15 自覚すれば簡単なこと
暫し呆然と見つめ合っていたが、ナーシャによる渾身の平手打ちで二人とも我に返った。
(なに? なんで!? 今……アルテムにキスされた!?)
顔が、いや全身が熱い。
魔王の頬を思い切り叩いた手はじんじんと痛み、それでいて彼には一切のダメージが入っていないことがわかる手応えのなさだった。
ナーシャはこれ以上その場にいられず、パニックのまま再び逃げ出した。
今度は魔王も追ってこない様子で、心から安堵する。
(どうしてアルテムのほうが驚いたような顔をしていたのよ!?)
釈然としないのはそこだ。驚いたのはこっちのほうだというのに。
勢いのまま自室に戻るとメイドたちが驚いたような顔でナーシャを見てきた。
「……ごめんなさい。少しだけ一人にしてもらえますか?」
「は、はい。あの、何かございましたか?」
「な、なんでもないですっ」
メイドたちは心配そうにしていたが、顔を真っ赤にしながら俯くナーシャを見てすぐに何かピンときた様子。
察しの良いメイドたちは皆ニマニマしながらそそくさと退室していった。
「何か変な誤解をされた気がするわ……今回に限ってはあまり誤解ではないけれど」
部屋で一人になったナーシャはベッドに近づくとぼふっと倒れ込む。
ごろんと横になって、そっと唇に触れた。
「私のことが、嫌いなんじゃないの……?」
まだ感触が残っている。心臓がドキドキとうるさいのは、初めてのキスだったことと、それをあんな形で奪われたことに対する怒りだ。
そうに違いないというのに。
「嫌じゃ、なかった……」
その事実が自分で信じられず、ナーシャはその後しばらくベッドの上で転がりながら呻き続けることとなった。
◇
ナーシャが部屋に戻った頃、廊下に取り残された魔王はまだ呆然としていた。
なぜあんなことをしてしまったのか、自分でもわからないのだ。
(うるさいと思った。拒絶されて苛立って、口を塞ごうと……)
そこまで考えて、魔王の顔に熱が集まる。自覚するまでかなりの時間がかかった。
片手で口元を覆い、自身の大きく脈打つ心臓の音だけが耳に入ってくる。
どれほどの時間そうしていただろうか。
魔王はようやく手を下ろしながら長い息を吐くと、諦めたように呟いた。
「ああ。この感情は、テイムのせいではない。絶対に」
認めてしまえばなんてことはない。
魔王にはもう確信しかなかった。
最初は無理矢理従わされているのだと思っていた。
実際そうだったが、心までは支配されないはずなのに彼女のことがずっと気になるのはなぜか。
ナーシャの感情を感じるようになって毎日振り回されていたが、彼女が不安だと自分も不安になり、彼女が嬉しいと自分も嬉しくなる。
本当に鬱陶しいと思っていたのなら、ナーシャが幸せそうにしているだけでも許せなかったはずなのだ。
なにせ、彼女は勝手に魔王たる自分をテイムしたのだから。
(最初は殺してやるとまで思っていたというのに……どうせできやしなかったのだな)
魔王はまんまとナーシャに絆されていた自分に気づき、フッと笑った。
「配下どもが騒ぎ立てるのを聞いて、絶対に違うと頑なに否定していたが、間違いない。あの娘は僕の……番だ」
ある意味、テイムされてよかったのかもしれない。
そうでなければあの夜、衝動にまかせて番と気づくこともなくナーシャを殺していただろう。
そして、二度と番と出会うことなく一生を終えるところだった。
番とは出会えばすぐにわかるものだと思っていたが、時間をかけて気づくこともあると聞く。魔王はまさしくそのタイプだったわけだ。
「主従ではなく、番となりたいが……」
暫し黙り込んだ魔王は、今後のナーシャに対する態度を改めようと決意した。
すでに不意打ちでキスをした上、平手打ちをされてしまった後なのだが、番を見つけた以上は諦めるわけにはいかない。
魔族にとって、番は生涯でただ一人の運命の相手なのだから。
迷いが消え、吹っ切れたことで清々しい気持ちになっていた魔王だったが、慌ただしく飛んできたイヴァンディアンによって場の空気が一変する。
「主君、大変です!」
「珍しいな、城の中を飛び回るとは」
いつも余裕の笑みを浮かべる冷静なイヴァンディアンが飛んで移動したということは、よほどの非常事態とみえる。
魔王が穏やかに声をかけると少し落ち着きを取り戻したのか、イヴァンディアンは床に足をつけて胸に手を当て呼吸を整えた。
「……取り乱しました。緊急事態です。森が燃えています」
「何?」
「正確には森の入り口で、原因は……放火です」
森への放火は重罪だ。それは魔国だけでなく人間の国でも同じだったはず。
それでも火を放つということはよほどの理由があるということだ。
そんな行為をする者には、心当たりがあった。
「……ウェンデル家の者か」
「ええ。小大公のギフトによるものだと思われます」
「黒龍をテイムした妹が惜しくなったか。……っく、ははははは!!」
魔王が声を上げて笑うと、魔力の放出によって周囲に竜巻が起こる。魔王の怒りに空気もビリビリと震えていた。
魔王はよく怒りを露わにするが、今回の怒りはこれまでの比ではない。
「なんと欲深き愚かな人間よ。自ら捨てたというのに今さら取り戻そうというのか! 実に醜い。そう思うだろう?」
「まったくです。いかがいたしましょうか」
イヴァンディアンには、答えがわかっていた。けれどあえていつもの笑みを浮かべながら魔王に問う。
これは側近である彼なりの忠誠の示し方でもあった。
「排除しに向かう。血縁だろうがあの娘には指一本触れさせぬ」
「御意」
魔王の番に手を出すことの恐ろしさを、思い知らせてやりたかった。
イヴァンディアンは怒りのオーラによって全身が震えあがった。
だが魔族としての本能からだろうか、主君の力を目の当たりにできる喜びのほうが大きく、高揚を抑えきれずにぃと口角を上げた。




