表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/18

プロローグ

 客の足音が遠ざかり、荒々しく閉められたドアの音が消えると、部屋には再び、重く冷たい静寂だけが残った。士皇は、壁際に身を寄せたまま、しばらくの間、ただ虚空を見つめていた。身体に残る鈍い痛みと、消えない嫌悪感。それが、今の彼の世界の全てだった。


 後片付けをしなければならない。分かっている。けれど、身体が鉛のように重く、心が泥のように淀んで、すぐには動けなかった。


(………………)


 暗闇の中で、ついつい、考えてしまう。いつもの、悪い癖のようなものだ。


(……きっと、明日の僕は……今日より、少しは……幸せ、なんじゃないかな……)


 そう思うことにしている。無理やりにでも、信じ込もうとする。だって、そうでも思わないと、この息が詰まるような現実の中で、どうやって次の瞬間を迎えたらいいのか分からないから。明日になれば、何かが変わるかもしれない。今日よりは、ほんの少しでも、マシな一日が来るかもしれない。


(……大丈夫……明日は、きっと……)


 毎日、毎日、そう自分に言い聞かせる。夜、一人になった時に、壊れそうな心を繋ぎとめるために。


 けれど、心の奥底では、分かっているのだ。

 何も変わらない、ということを。


 泣けば、「うるさい」と殴られる。

 感情を殺して耐えれば、「つまらない」「反応がない」と、また殴られる。

 結局、ぶたれるか、ぶたれないか、その程度の違いしかない。父親の機嫌次第で、客の気まぐれ次第で、理不尽な暴力がいつだって襲ってくる。僕がどうしようと、何も変わらない。明日も、きっと同じだ。同じ痛みが、同じ屈辱が、同じ絶望が待っているだけだ。


 その冷たい現実に気づいてしまうと、無理やり作り出した希望の欠片は、あっけなく砕け散ってしまう。後に残るのは、どうしようもない無力感と、深い孤独だけ。


(……誰か……)


 不意に、そんな想いが胸を突いた。


(……誰でもいいから……会いたい……)


 それは、助けを求める声ではなかった。もう、誰かに助けてもらえるなんて思っていない。あの逃亡の失敗が、それを教えてくれた。そうじゃない。ただ……。


(僕に……酷いことしなくて……)


 殴らない人。罵らない人。身体を好き勝手にしない人。ただ、それだけでいい。そんな人が、この世界のどこかにいるのだろうか。


(僕のことを……何も知らない人に……会いたい……)


 父親のように僕を支配するのではなく、客のように僕を品定めするのでもなく。ただ、道ですれ違う他人みたいに、僕を何者でもないと見てくれる人。僕の過去も、今の状況も、何も知らず、何も求めず、ただそこにいるだけの人。そんな人に、ほんの一瞬でもいいから、会ってみたい。そんな人がいる場所へ行きたい。


 その叶わない願いが、あまりにも切実に胸に迫ってきて、士皇はぎゅっと目を閉じた。温かいものが込み上げてくるのを、必死で喉の奥に押し戻す。泣いてはいけない。


 暗闇の中で、彼はただ、存在しない「誰か」を想う。自分を傷つけない、自分を知らない、そんな幻のような存在に、ただ会いたいと、心の底から願っていた。それは、この息苦しい現実から逃れるための、唯一の、そしてあまりにも儚い祈りだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ