる。
「なら話は早い、早速行くぞ」
「へっ!!ちょ、ちょっと待ってください!まだ心の準備が!というか、僕、今ちょっと立て込んでまして……女神様のご機嫌がナナメというか……」
慌てて言い募るシオの言葉を、ラスラトは鼻で笑い飛ばした。
「うるせぇ!早くしやがれ!」
有無を言わさぬ声と共に、太い腕が伸びてくる。シオはひらりと身をかわそうとしたが、あっけなく首根っこを掴まれた。
「あいたたた!親分、もうちょっと優しくできませんかねぇ?僕、デリケートなんですよ?」
「ほざけ」
ズルズルと引きずられながら、シオは内心で本日二度目の溜息をついた。サルサの件も気になるが、まずはこの巨漢のお願いをこなさなければ、後がもっと面倒なことになりそうだ。
そんな楽観的な思考とは裏腹に、彼の足は冷たい石畳の上を無様に引きずられていく。さすがのシオも少しだけ気が重くなるのだった。