5 使う予定のなかったギフト
光の中、ナーシャが薄目を開けると黒いドラゴンのシルエットが確認できた。
その姿を見た瞬間、なぜだかナーシャの脳内に「名前」が浮かぶ。
(不思議な感覚……)
その名を呼ばずにはいられないと思った。
黒いシルエットに手を伸ばし、ナーシャは声の限り叫ぶ。
「っ、アルテム!!」
続けて聞こえてくるのは先ほどと同じドラゴンの咆哮。
全身が粉々になるのではというほどの衝撃がナーシャを襲ったが、それ以上に高揚感が全身に広がっていく。
──繋がった。
そんな感覚があった。
光が収束していき、ドラゴンの全身が見えてくる。
すでに恐怖はなく、ナーシャは達成感で満たされていた。
(結局、なにが起こったのかしら?)
とはいえ実際のところ何がどうなったのか、ナーシャには理解できていない。
今日の夜だけであまりにもいろいろなことが起こり過ぎて、冷静に物事を考えられずにいるのだ。
光が完全に消え、再び真っ暗な夜の森が戻ってきた。
静寂の中、ナーシャとドラゴンは微動だにせず互いを見つめ合っている。
数秒後、ドラゴンに変化が現れた。
淡い橙色の光が全身を包み込んだかと思うと、その姿が人型へと変わっていく。
あっという間にドラゴンは、長い黒髪を靡かせた美しい男性となった。
(綺麗な人……魔族だったのね)
ぼんやりした頭で考えていると、黒髪の男性は橙色の瞳をギラギラさせてナーシャへとつかつか歩み寄ってきた。
誰がどう見ても怒っている。
激昂しているといってもいい。
彼の周辺の空気がビリビリと震えており、人型となってもドラゴンの力は健在なのだということがよくわかった。
「貴様ぁっ!」
「ひっ」
ものすごい形相で迫ってきた黒髪の男に、あと一歩で掴みかかられると思ったところでナーシャはギュッと目を閉じた。
しかし、いくら待ってもなんの衝撃もこない。
「……?」
不思議に思ってそっと目を開けると、驚くべきことにナーシャの目の前で黒髪の男が跪いていた。
「え、え? あれ?」
「ぐ、ぬぬ……っ、なんたる屈辱っ! この僕が人間に、それも脆弱で今にも死にそうな女子に頭を垂れるはめになるとはっ!!」
俯いて跪いている姿とは裏腹に、声には怒りが滲んでいる。よく見ると全身がプルプル震えていた。
(これは怒ってる、のよね? なのにどうして跪いているの?)
意味不明な状況に、ナーシャはひとまず深呼吸を繰り返した。
(えっと。騎士様に置き去りにされて、ドラゴンが現れて……そうしたら急に辺りが光り出して。あ、魔法陣が浮かんでいたような)
そこでナーシャはあることに思い至り、あっと声を上げた。
「アルテム……私、ドラゴンに名付けをしちゃったの?」
「貴様ぁぁぁっ!!」
「きゃっ」
考えていることが口に出ていたらしい。ナーシャがそう呟くと、黒髪の男が再び叫んだ。
身体を縮こませたナーシャだったが、目の前の男は跪いて頭を下げたままだ。
「ああ、くそっ。いいから顔を上げる許可を出せ!!」
「え? あ、えっと、顔を上げてください?」
苛立ちながら命じられ、ナーシャが素直に従いそう告げると、黒髪の男はバッと顔を上げた。
やはり恐ろしく整った顔だ。まるで彫刻のように美しい。
だが怒りと恨みの籠った凄まじい形相はシンプルに怖い。
ナーシャは一歩後退した。
「訳が分からないといった顔だな。ならば教えてやる。僕は燈煌の魔王。たった今お前にテイムされたぞどうしてくれる!?」
「え……燈煌の、魔王!?」
とんでもない事態が起きている。
ナーシャは唖然とした様子で口を開けたまま黒髪の男、燈煌の魔王を見つめた。
その呼び名はナーシャも本で見知っている。というより世界の常識だ。
数百年前から即位し続けている魔国の頂点に立つ人物。それが燈煌の魔王。
それが目の前にいる人物だという。
じわじわと理解していき、ナーシャは今になってガタガタ震え、そのままへなへなと地面に座り込んだ。
「じゃあ、私……魔王をテイムしてしまったの?」
「そうだと言っている! 早く解除しろ! できぬのなら……今すぐその身体を切り裂いてやるっ!!」
魔王は勢いよく立ち上がると魔力を右手に溜め、座り込むナーシャに向かって振り上げた。
(っ、今度こそ助からないわっ!)
ナーシャが何度目かの覚悟を決めた時、魔王のうめき声が耳に届く。
「く、そ……! 主に手は出せない、ということか……っ!」
魔王は再び跪いており、悔しそうに顔を歪めていた。
どうやら、テイムされたせいで魔王はナーシャに手出しができないようだ。
(あ、そうか。テイムしたマモノは主人を傷つけることはできないって本に書いてあったわ)
ナーシャはドキドキと鳴りっぱなりの心臓をおさえながら、どうやら命が助かったらしいことを悟る。
それからほぅと安堵のため息を吐き、跪く魔王に声をかけた。
「あの。アルテム、さん」
「その名を呼ぶな!!!!」
「ご、ごめんなさい」
怒鳴り声にいちいち肩を揺らしてしまうが、害されることはないという安心感がナーシャを冷静にさせてくれた。
「その、魔王様。頭を上げてください」
「……ふん」
「えっと。……私、どうしたらいいのでしょうか?」
冷静にはなったが、ナーシャは実際とても困っていた。
自分は魔の森に捨てられた身。
そして、魔の森に入ったものは全て魔王のもの。
自分の運命は目の前の魔王が握っているはずなのだ。
ナーシャは現在行く当てもなく、途方に暮れている。
魔王は再び立ち上がり、呆れたような様子でナーシャを見下ろした後、長い長いため息を吐いた。
「……僕に殺せないなら、配下に殺させる。ついてこい」
「えっ」
どうやら、まだ死の運命からは逃れられていないらしい。
ナーシャはぽかんとしながらも、つい反射的にこくりと首を縦に振ってしまった。