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第10話 僕の生き方

 シャノが用を済ませ控室の扉を開けようとしたのは、まさにその罵声が木霊した瞬間だった。中から聞こえてきたのは、若い女の甲高い声で放たれた、聞くに堪えない単語―――「ビッチ野郎が」。その言葉が誰に向けられたものか、そしてそれがどれほどの侮辱を意味するか、スラム育ちのシャノに分からないはずがない。


(……あのクソアマ共……!)


 腸が煮え繰り返るような怒りが込み上げたが、シャノは咄嗟に扉を開けるのを諦め、数秒間、壁に背を預けて荒い息を整えた。今ここで自分が飛び込んでいっても、状況が悪化するだけかもしれない。何より、シオがどんな状態になっているか。彼がこれ以上面倒事に巻き込まれるのは避けたかった。

 シャノは意図的に少し時間を置き、努めて平静を装ってから、もう一度控室の扉を開けた。


 中でシオは床に手をついたまま、呆然と座り込んでいる。その黒い瞳は焦点が合わず、虚空を見つめていた。完成したばかりのトランプタワーが、彼のすぐそばで寂しげに聳えている。娼婦たちの姿はもう見えない。


「おーい、シオ。どうした、そんなとこで。腹でも痛えのか?」


 シャノはわざと普段通りの、少し茶化したような口調で声をかけた。内心の怒りは奥歯で噛み砕き、冷静さを意識する。シオの動揺は明らかだった。その顔には血の気が失せ、小刻みに震えているのが見て取れる。


「……なんでも、ない」


 かろうじて絞り出したようなシオの声は、ひどく掠れていた。


 シャノはそれ以上何も聞かず、シオの隣にどかりと腰を下ろした。


「ま、今日はもう終わりだろ。アネットの姐さんにも挨拶してきたしな」


 そう言って、他愛もない話を一方的に続けた。次の大きな賭けレースの話、最近馴染みの酒場に入った新しい女の話、昨日飲んだ安酒がどれだけ不味かったかという話。シオはほとんど上の空で、時折曖昧な相槌を打つだけだったが、シャノは構わず喋り続けた。そうすることでしか、この重苦しい空気をどうにかできないと思ったからだ。


 やがてプロメオンからの帰り道、夕闇が迫るスラムの路地を二人で歩いている時だった。シャノは、ずっと胸の内に燻っていたものを、意を決して口にした。


「……なあ、シオ」


「……なに?」


「昼間、プロメオンで……俺が部屋に戻る前、何かあったろ。……聞こえちまったんだよ、あの女の声が」


 シャノが

「ビッチ野郎が、ってな」

と続けると、その瞬間、シオの肩が大きく跳ねた。彼の足がもつれ、シャノが慌てて支えなければ、そのまま石畳に崩れ落ちてしまいそうだった。


 見上げたシオの顔には、先程の控室での呆然とした表情とは違う、もっと深い、絶望とも諦念ともつかない、暗い影が差していた。


「シオ……。ありゃあ、どういうことだ? お前、あんなこと言われて、なんで黙ってんだよ」


 シャノの声は、自分でも気づかぬうちに詰問するような響きを帯びていたが、すぐにそれを後悔した。シオを責めたいわけではない。ただ、理解できなかったのだ。なぜ彼が、あのような侮辱を甘んじて受けているのか。


 シオは、シャノの腕の中でか細く息をつくと、ぽつりと言った。


「……事実だから」


「は……?」


「僕が……昔、身体を売ってたのは……本当のこと、だから……。薄汚いって言われても、仕方ないよ……」


 その言葉は、あまりにも淡々としていて、シャノは返す言葉を失った。シオは自嘲するように小さく笑い、自分自身を責めるように俯く。


「なんで……なんで反抗しねえんだよ! あんな言い方されて、悔しくねえのか!」


 シャノは思わず声を荒らげた。だが、シオは静かに首を横に振るだけだった。


「……耐えた方が、楽だから」


 シオの口から紡がれたその言葉は、夕闇の路地裏に吸い込まれるように消えた。あまりにも静かで、あまりにも諦めに満ちたその響きに、シャノは一瞬、言葉を失う。スラムで生きる中で、理不尽な暴力も、弱者が踏みにじられる光景も、嫌というほど見てきた。だが、目の前の少年が抱える闇は、それらとはまた質の異なる、底なしの深さを感じさせた。


「……楽、だと?」


 シャノは、絞り出すように繰り返した。握りしめた拳が、怒りなのか、やるせなさなのか、微かに震えている。


「ふざけんじゃねえよ、シオ! それが楽なもんか! お前、自分が何とも思ってねえつもりかもしれねえがな、そんなんで心がもつと思ってんのか!?」


 思わず語気が荒くなる。だが、シオは顔を上げない。ただ、俯いたまま、消え入りそうな声で


「……だって……」と呟くだけだ。


 シャノは大きく息を吸い込み、努めて声を落ち着かせようとした。怒鳴ったところで、今のシオには届かない。それは分かっていた。


「……いいか、シオ。よく聞け」


 彼はシオの前に屈み込み、その細い肩に手を置いた。シオの身体がビクリと強張ったが、シャノは構わず続ける。


「お前は、何も悪くねえ。これっぽっちもだ。悪いのは全部、お前にそんなクソみてえな真似をしやがった奴らだ。お前が自分を『薄汚い』だのなんだのって責める必要なんて、どこにも、一切ねえんだよ」


 まっすぐに、シオの瞳を見ようとするが、彼は頑なに視線を合わせようとしない。


「でも……事実だから……。僕が、そういうことしてたのは……」


「それがどうした! やりたくてやったわけじゃねえだろ! 無理やりやらされたんだろが! それをお前が悪いみてえに言うな!」


「……でも、抵抗しなかったら……僕も、同罪、なのかなって……」


「馬鹿野郎!」


 シャノの声が、再び鋭さを帯びる。


「抵抗したらもっと酷いことされるって、お前が一番よく分かってんだろうが! そんな状況で、お前みてえなガキに何ができる!? 生き延びるために、ただ必死に耐えてただけだろうが! それを同罪だなんて、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」


 シオの肩が、小さく震え始めた。


「耐えるのが楽だなんて、二度と言うな。それは楽なんかじゃねえ。ただ、お前が……お前が自分を殺して、心を麻痺させて、そうやって何とか生きてきただけだ。そんなのが、楽なわけねえだろうが……」


 シャノの言葉は、次第に熱を帯びていく。それは、スラムで生きる彼なりの、不器用な励ましであり、そして、シオに向けられた真摯な怒りでもあった。


「お前はな、シオ、もっと怒っていいんだ。ムカついていいんだ。あんなクソアマに『ビッチ野郎』だなんて言われて、ヘラヘラしてんじゃねえよ。腹が立つなら、ぶん殴ってやれとは言わねえが、せめて『てめえの方がよっぽど醜い』って心の中で唾吐いてやれ。お前は……もっと大事にされていいはずなんだ。少なくとも、俺はそう思ってるぜ」


 そこまで一気に言うと、シャノはふう、と息をついた。シオは依然として俯いたままだったが、その肩の震えは少しだけ収まっているように見えた。


 路地裏には、重い沈黙が落ちる。遠くで、酔っ払いの騒ぐ声と、何かの楽器の音が微かに聞こえてくる。

 やがて、シャノはシオの頭をくしゃりと一度だけ撫でた。


「……ま、すぐにどうこうなる話じゃねえだろうがよ。でも、少しは覚えとけ。お前は、お前が思ってるほど、汚くもねえし、弱くもねえってことだ」


 それだけ言うと、シャノは立ち上がり、先に歩き始めた。


「……帰るぞ、シオ。サルサの姐さんも心配してるだろうぜ」


 少しの間を置いて、シオもまた、おぼつかない足取りでシャノの後を追い始めた。彼の心に、シャノの言葉がどれほど届いたのかは分からない。だが、その背中を照らすスラムの薄暗い灯りは、ほんの少しだけ、温かく感じられた気がした。

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