14 初めての口論
ナーシャは、涙が出そうになるのを堪えながら廊下を走った。
なぜこんなにも泣きたくなるのか、原因は主に二つだ。
(助けてくれたのに、殺されてしまうなんて……私のせいで)
一つは見逃してくれた騎士のこと。
騎士が主人の命に背くことの重大さを考えれば、あの騎士は言われた通りナーシャを木に縛りつけるべきだったし、魔の森で見つけたことを報告するべきだったのだ。
それなのにしなかった。己の心に従って、ナーシャを助けてくれた。
そのことが原因で命を落としてしまったことに、ナーシャは責任を感じずにはいられない。
同時に、容赦のない残酷な処罰を簡単に下すウェンデル家の人たちが心底恐ろしいと感じる。
血の繋がった家族だというのに、ナーシャにはとても理解できなかった。
それからもう一つ。
(やっぱりアルテムは……私のことを許せないんだわ)
本当はすぐにでもテイムを解除できるというのにそうしない卑怯な自分。
それはとても残酷な仕打ちで、ナーシャもウェンデル家の人間なのだと思い知らされるようだった。
心のどこかで、魔王も少しは今の状況を受け入れてくれるんじゃないかと思っていた自分が浅ましく思える。
父や兄、義姉のことを酷いだなどと言える立場ではないと感じるのだ。
(マモノをテイムできたら、たった一人の味方になってもらえるって思ってた。大事な友達になってもらえるって。でも……そんなの、私の身勝手な願望だったんだわ)
結局ナーシャも自分がかわいいのだ。最初は命惜しさに黙っていたが、今はただこの心地よい場所から追い出されたくなくて、保身のために黙っているのだから。
魔王の気持ちを、すべて無視して。
(強制的にテイムされて、良い感情を持ってくれるわけないのに)
良く思ってもらおうだなんて虫の良すぎる話だ。
このまま実家に戻って監禁生活に戻るか、家族の手によって殺されるか。
それがナーシャの、逃れられぬ運命というやつなのかもしれない。
「私、なにを期待していたのかしら。酷いことをしているのは、私なのに」
「ほぅ、なにを期待していたのだ?」
「っ!?!?」
走っていた足を止め、ぽつりと呟いた瞬間、独り言に返事をする存在に気づいてナーシャは慌てて振り返った。
背後には魔王が腕を組んで仁王立ちしており、片眉を上げて怪訝な顔を浮かべている。
ナーシャは反射的に再び走り出した。
「お、おいっ、なぜ逃げる!?」
「そちらこそ、なぜ追ってくるんですか! 私なんて目障りなんでしょう!?」
「それは……っ! わからない。だが、放っておくことができぬのだ!」
全速力なナーシャに対し、魔王は早歩きで追ってくる。
手を伸ばせば簡単に自分を捕まえられるだろうにそうはせず、ただ反論だけしながら追ってくる魔王に苛立ち、ナーシャも負けじと言い返した。
「意味がわかんない! 私が憎いなら、目に入らない場所に放置すればいいじゃないですか! 親切にする必要だってないわ!」
「む、お前が不安を感じるからだろう。お前が悪い!」
「ええ、ぜーんぶ私が悪いですよ! だから悪者にはついてこないでください!」
「なぜそんなに投げやりなのだ? ならぬ! 僕の心までモヤモヤするではないか! なにか言いたいことがあるのなら言えばよいだろう!」
「言えませんよ!」
「なぜだ!?」
自分に怒る資格などないとわかっている。
しかし言い始めてしまったらもう止まらなくなってしまった。走りっぱなしで息も絶え絶えだ。
一方で魔王はどこまでも余裕で、ナーシャは一人慌ててドタバタしている自分に無力感を覚えた。
「お前は……不本意ながら僕の主人なのだぞ。僕はお前の不安を取りのぞく必要がある」
静かな声で告げる魔王の言葉。その裏にはどんな本音が隠されているのだろうか。
(面倒? 鬱陶しい? 苛立っているのはわかるから、嫌悪感かな。はは……私、ものすごく嫌われているわよね)
家族からも疎まれている自分に、他の人から好かれる要素などない。
ナーシャはようやく立ち止まると、振り向くことなく淡々と告げた。
「本当だったら、そんなこと気にする必要なんてないのですよ。私が貴方をテイムしているからでしょう? 貴方の意思なんて関係なく、そう感じさせられているだけ」
「それは、そうだが」
肯定の言葉がナーシャの胸に突き刺さる。
わかっていたのに、勝手に全世界から見放された気分になった。
「私がいいと言っているのです。だから放っておいてください」
「できぬ」
「なぜですか。頑固な人ですね? ……それなら命令です。私のことは放っておい──」
命令されては、従うしかなくなる。
だからこそ、これまでナーシャは魔王に命令をしないよう気をつけてきた。
だが今だけは、側にいたくなかった。
醜い感情を彼にぶつけてしまうのが嫌だったからだ。
しかし。
「っ!?」
何が起きたのかわからなかった。
振り返って命令しようとしたら急に腕を引かれ、気づけば口を塞がれていたのだ。
彼の、唇で。
唇に感じる熱さ、目の前にある魔王の顔と、彼の香り。
そして間近で感じる彼の吐息。
一瞬だったかもしれないし、長い時間だったかもしれない。
強く掴まれた腕が少し痛んだが、ゆっくり離されるのと同時に肩の力が抜ける。
目の前にある魔王の橙色の瞳から片時も目が離せなかったが、それは彼も同じようだった。
「……ぇ?」
喉の奥から小さく漏れ出た声は、おそらく魔王のもの。
疑問の声を上げたいのはこちらのほうだった。
ナーシャは今、魔王にキスされたのだ。




