30 ナーシャの譲れない覚悟
ナーシャは、あえて自分が罠にかかったままのほうが相手の目的がわかるのではないかと提案した。
調べたところによると、夢魔によってナーシャがかけられた精神干渉の魔法は心身を傷つけるようなものではないことがわかったからだ。
当然アルテムは最後まで嫌がったが、ナーシャの主人としての宣言により仕方なく作戦が決行される運びとなった。
アルテムと四天王がずっとナーシャを陰から見守るという、過剰にも思える対策をした上で、である。
結果として作戦はうまくいき、ジェイロがナーシャを連れ戻そうとしていることが明らかになったわけだが、アルテムが許容できるのはここまで。
いまだにナーシャをウェンデル家へ向かわせることには断固として反対だった。
とはいえ、頑固者なナーシャがここで引き下がるわけもない。
「このまま操られたフリをして公爵邸へ戻ります。私の戦う機会を奪わない約束でしょう?」
「約束はしておらぬ! ナーシャが主人として命令したから断れなかっただけではないか! 絶対に! これ以上は! 許せぬ!」
アルテムはグイッとナーシャを引き寄せると、そのまま強く抱きしめた。
「そなたが辛い目に遭うのを、僕は絶対に許容できぬ……!」
「アルテム……」
アルテムの腕の中で、ナーシャは彼の胸に頭を寄りかからせて目を閉じた後、小さくクスッと笑う。
「どうした?」
「いえ……ここへ来る前の私だったら、怖くてこんなこと言い出せなかったなって思って」
ウェンデル家の半地下の部屋で過ごしていた時は、ただ寂しくて、いつか抜け出せることを夢見ているだけだった。
ミラベルに見つかった時は怖くて仕方なかったし、あの時に会っていたのが実の家族であるジェイロや父だったら、縋りついていた可能性もある。
(でもきっと、自分の気持ちを一つも言えなかったわ)
魔王城へ来て、家族の真意に気づいた後もずっと怖かった。
二度と関わりたくないと思ったし、逃げ続けたいと考えた。守られるまま、ナーシャはこの温かな場所で平和に過ごしたいと願ってもいたのだ。
「私は、自分の中でちゃんとけじめをつけたいのです。誰かに助けてもらうだけでは、きっとこの心は晴れない。本当の意味で平和は訪れない。そんな気がするの」
そして今、アルテムとの関係が少しずつ変化したことで、ナーシャの心はまたしても変わった。
「不思議なことに私、なんにも怖くないんです。きっとアルテムが助けてくれるって、そう思えるから」
「ナーシャ……当然だ! 何があったって助けるぞ!」
「ふふ、心強いです。だから、大丈夫」
ナーシャはそっと魔王の顔に手を添えると、そのまま彼の頬にキスをした。
「っ!?」
「信じています。どうか私を助けてください、アルテム」
アルテムが近くにいるなら、絶対に大丈夫だと信じられる。
無力なナーシャにできることはほとんどないかもしれないが、彼が近くにいると思うだけできっと自分の願いを叶えられる。
生まれて初めて、愛されていると感じているから。
(ああ、私。私もアルテムのことが好きなんだわ。全てを解決して、ちゃんと彼の愛を受け止めたい)
その時、彼のテイムを解除したい。
対等な関係で愛し愛されたいのだ。
もしかすると、テイムを解除した瞬間にアルテムの気持ちが離れるかもしれない。そんなことはないと彼は言うが、少なからず影響があってもおかしくないのだから。
(彼の気持ちが離れてしまうのは怖い。この関係がなくなるのも、居場所を失うのも)
けれど家の問題が解決したら、それだけでナーシャは一歩を踏み出せる。自分の人生を歩める。
「それが、ナーシャの願いなのか」
「はい。足手纏いになるのはわかっています。それでも行かせてください」
アルテムの腕の中でまっすぐ彼の目を見上げながらナーシャは言う。
しばらくの間アルテムが苦悶の表情を浮かべながら唸っていたが、最終的に諦めたようにため息を吐いた。
「……わかった。ならば今夜、全てにケリをつけられるよう動く。僕たちにも、ヤツらを許せぬ別の理由があるからな。場合によっては国を滅ぼすことになる」
国を滅ぼすとまで言われてナーシャは息を呑んだが、続けて説明してもらった魔族を奴隷にされている件を聞いて表情を曇らせた。
「この者たちはナーシャを公爵家まで連れて行くところで仕事を終えるだろう。骸骨騎士に離れてもらい、代わりにイヴァンディアンのコウモリをつける。隠れてついていくのにちょうどよいからな」
もちろん、ナーシャにもコウモリをつけ、その上でアルテムがこれでもかというほど保護魔法を重ね掛けした。
「本来ならばこの者たちを今すぐ解放し、魔王城で保護すべきなのだがな。証拠を掴むためにも今しばらくこのまま操られてもらう」
「魔王様のためですから彼女たちも望むところでしょうぞ」
人間の感覚としては、まるで囮のように扱われる新人メイドたちがかわいそうにも思えるのだが、魔族の感覚としてはそうではないらしい。
もちろん全てが解決した後、彼女たちにはきちんと褒美を与えるとのこと。ナーシャは彼らの感覚に共感はできずとも、理解しようと考えた。
「我々の目的は全ての魔族の奴隷の解放と、それによる賠償の支払い。そしてナーシャ、其方を魔国へと正式にもらい受けることだ」
そのどれか一つでも叶わないならば、問答無用で実力行使すると言い放ったアルテムは、まさしく魔王の名にふさわしい獰猛な笑みを浮かべていた。




