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第1話 異世界情緒・冬=死

 吐瀉物と腐臭の混じる路地裏の冷たさで、士皇(シオ)は意識を取り戻した。


 雪だった。薄汚れたパーカーのフードの隙間から見える空は鉛色で、細かく、しかし容赦のない雪が静かに舞い落ちてくる。素足の裏に突き刺さる石畳の感触は、じくじくとした痛みと共に、骨身に染みる寒気を伝えてきた。


(……どこだ、ここは……)


 見慣れた日本の風景ではない。古びた煉瓦造りの建物が薄暗がりの中に立ち並んでいる。何よりも、この圧倒的な不潔さと、生命を脅かすような寒さが現実感を突きつけていた。


 どれほどの時が経ったのか。なぜこんな場所にいるのか。思考はまとまらない。ただ、この寒さの中でじっとしていれば、遠からず凍え死ぬことだけは確かだった。


「寒っ……」


 か細い声が漏れる。唯一の救いは、お気に入りのパーカーを着ていたことだけか。


 じっとしていれば死ぬ。それは嫌というほど味わった教訓だった。動かなければ。何か、行動しなければ。


 その時、道の向こうにあるひときわ大きな建物――尖塔の形からして、おそらく教会だろう――の扉が乱暴に開かれ、何かが獣のようなうめき声と共に石畳に叩きつけられるのが見えた。


 人間……いや、頭に猫のような耳が生えている。みすぼらしい布を纏い、左腕の先からはどす黒い血が滲み、その手首から先は見るも無惨に失われていた。ピクリとも動かない。

 道の往来は途絶えてはいないのに、誰もがその猫耳の存在などまるで無いかのように通り過ぎていく。その無関心さは、シオの胸の奥にある古い傷を微かに疼かせた。見捨てられる痛み。無視される絶望。


(……僕と同じだ)


 そう思った瞬間、シオは限られた体力を振り絞り、猫耳の少女――いや、その性別すら定かではない存在――へと歩み寄っていた。なぜそんな行動を取ったのか、自分でも理解できなかった。ただ、見過ごすことができなかった。


「……っ……」


 猫耳の人物は、シオが近づくと、かろうじて残った右腕で身を守るように顔を覆おうとした。その瞳には、深い絶望と、人間に対する強い不信が浮かんでいる。シオは、その目を見て息を呑んだ。かつて、鏡の中に同じような目をした自分がいたことを、不意に思い出したからだ。


 シオは何も言わず、その猫耳の人物を抱え、少しでもマシな路地裏へと引きずり込んだ。温もりなど与えられないことは分かっていたが、それでも何かしなければという衝動に駆られていた。

 彼女―― 間近で見て、それが少女だと分かった――の頭にそっと手を乗せる。その瞬間、脳髄を直接揺さぶられるような、奇妙な感覚が閃いた。


(――治せる)


 この子を、治せる。そして、治さなければならない。

 それは、どこからともなく湧き上がってきた確信だった。

 シオは、無意識に唾を飲み込んだ。震える唇を開き、かろうじて言葉を紡ぐ。


「……僕は、あなたを治せる。……その代わり、あなたの……あなたのもので、僕にくれるものは、あるか?」


 生きるために。この理不尽な世界で生き延びるために。かつてそうしたように、差し出すしかない。利用できるものは、何でも。

 少女は虚ろな目でシオを見つめ、途切れ途切れに何かを言おうとするが、声にならない。ただ、その瞳の奥に、ほんの僅かな光が灯ったのをシオは見逃さなかった。

 もう一度、シオは問う。今度は、先程よりも少しだけ強く。


「僕はあなたを治せる。あなたは何を……差し出せる?」


 少女の唇が、微かに動いた。


「……いき……る……なら……なん、でも……わたしの……ぜんぶ……」


 その言葉を、シオは聞き逃さなかった。


「――交渉、成立だ」


 そう呟くと、シオは自らの指先を強く噛み切り、滲み出た血を少女の傷口へと押し当てた。手の中から、黒い靄のような何かが這い出し、少女の失われた左腕へと絡みついていく。それは、およそ神聖な治癒の光景とはかけ離れていたが、確かに生命を繋ぎ止めるための、最初の契約だった。

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