4 人生の転機
わけもわからず縛り上げられ、ナーシャは馬で運ばれていた。
これがミラベルの指示なのだということはわかるが、なぜなのかは理解が及ばぬままだ。
(私、あの人とは初対面なのに。どうして……?)
存在自体が邪魔なのだと言われれば納得するしかないが、それにしたって突発的な行動すぎる。
それとも、兄ジェイロの指示なのだろうか。
ナーシャは血の繋がりのある家族が、そこまで自分を疎ましく、そして邪魔に思っていたのかと考えると泣きたくなった。
ようやくあの監禁生活から解放されるという気持ちがないわけでもなかったが、そう思ったのもほんのわずか。
行き先もわからず、真っ暗な道を馬で駆けるというのは恐怖でしかない。
(怖い……どこへ向かっているの?)
どれほどの時間が経っただろうか。
スピードが緩み、ナーシャは騎士に抱えられて地面に降り立つ。
(森?)
わかるのはそれだけ。騎士にぐいと引っ張られ、ナーシャは足を踏み出した。
「あ、の。ここは……?」
勇気を振り絞って声をかけるも、騎士は無言でただナーシャの腕を引っ張って歩くだけ。
ナーシャの不安はどんどん膨らんでいく。
裸足で森の中を進んでいるため足は痛いし、息も上がってきた。
だがそれ以上に「なにもわからない」という恐怖がナーシャを支配していく。
やっと騎士が立ち止まり、ナーシャを一本の木の前に座らせた。
へとへとだったナーシャはどさりと座り込む。だが、騎士が目の前で自分を木に縛り付けようとしていることに気づき、慌てて声を上げた。
「や、やめて……!」
遠くで獣の遠吠えが聞こえる。
もしここで縛り付けられたら、明日の朝にどうなっているかなどわかりきっている。
「お願い……」
「……っ」
疲れ果てていなくとも、小柄でやせ細ったナーシャに抵抗できるほどの力はない。
それでも生きていたいと足掻く様子に何か思ったのかもしれない、騎士の手は震えていた。
「でき、ない……俺には、こんな」
騎士は両手を地面につくと、絞り出すようにそう告げた。
それから意を決したように顔を上げると、ナーシャの手足の拘束も外してくれた。
「ここは、魔の森です」
「え……」
魔の森のことは、ナーシャも良く知っていた。
たくさん読んだ本の中に、魔の森や魔国について書かれた書物もいくつかあったのだ。
マモノは生まれながらに魔力を持ち、人間よりも優れた身体能力を持つ。中でも人型をしたマモノは魔族と呼ばれ、自在に魔法を使うことができるという。
しかし人間と違って神から嫌われているため、ギフトを授かることはできない。
人と同じような姿をしているのに人間とは違うというのが不思議で、ナーシャは何度もその本を読んだからよく覚えている。
魔の森とは人間の国と魔国の境界線。
魔の森に入ったものは全て魔王のものとされ、生きて戻った人間はいないということを。
ナーシャはガタガタと身体を震わせた。
騎士もまた震えており、顔は真っ青だ。
「っ、申し訳ありません。この程度のことしかして差し上げられなくて……せめて、逃げてください」
「あ、待っ……」
騎士はそれだけ言うと、勢いよく立ち上がり馬に乗って駆け出した。
「待って……置いていかないでっ」
掠れる声で叫んだナーシャの声は、無我夢中で馬を走らせる騎士の耳に届いたのかさえわからない。
あっという間に姿が見えなくなり、森にはナーシャだけが取り残された。
そもそも圧倒的に運動量の足りていないナーシャが自由になったところで、獣から逃げ延びられるはずもない。
見つかれば最後、あっという間に襲われてしまうだろう。
木々の葉擦れ、ひっきりなしに聞こえてくる獣の鳴き声。
恐怖からか、鳴き声はどんどん増えているような気もしてくる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
呼吸が次第に荒くなっていく。
(私は、ここで死んでしまうの? 誰にも知られることもなく……?)
そんなの嫌だとナーシャは思った。
部屋を抜け出さなければよかったと、後悔が押し寄せる。
全身が震え、カチカチと歯が鳴るのが止まらない。
いつかあの部屋を出たいとは思っていた。自由になりたいとも。
けれど、初めての自由がこんな結末だなんてあんまりだ。
——突如、獣たちの激しい鳴き声が響き渡る。
慌てたように空へと飛び立つ鳥や、逃げ惑う獣たち。
「な、に……?」
自分になど見向きもせずに去っていく鳥や獣に呆気に取られつつも、何か良くない事態が起きているということをナーシャは本能で感じ取る。
その正体は、すぐにわかった。
「……ぁ、ぅ」
獣たちが逃げて来た方向から、異様な存在感を放つ真っ黒な影が現れた。
黒い鱗、巨大な体躯。
神々しいとさえ感じる圧倒的な存在感。
「ドラ、ゴン……?」
本でしか見たことのない姿が目の前にある。
何人たりとも敵わぬ存在だということはすぐにわかった。
「ああ……終わり、なのね」
自分の人生はなんだったのだろう。
生まれてきた意味は。
運命を悟ったナーシャは、全身の力を抜いてすとんと手を下ろす。
「せめて、神様からいただいたギフトを一度でいいから使ってみたかったわ」
死に直面すると、一周回って笑えて来るのかもしれない。
ナーシャは、気づかぬうちに微笑んでいた。
ドラゴンの美しい橙色の瞳と目が合った気がした。
それはとても美しく、ナーシャは、人生の最期に見る景色としては悪くないと思えた。
諦めて目を閉じた時、突然ナーシャを中心にした大きな魔法陣が地面に現れる。
目の前にいるドラゴンも収まるほどの巨大な魔法陣は眩い光を放った。
「え」
真っ暗だった森が真昼以上に明るく照らされた。
ナーシャはドラゴンとともに光に呑み込まれ、同時に耳をつんざくようなドラゴンの咆哮が森中に響き渡った。