プロローグ
客の足音が遠ざかり、荒々しく閉められたドアの音が消えると、部屋には再び、重く冷たい静寂だけが残った。士皇は、壁際に身を寄せたまま、しばらくの間、ただ虚空を見つめていた。身体に残る鈍い痛みと、消えない嫌悪感。それが、今の彼の世界の全てだった。
後片付けをしなければならない。分かっている。けれど、身体が鉛のように重く、心が泥のように淀んで、すぐには動けなかった。
(………………)
暗闇の中で、ついつい、考えてしまう。いつもの、悪い癖のようなものだ。
(……きっと、明日の僕は……今日より、少しは……幸せ、なんじゃないかな……)
そう思うことにしている。無理やりにでも、信じ込もうとする。だって、そうでも思わないと、この息が詰まるような現実の中で、どうやって次の瞬間を迎えたらいいのか分からないから。明日になれば、何かが変わるかもしれない。今日よりは、ほんの少しでも、マシな一日が来るかもしれない。
(……大丈夫……明日は、きっと……)
毎日、毎日、そう自分に言い聞かせる。夜、一人になった時に、壊れそうな心を繋ぎとめるために。
けれど、心の奥底では、分かっているのだ。
何も変わらない、ということを。
泣けば、「うるさい」と殴られる。
感情を殺して耐えれば、「つまらない」「反応がない」と、また殴られる。
結局、ぶたれるか、ぶたれないか、その程度の違いしかない。父親の機嫌次第で、客の気まぐれ次第で、理不尽な暴力がいつだって襲ってくる。僕がどうしようと、何も変わらない。明日も、きっと同じだ。同じ痛みが、同じ屈辱が、同じ絶望が待っているだけだ。
その冷たい現実に気づいてしまうと、無理やり作り出した希望の欠片は、あっけなく砕け散ってしまう。後に残るのは、どうしようもない無力感と、深い孤独だけ。
(……誰か……)
不意に、そんな想いが胸を突いた。
(……誰でもいいから……会いたい……)
それは、助けを求める声ではなかった。もう、誰かに助けてもらえるなんて思っていない。あの逃亡の失敗が、それを教えてくれた。そうじゃない。ただ……。
(僕に……酷いことしなくて……)
殴らない人。罵らない人。身体を好き勝手にしない人。ただ、それだけでいい。そんな人が、この世界のどこかにいるのだろうか。
(僕のことを……何も知らない人に……会いたい……)
父親のように僕を支配するのではなく、客のように僕を品定めするのでもなく。ただ、道ですれ違う他人みたいに、僕を何者でもないと見てくれる人。僕の過去も、今の状況も、何も知らず、何も求めず、ただそこにいるだけの人。そんな人に、ほんの一瞬でもいいから、会ってみたい。そんな人がいる場所へ行きたい。
その叶わない願いが、あまりにも切実に胸に迫ってきて、士皇はぎゅっと目を閉じた。温かいものが込み上げてくるのを、必死で喉の奥に押し戻す。泣いてはいけない。
暗闇の中で、彼はただ、存在しない「誰か」を想う。自分を傷つけない、自分を知らない、そんな幻のような存在に、ただ会いたいと、心の底から願っていた。それは、この息苦しい現実から逃れるための、唯一の、そしてあまりにも儚い祈りだった。