31 懐かしきあの部屋
ウェンデル公爵家に長女のナーシャが帰ってきた。
ジェイロが魔王城に送った奴隷たちにまるで守られるように囲まれ、ぼんやりとした様子で佇んでいる。
まちがいなく精神干渉の魔法がかけられているのだが、ナーシャが大事にされているのが見て取れてジェイロの機嫌は急降下していく。
見れば見るほどそんな妹の姿が気に入らず、ジェイロは思い切り舌打ちをした。
「ふん、帰ってきたか。ずいぶん身なりが整っている。これでは魔国に捕らわれていたと思ってもらえないな」
ジェイロはナーシャに歩み寄ると、乱暴にぐいっと顎を掴んで上を向かせる。
しかし魔法の効果のせいで悲鳴をあげるどころか表情一つ変わらない。
そうさせているのは間違いなく自分だというのに、痛がり苦しむ姿が見られずジェイロとしては不満が残る。
ただ、久しぶりに目の前で見たナーシャの顔が、見違えるほど整っていることに驚いた。
(最後にこいつを見たのはいつだったか。……面汚しでも公爵家の血筋。磨けば光るのは当然だな)
なんの反応も示さない美しいナーシャは、もはや人形のようだ。
ジェイロは掴んでいた顎を勢いよく離すと、地面に倒れこむナーシャを見もせずに使用人たちに指示を飛ばした。
「今すぐナーシャをボロ服に着替えさせろ。その後は軽く痛めつけてからあの部屋に放り込んでおけ。魔国で虐げられていたと一目でわかるようにな」
無感情な態度とは裏腹に、その瞳はぎらついている。
使用人たちは小刻みに震えながら、承知いたしましたと答えた。
一人、古くからウェンデル家に仕えている執事が頭を下げながら淡々と質問を口にする。
「奴隷たちはいかがいたしますか」
「ああ、ナーシャに精神干渉の魔法をかけ続けてもらわなければならないからな。アイツの部屋の近くに鎖で繋いでおけ」
「かしこまりました」
執事の返事を聞いたジェイロはナーシャを見下し、鼻で笑いながら告げる。
「運よく逃げただけでなく、魔王をテイムするなんて意外とやるじゃないか。忌々しいことに変わりはないが」
しかしその笑みもすぐに消え、ジェイロはゴミでも見るかのような目を向ける。
「一生に一度くらいは褒めてやってもいい。これからは我がウェンデル家のため、そして国のため、世界のためにしっかり働けよ。お前も役に立てて嬉しいだろう?」
返事のないナーシャを見て、数秒ほどの沈黙が流れる。
ジェイロは耐えきれないとばかりに口角を上げ、そのまま珍しく声を上げて笑った。
「くくっ、はははは! 洗脳されて自我もないか! 哀れなものだな!」
ひとしきり笑った後、再び無感情な態度に戻ったジェイロは使用人たちに連れていけ、とだけ言い残し、その場を去っていった。
あとに残された使用人たちの間には、重苦しい空気が漂っていた。
◇
半地下の部屋にある鉄格子からコウモリが入ってきた。コウモリは倒れるナーシャの周りをぐるぐる飛ぶと、淡く光ったあと天井にとまった。
ほどなくして、ナーシャがピクリと動き、ゆっくりと目を開ける。
イヴァンディアンの使いであるコウモリによって、精神干渉の魔法が解かれたのだ。
おそらく今頃、奴隷のメイドたちに仕込んでいたコウモリたちも、彼女たちが使い続けている魔法を妨害していることだろう。
ナーシャはゆっくりと上半身を起こすと、まだはっきりしない頭で周囲を見回した。
(私の、部屋だわ……)
ナーシャは今、自分があの忌々しい半地下の部屋にいることに気づき、少しずつ覚醒していく。
状況をしっかり思い出した後、この部屋を凪いだ心で見つめた。
懐かしさはあるが、驚くほどなにも感じない。
ここに運び込まれたら、多少はトラウマが蘇って心が苦しくなるかもしれないと覚悟をしていただけに、ある意味で良い誤算だった。
(うまくいった、のよね……?)
そんなことよりも、気になることがあるからかもしれない。
今のナーシャが気にしているのは、作戦がうまくいくかどうかだけ。
部屋の外に誰かがいるかもしれないため、声には出さず周囲を見回す。
ふと自分を見下ろすと、出発前に来ていたドレスではなく、ボロボロに着古されたサイズの合わない質素なワンピースを身にまとっている。
(着替えさせられたのね。隠れていたコウモリが見つからなくてよかったわ)
おそらくうまく逃げだした後、ナーシャのことを離れた場所で見守ってくれていたのだろう。
その後、あの窓から入り込み精神干渉の魔法を解いてくれたようだ。主人であるイヴァンディアン同様、優秀なコウモリである。
ふと見てみると、ナーシャの腕や足に殴られたような跡が残っており、場所によっては赤く腫れあがっていた。
そっと触れた顔にも違和感があったため、おそらく顔もひどい有様だろう。しかし、ナーシャはまったく辛くはなかった。
(すごいわ。アルテムの魔法でまったく痛くない。痛々しくは見えるけれど)
ジェイロは必ず暴力を振るう。そうアルテムに告げた時の彼の顔は本当に恐ろしいものだった。
当然、アルテムはナーシャに保護魔法を重ねがけしてくれたが、傷跡はつくようにと頼んだのだ。
(アルテムに辛いことをさせてしまったわ。また改めてお礼を言わないと)
今にも泣きそうな顔で嫌だと縋り付くアルテムを思い出すと胸が締め付けられる。
しかし、作戦成功のためにも必要なことだとなんとか理解してもらったのだ。
保護魔法をかけた上での傷であるため、治すのも一瞬で済む。
それでも一瞬たりともナーシャの体に傷をつけたくないのだと言われた時には胸がときめいたが、鋼の精神力で耐えた次第である。
痛みも感じないので、まるで傷跡の絵を描いたような不思議な感覚だ。
と、感心している場合ではない。
(きっとそのうち、王城へつれていかれるわ。私が本当に魔王をテイムしたのかを確認するはずだもの)
その時が、勝負だ──
(でも、この姿を見た時にアルテムがどんな反応を見せるのかが心配ね)
番だと宣言してからというもの、やりすぎというほどナーシャを大事に甘やかしてきたアルテム。
わかっていても激昂するだろうことは容易に想像ができた。
ナーシャを見た瞬間、王城が吹き飛ぶなんてことにならなければよいのだが。
(……絶対に大丈夫とは言えないところが不安だわ)
ナーシャはその時のことを思いクスッと笑う。
不安だというのに心が温まるという不思議な体験を、ナーシャはこの時はじめて経験したのだった。




