9. 浴血
エンジンの音が次第に大きくなり、小型旅客機が遠くから飛んできて、ゆっくりと降下し、空港に滑らかに着陸した。
この空港は広大で壮大だったが、人影はまばらで、滑走路には武一郎、彼の盛装した妻・英代、そして白髪の老執事の3人だけが待っていた。
飛行機が停止し、すぐにハッチが開き、地上に梯子が下ろされ、中の人が降りられるようになった。
20代の若く美しい女性が現れ、後ろの客室乗務員が重い荷物を運んだ。
武一郎は彼女を見つけ、梯子を降りきる前に駆け寄り、彼女が降りるとすぐに強く抱きしめた。
「パパ、久しぶり!」と女性が興奮して言った。
「そうだな、華奈江、ずいぶん大人になったな。出発した時はまだ子供だったのに」と武一郎。
「そんな大げさな!私が去った時はもう20歳近かったよ!パパの方がずいぶん老けたね、白髪とシワが一気に出てきた」と華奈江。
「パパはこの数年忙しかったんだ。お前みたいにアメリカで楽な生活はできないよ」
「何!私、ちゃんと勉強してたよ!」
「はいはい、あなたたち親子は喧嘩しないで。そろそろ昼食の時間よ。華奈江を家に連れて帰って和食を食べましょう。アメリカじゃずっと食べてなかったでしょ?」と英代。
「ほんとだ!ママが作るの?」と華奈江は目を輝かせて英代を見た。
「いいわよ、でもしばらく料理してないから、まずかったら文句言わないでね」
「やった!」
運転手が高級な黒いセダンで4人を乗せ、首相官邸よりもずっと広い敷地の豪華な別荘に到着した。そこにはプライベートプールもあった。
英代がキッチンから熱々のオムライス、豚の生姜焼き、照り焼きナス、焼き鳥を運んできて、華奈江は目を輝かせ、イメージを気にせずがっついて食べ始めた。武一郎と英代は彼女を見て満足げに微笑んだ。
「お前、この子、ちっとも変わらないな」と武一郎。
3分も経たず、華奈江は料理を平らげ、満足して椅子の背にもたれ、腹を押さえた。
「ママ、ありがとう、最高!」
「誰がお前をアメリカに留学させたんだよ」と武一郎が嫉妬気味に言った。
華奈江は武一郎の頬に軽くキスし、「パパも最高よ。首相再選おめでとう」と言う。
「それでいい。パパはこれからも頑張るよ。お前たちと、日本の民衆のために」と武一郎は英代と華奈江の肩を抱いて言った。
「さて、そろそろ仕事だ。長時間のフライトで疲れただろ、ゆっくり休めよ」
「分かった」
英代が武一郎のネクタイを整えると、胸の十字架のネックレスが表に出た。それを華奈江が見つけた。
「パパ、まだこんなの胸に付けてるの?まだ信仰してる?」と華奈江。
「いや、ただ昔を懐かしむために付けてるだけだ。あの時期は俺にとって大事だった」と武一郎は十字架を手に持って言った。華奈江は首をかしげた。
「じゃ、俺は出る。今夜は官邸に泊まるから、お前たち母娘で美味しい夕食を食べな。明日戻る」
「道中気をつけて」と英代と華奈江は玄関で武一郎を見送った。
武一郎はセダンに乗り、前後に同じ型のセダン4台が続き、外の英代と華奈江はまだ手を振っていた。特に華奈江の活発で可愛い姿に、武一郎は思わず微笑んだ。
「行け」と武一郎は運転手に言った。
「はい、総理大臣閣下」
車が出発し、武一郎はスマホを開いた。壁紙は華奈江が6歳の頃、武一郎と英代と公園で遊ぶ写真だった。その頃の華奈江は今とあまり変わらず、愛らしい姿だった。
「この子、ちっとも変わらないな」と武一郎は壁紙を見て満足げに微笑んだ。
官邸まで約2キロの地点で、運転手が電話を受けた。彼は信号で停まり、イヤホンを押して応答した。
「こちら坂谷保生、なにか?」
電話の相手が話すと、保生は呆然とした。彼は再びイヤホンを押して電話を切り、運転する手が震えた。
「何があった?」と武一郎。
「総理大臣閣下、このまま進むのは難しいかと」
「なぜだ?もうすぐ着くじゃないか」
「永田町の外に大勢のデモ隊が集まり、選挙不正反対の行進だそうです。野党指導者の野島郁美が群衆を率いて永田町を埋め尽くし、演説して閣下に要求を突きつける準備をしています。今行くのは危険かと」
保生が話すほど顔が青ざめ、武一郎の表情が険しくなるのを感じた。
「迂回して、ヘリで官邸に入れ。とにかく官邸に着け」と武一郎は異常に冷静に言った。
「ですが、総理大臣閣下、今行くのは危険すぎる…」
「これは命令だ!どんな手段でも官邸に入れ!こんな大事になぜ誰も知らせなかった!高官や情報機関はどこに死にやがった!」と武一郎は激昂して叫んだ。
「はい、総理大臣閣下」
保生はしぶしぶ車隊にUターンするよう指示し、車隊は人のいない空き地に着き、皆で下車して対策を協議した。
「ヘリを呼んで、総理大臣閣下を官邸に運べ」と誰かが提案。
「いや、それだと目立ちすぎる。デモ隊の過激な反応を招く。永田町を迂回して車で官邸に入るべきだ」
「最新情報では、官邸の外はデモ隊に完全に包囲され、入れるはずがない」
皆が焦り、解決策が出なかった。
「俺に案がある」と武一郎が言い、皆が彼を見た。
「いつも俺や高官のために影武者を用意してるよな?今、変装道具はあるか?」
部下たちが公文包を調べ、白ひげ、長髪、白髪などを見つけた。
「報告、総理大臣閣下、道具はあります」
「よし、俺を変装させて群衆に紛れて官邸に入る」
「ですが、総理大臣閣下、官邸は群衆に囲まれ、突然誰かが入れば目立つ」
「心配ない。近くに特別な通路があって、官邸に入れる。見つからない」
部下たちは顔を見合わせ、そんな通路を知らなかった。
「行くぞ。2人で俺に同行すればいい。他は本部で待機」
そう言うと、保生ともう一人の部下が武一郎と普通の白いトヨタ車に乗り、他の黒いセダンは部下たちが運転して去った。
デモ現場では、通りが群衆で埋め尽くされていた。デモ隊は首相官邸と近くの衆議院第一議員会館を包囲していた。そこは本来国会議員が会議する場所だったが、復興党が政権を取って以来、衆議院の議席は全て復興党が独占。与野党の協議の場は、全議案が満場一致で通る「民主の看板」に変わっていた。
3人は群衆の後方で車を降り、武一郎は黒い丸帽と丸メガネ、灌木のような白ひげをつけた盲目の老人に変装し、杖をついてよろめき歩いた。保生もスーツを脱ぎ、武一郎の息子を装って支えた。二人のオスカー級の演技でデモ隊は全く気づかず、2人はデモ隊に囲まれていない内閣府に成功裏に入った。
内閣府に入ると、武一郎は杖を捨てて普通に歩いたが、受付の女性アシスタントが驚いて見つめ、普段の顔なじみがいなかった。
「実川や寺野はどこだ?」と武一郎が急いで尋ねた。
声を聞いて、アシスタントは老人が武一郎だと気づき、すぐに直立した。
「実川大臣閣下と寺野大臣閣下は首相官邸で閣下をお待ちし、緊急会議を開く準備をしています」とアシスタント。
「勝手な連中め」と武一郎は怒って進んだ。
事務所に入り、武一郎はひげ、帽子、かつらを外し、しゃがんでパスコードを入力し、机の下の金庫を開け、リモコンを取り出し、床に押すと、床のタイルが開き、暗い穴が現れた。
「ついてこい」と武一郎は言い、梯子を下りた。
地下通路は3人が降りると薄暗い黄色い灯りが点き、極めて簡素で、ぴったり収まるレンガに囲まれ、3人はしゃがんで進んだ。
5分歩き、行き止まりに着いた。武一郎は上方のレンガにリモコンのボタンを押し、レンガが開き、3人は武一郎の官邸の寝室に着いた。
「二度とこんなことはしたくない」と武一郎は不機嫌に言い、部屋を飛び出した。
ホールに着くと、高官たちが彼を待っていた。彼は冷静になり、議長席に堂々と座った。
「こんな大事になぜ誰も知らせなかった?」と武一郎は厳しく尋ねたが、誰も答えられなかった。
「瀬戸、公安委員会は最初に情報を得るはずだ。なぜすぐ俺に報告しなかった?」と武一郎は由隆を睨んだ。
「報告、総理大臣閣下、ご令嬢を迎えに行くと知り、ご家族の団欒を邪魔したくなかったので、会議を開いて情勢を安定させ、閣下に報告しようと思いました」と由隆は頭を下げて慌てて言った。
「お前の許可なく、全閣僚を集めて国家存亡に関わる会議を開けるのか?」
「申し訳ありません、総理大臣閣下、臣は死罪に値します!閣下の賢明な指導なく決断を下すべきではありませんでした。臣は罰を受けます」と由隆。
「なら、今の状況を報告しろ。罰は後で考える」
「すでに多数の機動隊をデモ現場に動員し、待機中です。閣下の命令があれば即行動します。現場のライブ映像をご覧いただくため、ノートパソコンを用意しました」
由隆は公文包からノートパソコンを取り出し、ライブ映像を大画面に投影し、閣僚全員が見えた。
映像はロシアの報道機関からで、NHKを含む日本の全メディアは放送せず、国内で情報が封鎖されていた。
画面では、郁美が群衆を率いて「金バラまくな、福祉よこせ!」「汚職やめろ、透明性を!」「指導者いらん、公僕を!」と叫び、武一郎は怒りを募らせた。次の映像で演台後方に機動隊が集結しているのを見て、少し安心した。
「瀬戸、実行力があるじゃないか。次にどうする?お前ならどうする?」と武一郎は由隆に尋ねた。
「機動隊に鎮圧を命じます。早ければ早いほど良く、事態の再燃を防ぎます」と由隆。
「いいな、俺と同じ考えだ。なら、鎮圧を命じろ」
「待ってください、総理大臣閣下!外には多くの海外メディアが我々の行動を記録しています。軽率に鎮圧すれば、国際的な面子はどうなるのです?」と善正が慌てて武一郎を止めた。
「確かに問題だ。忌まわしい西側勢力はこれを利用して我々を非難し、制裁するだろう。提案は?」と武一郎。
「ライブ映像では、民衆は閣下と対面を望んでいますが、閣下が出るのは危険すぎます。野党指導者を招いて交渉し、政治対話で平和的に解決できます」と善正。
「却下だ。彼らに少しでも譲歩すれば、つけあがってさらに要求してくる。最後には我々は何も残らない。あいつらは感謝を知らない。政府が幸福な生活をもたらしても、感謝せず我々を倒そうとする。こんな民衆が!俺たちがいなけりゃ、今日の生活があるか?」と武一郎は激怒し、善正はそれ以上話せなかった。
「総理大臣閣下、鎮圧してください。記者も含めて」と由隆。閣僚たちは驚いて彼を見た。
「この10年、西側は我々に圧力をかけても退いてきた。我々は軍備を再編し、米軍を追い出し、東太平洋の覇権を奪った。西側大国は黙認し、祖先の愚かな道に戻ったようだ。彼らの底を試し続け、不満なら戦争で脅せばいい。大和民族の偉大な復興を実現するために、鎮圧し、反抗者と記者を追い出せ。紙の虎の大国がどう反応するか見てみろ」と由隆は続けた。
「お前、頭おかしいのか?民衆の命と国家安全を賭けて西側を試すなんて、テロリストと何が違う?」と善正は立ち上がって怒鳴った。
「弥永、落ち着け」と武一郎。
「申し訳ありません、総理大臣閣下、失礼しました」と善正は座った。
「瀬戸の言う通りだ。外人に我々の弱さを見せるわけにはいかない。鎮圧しろ、反抗者は記者も含めて容赦なく殺せ」と武一郎。
「総理大臣閣下、それは人命です…」
「弥永、言ったろ、反抗者は人じゃない、畜生同然の社会のクズだ。憐れむ必要はない。農場主が豚や牛の命を気にするか?」と武一郎は善正に説いたが、善正はそんな荒唐無稽な論理を、高慢な態度で語るのを信じられなかった。
「瀬戸、命令を下せ」
「はい、総理大臣閣下」
由隆は電話をかけ、「こちら公安委員会委員長。永田町の機動隊に命令:『デモ活動を全面鎮圧、示威者と記者を拘束、反抗者は容赦なく殺せ』」
命令が下されて2分、機動隊は動かず、武一郎は不満だった。
「何だあの連中?跪いて何だ?命令を無視してるのか?」と武一郎はライブ画面を見て激しく尋ねた。
武一郎の問い詰めに、由隆はすぐ電話をかけ、任務を遂行しない警察は反逆罪だと命じた。命令を受け、機動隊は恐れを目に浮かべ、渋々立ち上がり任務を遂行した。
警察がデモ現場に突入し、多くの記者や示威者を虐殺・逮捕し、人々はパニックで逃げた。
しかし、武一郎は警察の行動に大いに不満だった。一部の警察が手を出せず、優柔不断で、野党指導者やメンバーを逮捕する機会を逃したからだ。
「警察も当てにならんな」と武一郎は意味深に言い、隣の由隆は武一郎を見て、彼が何をするか感じ取った。
善正は血生臭い鎮圧の映像に強い嫌悪感を抱き、吐きそうだったが、自分の無力さに自責の念も感じた。
鎮圧後、永田町は荒れ果て、血にまみれた遺体が溢れ、警察は遺体を運ぶ者、崩壊して座り込む者、示威者を連行する者に分かれた。
「お前ら、帰れ。問題は解決した」と武一郎はライブ画面を凝視しながら言った。
閣僚たちは次々と去り、善正は武一郎の背中を見た。かつての革命青年は見知らぬ姿に変わっていた。彼は何か言おうとしたが、結局黙って去った。
武一郎のポケットの電話が鳴り、華奈江からだった。
華奈江:「パパ、大丈夫?官邸の外に暴徒が殺そうとしてたって!」
武一郎:「大丈夫だ。暴
徒は制裁を受け、すべて終わった」
華奈江:「よかった。気をつけてね、心配させないで」
武一郎:「分かった。娘にこんなこと言われるなんて初めてだ。お前も気をつけろ、じゃあな」
ニュース放送:「本日、我が国政府は暴動を鎮圧しました。暴徒は国家安全を脅かし、許されざる罪を犯しました。よって、日本自由解放党を非合法テロ組織に指定します。彼らは長年、群衆を扇動してテロデモを行い、政府を悪意で批判し、分裂を企て、日本社会の安定を崩そうとしました。この組織は根絶されるべきです。
また、ポーランド、チェコ、リトアニア、韓国などが我が国の暴徒鎮圧を誤りと非難し、制裁を課しました。英、仏、独は非難しましたが、制裁は行いませんでした。米国大統領ファビアン・バックラーは我が国への干渉はせず、政府の決定を尊重すると表明しました」
武一郎はテレビを消した。暗い部屋で、前回の賓客がまた武一郎の隣でタバコを吸い、酒を飲んでいたが、武一郎は相変わらず煙草も酒も口にしなかった。
「お前、賭けに勝ったな。あの紙の虎どもは結局何もできない。やっぱり綏靖政策の道に戻ったな」と賓客。
武一郎は黙ってテレビを見つめ、ぼーっとしていた。
「何か悩みでもあるのか?鎮圧成功は喜ばしくないか?」
「警察部隊が気に食わない」
「俺が警察に売った武器の品質が悪いか?改良するよ」
「警察部門の人間は結局、忠誠心が足りない。大局のために人間性を捨てられない」
「そりゃ、殺人にはためらうもんだ」
「いや、俺が求める警察部隊は党国のために、殺人でも目を瞬かせない」
「それじゃ警察じゃない、人間ですらなくなる」
武一郎は少し考え、「ある人物がいる。彼ならそんな部隊を率いられる」と言う。
「そいつに会ってみたいな」と賓客は酒を一気に飲み干した。