29 公爵家の思惑
その夜、アルテムの寝室ではナーシャだけが眠っていた。
規則正しい寝息が室内に響き、呼吸に合わせて布団が小さく上下している。
それが急に止まり、もぞもぞと動いたかと思うと、ナーシャはゆっくりと上体を起こす。
その目に光は宿っておらず、まだ夢でも見ているかのようにぼんやりしていた。
その状態でナーシャは一人ベッドを下り、裸足のまま室内を歩く。
ドアを開け、廊下に。廊下を渡り、玄関ホールへ。
ふらり、ふらりとおぼつかない足取りで、ナーシャはまっすぐ城の外へと向かっていた。
裸足のまま外に出て門扉の前までやってきたナーシャは、馬を連れた三人の新人メイドと手錠で繋がれた骸骨騎士に出会った。
『どこに向かうのか、教えてもらおうか』
骸骨騎士から、低く不気味な声が響く。
その声にピタリと動きを止めたナーシャは少し掠れた声で答えた。
「……人間の、国。ウェンデル、公爵邸へ」
『誰の指示だ?』
「……ウェンデル、小公爵様、です」
『公爵邸に行って何をする?』
「……わかり、ません」
おそらく、メイドたちの仕事はナーシャを連れて行くことのみ。聞き出せる情報はここまでのようだった。
「ナーシャ!」
その瞬間、上空から魔王がナーシャの下へと降り立ち、軽く手を振って魔法をかけた。
ぼんやりしていたナーシャの目に光が戻り、ハッとなって魔王を見上げる。
「あ、アルテム?」
「気分はどうだ? ああ、裸足でここまで歩いて……怪我はしていないか? うっ、切り傷がついているではないか!」
「お、落ち着いてください、アルテム。あの、作戦は成功したんですか?」
ナーシャの全身を魔法で確認しながら慌てるアルテムは、彼女の言葉を聞いてなんとも言えない苦い顔を浮かべる。そのままギュッとナーシャを抱きしめた。
これは全て作戦だった。考えたのは他ならぬナーシャだ。
「っ、ああ。ナーシャのおかげでな。だがその先は……」
「いいえ、やります。やらなければいけないんです、アルテム。何度もお話したでしょう?」
「そう、だが。やはり心配でならぬ! ナーシャを一人向かわせるなど!」
話は、今日の陽が落ちる前に遡る。
◇
「ナーシャ。今日、外の散歩から戻った際に新人メイドを見かけなかったか」
「あ、見かけました。すぐに城内に入ったのでチラッとだけですが」
「ふむ。その際、何か変なことはなかったか」
「変なこと……」
あれ以降、定期的にぼんやりしてはその自覚のないナーシャに、魔王はある確信を抱いていた。
「そういえば、一瞬だけそのメイドさんたちと目が合いました。ちょっとだけ、その。怖いなって。あの! 本当にちょっとだけですよ!」
「くっ、やはりか」
嫌な予感は当たっていたようだ。最新の注意を払っていたというのに、ほんの一瞬でナーシャに魔法がかけられていたようだ。
魔王はその場にいたハピレアピーチェを睨むと、彼女はビクッと肩を震わせ勢いよく腰を折り頭を下げた。
「あ、あたしたちの失態です! 罰は受けますぅ~!」
「え? え?」
「でもオルグも一緒にしてくださいぃ~!」
「ええっ?」
わけのわからないナーシャは戸惑うばかりだ。
ピリピリとした状態の魔王に、半泣きのハピレアピーチェ。
不穏な空気を感じ取ったナーシャは、その場で魔王を問い詰めた。
「なるほど……つまり、あの新人メイドさんたちはお兄様たちの手によって送り込まれた、ということですね? 目的は、私」
「そ、そうだ。ぐぬ、主人としての命令を下すなど、ずるいぞ! 話す気などなかったというのに!」
「そうでもしなければ何も教えてくれないでしょう。もしこれが事後報告だったらアルテムとは口をきかないところでした」
「うぐぅ……」
主人の命令でなくとも、こう言われてしまえばアルテムは何も言い返すことなどできない。
ナーシャはそんな魔王の姿を見て一度頷くと、再び口を開いた。
「まず、メイドさんたちは被害者ですよね。彼女たちを罰しますか?」
「……いや。だが、ハピレアピーチェとオルグバルモスはナーシャを守り切れなかった」
「それだってただの事故のようなものです。二人はちゃんと守ろうと動いていましたよ? それに……私はその魔法にかかったおかげでこうして事情を知ることができましたし」
「む……」
「あの二人のことも叱らないでください。全てはメイドさんたちを奴隷のように扱い、こちらに仕向けた兄たちが悪いのです」
ハピレアピーチェの涙目がナーシャに向かっている。アルテムはむむむと一つ唸ると、諦めたようにため息をついてわかったと告げた。
ナーシャはその返事を聞いてにこりと微笑むと、続けてとんでもないことを口にする。
「アルテム。私……一度公爵家に行こうと思います」
「なっ!? そんなことをしたら酷い目に遭わされるであろう! わかっているのに大切なナーシャを向かわせるわけがない!」
当然の反応だったが、ナーシャは努めて冷静に話を続けた。
「いいえ。このまま、ただ火の粉を振り払い続けるだけでは人間と魔族の戦争になりかねません。わかりますよね? 私が魔王城にいると、あちらには攻撃をしかける口実ができてしまうんです。事実など、捻じ曲げてまで」
公爵家を離れ、家族への想いを断ち切った今ならわかる。
冷静になってみれば、彼らがナーシャを利用してどんな行動をとるか、容易に想像できてしまうのだ。
「あの家の人たちは……許せません。でも、私は人間のみんなが憎いわけじゃない。なんの関係もない人たちが傷つくのは嫌なんです。それは魔族だって同じですよ?」
自分が火種となって戦争が起きてしまえば、それこそナーシャは一生後悔するだろう。
あのまま、半地下の部屋で一生を終えたほうがよかったと。
自分が外に出たせいで、何人もの人々が犠牲になるなんて耐えられない。
ナーシャは魔王の手を両手でギュッと握り、真剣な眼差しで思いを伝えた。
「いつかは解決しなきゃいけないのです。それまで狙われ続けて、犠牲が増えて……私はただ隠れて、守られているだけなのは嫌。ちゃんと自分でも決着をつけたいの。じゃないと、一生後悔する!」
こうと決めたら譲らない。
そんなナーシャの頑固な一面を知る魔王は、彼女の手を握り返して俯きながら、低く長いうめき声を上げた。




