2 ささやかな気分転換
狭く薄暗い半地下の部屋から、かろうじて月明かりが照らす鬱蒼とした裏庭へ。
吹く風が頬を撫でる感覚や草の香り、何より開放感がナーシャの心を癒してくれた。
「やっぱり外はいいわね! 閉じこもっていたら運動不足になっちゃう」
実をいうと、二年ほど前からナーシャは時々こうして脱走を繰り返している。
といっても、逃げる気はない。そもそも公爵家には使用人がたくさんいる上、正門も裏門も常に警備されているのだから。
有用なギフトもなければ、木や壁に登れるような身体能力もナーシャにはない。
見つかれば今度こそ命がないかもしれないと思うと、そんな危険な橋は渡れなかった。
(第一、逃げたところでどうやって生きていけばいいのかわからないもの)
ナーシャに与えられた本の中に、市井での生活についての本は一冊もなかったし、身元のわからない十七歳の娘を誰が引き取ってくれるというのか。野垂れ死ぬのがオチだ。
「勇気と無謀は別物よ」
現状を変えたいのなら、逃げるのも手だとわかっている。だが、なにより怖いのだ。
十二年前に神殿に行った時の記憶もおぼろげにしか覚えていないナーシャにとって、外の世界は恐ろしいものだった。
「まずは、明るい時間に外に出るのが目標かしらね」
誰かに見つかるのを恐れて、外に出るようになって二年経つ今もまだ真夜中にしか抜け出していない。
「臆病者じゃないわ。慎重なだけ」
自分で自分を肯定的に捉えながら空を見上げると、満天の星空が広がっている。半分欠けた月も美しく輝いていた。
(美しい青空も眩しい太陽も……うん、まだ覚えてる)
目を閉じて、幼い頃に見た景色を思い出す。
同時に浮かんでくるのは幸せだった日々の記憶。
少々おてんばなナーシャは、外を駆け回るのが大好きな子どもだった。
いつも追いかけて来るメイドたちを困らせていたが、誰も本気で怒るようなことはなく、笑顔で溢れていた。
父は厳しかったが、勉強がうまくいった日は嬉しそうに微笑みかけてくれた。
兄は昔から笑わない人だったが、転べば手を差し伸べてくれる優しいところもあった。
母は二歳の頃に亡くなったが、乳母やメイドがたくさんの温かさを教えてくれたのでさみしくはなかった。
五歳の誕生日に開いてもらった豪華なパーティー。
あの日はナーシャの大好きなレモンケーキをいくら食べても怒られなかった。
部屋に入りきらないほどのプレゼント、かわいいドレスやきらめくアクセサリーの数々。
けれど一番嬉しかったのは、家族や使用人のみんなが自分の誕生日をお祝いしてくれたことだ。
みんなが笑ってくれている当たり前の光景が、何より幸せだった。
『二度とその顔を見せるな』
突然、兄の凍り付くような鋭い視線と言葉を思い出し、瞬時に幸せな記憶が消え去る。
ハッとなったナーシャはぎゅっと胸の前で手を握りしめ、荒くなっていく呼吸をどうにかして整えた。
(……忘れたくない)
ナーシャには、怖いものが多すぎる。
家族から見捨てられたのだとわかっていても、幸せな思い出が日に日に薄れていくのが一番怖かった。
自分の中にある貴重な「幸せ」を手放したら、自分を保てなくなる気がするのだ。
「っ、気分転換に外に出たというのに、こんなんじゃダメね」
ゆっくり息を吸い込み、長く細く吐いていく。
それを繰り返してようやく少し落ち着いた頃、ナーシャはお気に入りの大きな木の下に腰を下ろした。
雑草が好き勝手に生えているおかげで、地面に座ってもふかふかだし服もあまり汚れない。
木の幹に寄りかかって大きくため息を吐くと、ナーシャは楽しいことを考えようと気持ちを切り替えた。
「絶望に呑み込まれたりなんかしないわ」
何度も自分を奮い立たせる。
しかしそれが十二年以上も続くと、心が折れそうになる頻度も増えていく。
ギリギリのところで耐えているというのが現状で、何かちょっとしたきっかけがあれば脆く崩れ落ちるかもしれなかった。
「……そろそろ戻ろうかな」
いつもなら空が明るくなる直前まで外にいるのだが、今日は調子が悪い。
部屋に戻って眠ろうかと立ち上がった、その時だった。
「……っ! ……わね!」
誰かの声が近づいてくる。声は女性のようだが足音は一人ではない。
ナーシャは慌てて木の陰に隠れようとしたが一歩遅く、足音の内の一人に見つかってしまった。
「何者だ!?」
「なによ、急に」
おそらく公爵家の騎士なのだろう。素人が咄嗟に隠れただけでは誤魔化しきれなかったようだ。
心臓が早鐘を打ち、ナーシャの全身が震える。
そうこうしている内に、騎士の一人にぐいっと腕を掴まれたナーシャは、成す術もなく広い場所へと引きずり出された。
あまりの力強さに振り回される形となったナーシャは、勢いのままに地面に倒れ伏す。
「少女……? なぜ、こんなところに」
「こんなに夜遅くに……貴様、何をしている!?」
騎士が持っていた照明の魔道具によって、怯えたように震えるナーシャの顔がはっきりと照らされた。
薄着ながら質の良い室内着にガウンを羽織った美しい女性が、訝しげにナーシャを見下ろしている。
二人いる騎士のうち一人はナーシャに剣を突きつけ、もう一人は女性を守るように立っていた。
(この人は、もしかして)
ナーシャは一度も会ったことがないが、この女性に心当たりはあった。
数年前、兄のジェイロは第三王女と結婚したと聞いたことがあるからだ。
(お兄様と結婚したという、ミラベル様……? なんて綺麗な人)
薄暗い中でもわかる輝く金髪を揺らした女性ミラベルは、その美しい顔を歪めながら燃えるような赤い目でナーシャを睨みつけている。
「あなた……ナーシャね? 公爵家の面汚しの」
見惚れる間もなく告げられたその一言に、ナーシャは冷や水を浴びせられたような気持ちになった。