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第8話 控室の不協和音

 治癒行為のできる者は、シオも含め、ここスリムリンの歓楽街では定期的に娼館などへ赴くことになっていた。表向きは週に一度の軽い診療と健康相談だが、その実、シャノのような用心棒が必ず同行することからも分かるように、マフィアの息のかかった施設への巡回と警備、そして管理の一環という意味合いが強い。


 シオが担当する中の一つが、高級娼館『プロメオン』だった。


 その日もシオとシャノは、プロメオンの豪奢な内装とは裏腹に、どこか生活感の漂う従業員用の控室で時間を潰していた。高級娼館だけあって、ここで大きな問題が起こることは稀だ。結果として、シオの診療は簡単な問診と、せいぜい肩凝りを訴える女性に気休め程度のマッサージを施すくらいで終わることが多かった。


「……で、次の賭けレースだが、例の黒鹿毛、ありゃあ間違いなく来るぜ、シオ。俺の目に狂いはねえ」


 シャノが床に広げた手製のレース予想表を指で叩きながら、皮算用を始めている。シオはといえば、そんなシャノの熱弁を生返事で聞き流しながら、テーブルの上でトランプのカードを一枚一枚、慎重に積み重ねていた。何度か挑戦しては崩れ落ちるトランプタワー。飽きもせずそれを繰り返すのは、この退屈な待機時間をやり過ごすための、彼なりの儀式のようなものだった。


 控室には、休憩中の娼婦たちも数人いた。彼女たちは、シオの存在には慣れたもので、特に遠慮するでもなく、女同士の会話に花を咲かせている。


「……聞いてよアネット! この前の客、また口の奥まで突っ込んでくんの! さすがに次はもう無理だって、出禁にしてもらえないかしら……」


 甲高い声で愚痴をこぼしたのは、派手な化粧の若い娼婦だった。その露骨な話題に、隣にいた別の娼婦が咎めるような視線を向け、シオの方をチラリと見た。


「ちょっと、ロザリー! シオ君もいるんだから、そういう話は……」


 小声で注意しようとした、その瞬間だった。


「分かる~」


 今までトランプタワーの微妙なバランスに全神経を集中させていたはずのシオが、顔も上げず、軽々しく人ごとのような声で相槌を打ったのだ。


 シャノの皮算用も、娼婦たちのお喋りも、ピタリと止まる。部屋の空気が一瞬で張り詰めた。


「歯が当たったらぶたれるし、吐きそうになってもぶたれる。そういうのが好きな客はたいてい暴力も好きだからいつも大変だったよね~。気が済むまで無理やりだったり。こっちが息できなくてもお構いなしなんだ。しかも喉の奥に出すやつは………


 シオは続ける。その声は、まるで天気の話でもするかのように淡々としていた。その細い指先は、震えることなく新しいカードを掴み、タワーの最上段へと慎重に運び、そっと置く。


「……っ」


 最初に愚痴をこぼしたロザリーが息を呑み、彼女を止めようとしたアネットは顔面蒼白になっている。シャノでさえ、口を半開きにしたままシオの横顔を凝視していた。


 しかし、シオはそんな周囲の異変には全く気付いていない。彼の関心は、ただ一点、目の前の危うげな塔にのみ注がれている。


 そして―――。


「……やった、できた!」


 最後のカードが寸分の狂いもなく置かれ、不安定ながらも美しいトランプタワーが完成した。シオは満足げに小さく息をつき、子供のように純粋な達成感に顔をほころばせた。


 その時になって初めて、彼はシンと静まり返った部屋の空気に気づき、不思議そうに顔を上げた。

 テーブルの向こうでは、三人の人間が、まるで石になったかのように自分を見つめている。その表情は、驚愕、困惑、そして―――形容しがたい恐怖の色を浮かべていた。


「……あれ? どうかしたの、みんな?」


 きょとんとした顔で首を傾げるシオの黒い瞳には、自分がたった今投げかけた言葉の持つおぞましい意味合いなど、微塵も映っていないようだった。ただ、完成したトランプタワーの影だけが、彼の足元に長く伸びていた。テーブルの向こうでは、ロザリーとアネットが、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、顔面蒼白でこちらを凝視している。シャノもまた、普段の軽薄さが抜け落ちた真剣なた表情で、言葉を失っていた。


 その凍りついたような視線が、三方向から無言の圧力となってシオに突き刺さる。


(……あれ?)


 何かがおかしい。さっきまで普通だったはずだ。自分が何か、まずいことをしたのだろうか。何か、彼らを怒らせるような、あるいは不快にさせるようなことを。


 心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。指先が冷たくなっていくのを感じた。


 訳が分からない。でも、この雰囲気は知っている。この重苦しい沈黙の後に来るものを、彼は経験として知っていた。


「……ごめん」


 シオの唇から、か細い声が漏れた。


「僕……何か、したかな……? ご、ごめんなさい……」


 黒い瞳を不安に揺らしながら、彼は状況を理解できないまま、ただ反射的に謝罪の言葉を繰り返した。完成したばかりのトランプタワーが、彼の震える手元でカタカタと小さく音を立てていた。


 シャノは、シオのその常軌を逸した独白と、それに続く怯えた謝罪が作り出した息詰まるような沈黙を破り、やや乱暴に、しかしどこか弟分を気遣うような口調で話し始めた。


「おいおい、シオ。何ベソかきそうになってんだよ。お前は別に何も悪いことしてねぇって」


 そして、固まっている娼婦たちとシオの顔を交互に見比べる。


「……ただ、あれだ。ちーっとばかし……お前の体験談が、ここのお嬢さん方には刺激的すぎただけだろ。な? だからそんな顔すんなって。ほら、自慢のタワーが泣いてるぜ?」


 シャノの、どこか投げやりな慰めが控室の凍りついた空気に響いた。シオはまだ怯えたように小さく「ごめんなさい……」と繰り返している。その姿に、最初に客の愚痴をこぼしたロザリーは言葉を失い、ただシオの完成したトランプタワーと彼の顔を交互に見つめるばかりだった。


 沈黙を破ったのは、意外にもアネットだった。彼女は先程までシオの言葉に顔面蒼白だったが、今はその表情に静かな、しかし底知れぬ怒りの色を宿していた。このスラムには、どれだけ荒んでいようと守るべき一線というものが存在する。そして


「子供だけはどんな理由があろうと商品にしてはならない」

というのは、その中でも最も重い掟の一つだった。シオの言葉が真実なら、彼はその最も醜悪な禁忌の犠牲者ということになる。


 アネットは、内心の激情を押し殺し、努めて穏やかな、慈母のような声色を作ってシオに語りかけた。


「……シオ君」


 ビクッと、シオの小さな肩が震える。


「さっきの話……その、大変だったわね。……もし、もし差し支えなければ、教えてくれるかしら。そんな酷いことを……一体、誰にされたの?」


 その声は蜂蜜のように甘く、優しかったが、その奥には鋼のような意志が隠されているのを、シャノは感じ取っていた。


 シオはアネットの顔を恐る恐る見上げた。彼の黒い瞳はまだ不安に濡れており、何かを問い質されることへの恐怖がありありと浮かんでいる。しかし、アネットの表情には、先程までの他の者たちが見せたような恐怖や拒絶の色はなく、ただ静かな、深い哀れみのようなものが湛えられていた。


「……ぁ……えっと……」


 シオは口ごもり、視線を彷徨わせる。何かを言おうとしては、言葉を飲み込む。その躊躇いは、語ることの痛みか、それとも他人に過去を明かすことへの恐れか。


 アネットは辛抱強く待った。急かすでもなく、ただ静かに。


 やがて、シオはぽつり、ぽつりと、途切れ途切れに話し始めた。その声は、床に落ちる水滴のように小さく、頼りなかった。


「……昔……僕が、もっと小さい頃……」


 彼は視線を落とし、自分の指先を見つめながら続ける。トランプタワーは、もう彼の興味の外にあるようだった。


「……父さんが……いたんだけど……。家にお金が、あんまりなくて……」


 言葉を選び、何かを必死に覆い隠そうとするかのように、彼の話は核心を避けて回り続ける。


「……それで、時々……知らない人が、家に来て……。僕が……その、相手をしないと……父さんが、すごく怒るから……」


「相手って……それは……」


 ロザリーが、思わず息を詰めて問い返す。


 シオは顔を上げない。ただ、さらに小さな声で、事実だけを告げた。


「……断ると、酷いこと……されたから……。だから、ずっと……そうやって……」


 その言葉の先は、語られずとも明らかだった。そこには、父親によって売春を強要され続けた、幼い少年の絶望が凝縮されていた。彼はそれを「大変だった」という一言で片付けようとしたが、その一言に込められた重みは、聞く者の胸を締め付けるには十分すぎるほどだった。


 アネットは唇を強く噛み締めた。その目には、隠しきれない怒りの炎が揺らめいている。ロザリーは両手で口を覆い、言葉にならない嗚咽を漏らした。


 シャノは、ただ黙って、床の一点を見つめていた。いつもの軽薄な態度は微塵もなく、その顔には苦虫を噛み潰したような、そして深い無力感に打ちのめされたような表情が浮かんでいた。

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