第7話 拾ったキャンパスは・・・
先日の娼館『プロメオン』での健康診断。あのシオという少年と共に行った業務は、表向きは何事もなく終了した。しかし、私の内心には、彼の存在そのものが大きな波紋となって広がっていた。彼のあの特異な治癒能力そして、それを行使する際の、どこか常軌を逸した危うさ。何かが私のこれまでの経験や知識の枠を大きくはみ出している。それを確かめずにはいられなかった。
仕事からの帰り道、人通りの少ない路地を選んで足を踏み入れた瞬間、私は行動を起こした。
「――ッ!」
シオくんの細い腕を両手で掴み、躊躇なく壁へと叩きつけるように押し付ける。ドン、と鈍い音と共に彼の背中が壁に打ち付けられ、苦悶の息が漏れた。
「ねぇシオくん? 君、自分が何をしてるか分かってる?」
至近距離から、彼の黒い瞳を射抜くように見つめて問い詰める。その瞳は、驚きと恐怖に揺れ、小動物のように怯えていた。華奢な身体は私の腕の中で小刻みに震え、彼の脳裏にどんなおぞましい記憶が蘇っているのか、想像に難くない。その反応自体が、彼が尋常ならざる過去を抱えていることの証左だった。
「ごめんごめん、脅すつもりはないの。ただ君はもう少し自分が何をやっているか分かった方がいい」
掴んでいた手首を解放すると、シオくんはまるで支えを失ったかのように、ずるずるとその場にへたり込んでしまった。私は壁に背を預けると、懐からタバコを取り出して火を点ける。彼の小さな肩が、煙を避けるように微かに動いた。
「誰かから魔法と魔術について聞いたことはある?」
吐き出した紫煙の向こうに、俯いたままの彼に問いかける。
「うん、僕が使ってるのは魔法で、それが希少ってことは一応……」
か細い、しかし芯のある声が返ってきた。
「じゃあもう少し踏み込んで。シオくん、あれ、どこで身につけた?」
「わ……分かんない、いつの間にか使えるようになってた……」
その答えは、予想通りではあったが、溜息しか出ない。これでは問い詰めようにも、彼の責任とは言えないではないか。
「はぁ、ますます怒れないじゃん。ハッキリ言うね。シオくんの使っているあの魔法はいわゆる神聖魔法の類。治癒魔法とも違う」
私自身も元神官であり、治癒魔術の心得はある。だが、彼の力はそれらとは明らかに異質だ。より根源的で、そして危険なほどに強力な何か。
「この辺だとアンデルセン神父みたいな超がつく上級の神官が扱う門外不出の魔法だよ。もしあれを神官や神官騎士に見つかったら大変なことになる」
「……どうなるの?」
彼の黒い瞳が、不安げに私を見上げてくる。
「確実に殺される。あそこはそういうところだからね。才能がありすぎるやつ、上を脅かすやつはいつだってそうなる運命なんだ」
それは脅しではない。私がかつて目の当たりにしてきた、組織の冷酷な現実だ。
「それとねシオくん」
私は言葉を続ける。
「君、診察のとき魔力を流して身体の弱い所を探してたろ」
「うん……」
「あれ、禁術だよ」
「え……」
『呪詛の処方』ってやつだ。他人の身体に自分の魔力を流し込み、内部を探るなんて行為は、一歩間違えれば対象を害する危険な術。使い方によっては呪いそのものになる。君のやり方は、結果的に治癒に繋がっているから問題視されにくいだろうけど、その本質は極めて外道な技術だということを自覚した方がいい」
シオくんはただ黙って私の言葉を聞いている。その小さな頭で、どれだけこの警告の重さを理解できているだろうか。
彼の怯え方、暴力に対する従順さ。触診の際の、あの異常なまでの嫌悪感の裏にある怯え。彼の薄い衣服越しでも分かる、このスラムで不自然なまでに整った肌――そこには過去に負ったであろうおびただしい傷を、彼自身がその特異な力で消してきた痕跡が透けて見えるようだった。性的虐待の可能性も、否定できない。
そもそも、その傷が原因で魔法が発現した? ……有り得ない話ではない。
圧倒的な魔力量に、方向性は違えど独力で禁術の真似事に辿り着く、ある種の「外道魔法」のセンス。はぁ、神がいるのなら、なぜこんな形で彼に力を与えたのか。いや、やはり神様なんて居ないのね、と私は心の中で毒づいた。
そして普段のあの落ち着きよう、あの奇妙なまでの社交性。スラムで生きるにはあまりにちぐはぐだ。
果断のサルサと呼ばれる、あの獣人の冒険者と生活しているらしいが……シオくん、それは依存よ。そのおかげで今は精神的に安定しているように見えるけれど、もしその牙城が崩れたら……いえ、その先を考えるのはよそう。
それより、まずは治癒術の基礎からね。彼がやっているのはあまりにも荒っぽく、自己流が過ぎる。正しく体系立てられた技術を教え込む必要がある。
この子は、汚されたキャンパス。
そう、痛々しいほどに純粋で、そして同時に多くの闇を抱え込んだ、歪な白紙。
だけれど、まだまだ多くの余白を残している。
誰かに、あるいは彼自身がその余白を絶望の色で塗りつぶしてしまう前に……。私が、この子を正しい道へ導かなければ。
幸いなのは、彼の穏やかな気質と素直な性格だ。ただ、それすらも生き抜くために身につけた演技の可能性も考慮して、もう少し慎重に彼を見極める必要があるかもしれない。私は深く紫煙を吐き出し、隣で小さくなっている少年の横顔を見つめた。この拾ったキャンパスに、果たしてどんな未来を描いてやれるだろうか。