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一学伝  作者: さとう
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其の五 人斬り赤穂義士

 宿場の共同井戸の周囲と言えば、女達の世間話やら噂話やらの騒々しさで有名だ。特に、家事が立て込む午前中は顕著で、これが世に言う井戸端会議である。


 しかし、今朝は普段の喧騒も鳴りを潜め、井戸端は実にひっそりとしていた。何かあったのだろうか……? (たらい)にこんもりと洗濯物を積んだお忠は、怪訝そうな顔で面々に挨拶した。


「おはよう。どうしたんだい皆、朝からしんみりして」

 明るい声が、場違いな程明瞭に響いた。


「笹倉さん、土井さん、橋上さん……。昨晩のうちに、三人も斬り殺されたんだよ」

「えっ」と声を上げたお忠は、続く言葉を失った。三人ともよく知る顔馴染みだ。橋上に至っては、昨夜自身の店で元気な姿を見たばかりだった。


「最近出るっていう人斬りの仕業だそうだよ。やだねぇ……本当、怖いよ」

「もう何人目だい? 全く、奉行所は何やってんだか……」

「奉行所の方でも、夜の見回り強化はしているらしいよ。ただ、相手もかなりの手練れだそうで……何でもその人斬り、赤穂義士の生き残りを名乗ってるらしいんだよ」


 心臓が跳ね、冷たい汗がお忠の頬を流れ落ちた。


「あ、赤穂義士……?」

「ああ。どの遺体にも、傍に斬奸状が置かれていたそうだよ。詳しい内容は分からないけど、赤穂義士が註を下す……みたいな事が書かれとったとか……」

「全く、どうして世に名高い赤穂義士が、こんな惨い事するかねぇ。ここには、堀部安兵衛の娘も住んでるってのに」

「ああそうだ、お忠さん、あんた赤穂義士の娘だろう?何か心当たりはないのかい?」


 皆の視線が集まる中、お忠は背筋が凍るような寒気を感じていた。返事をしようにも声が出ない。

――――赤穂浪士の話は、扱いに気ィ付けなきゃならん。

昨夜の一生の言葉が、動悸する胸中で反響していた。


「あるわよねぇ? お忠さん。この人斬り事件は、あんたの嘘が原因なんだから」

 心臓を鷲掴みにされるような言葉を背後から受け、お忠は振り返った。


「お、お水さん……」


 昨夜、自身の店に来ていた若き未亡人が、目の下にくまを作ってこちらを睨み付けていた。


「私、聞いちまったんだよ。あんたと旅の人の会話をさ」


 がこん、と動揺のあまり、お忠は盥を落とした。散らばった洗濯物に土が付く。


「嘘だったんだろう? 赤穂義士の話も、堀部安兵衛の娘だってのも。あんた昨晩、それを旅の人に指摘されて、肯定してたもんな?」


 お水がその話を聞いたのは、皮肉な巡り合わせだった。憔悴していた自身に蕎麦を振る舞い、面白可笑しい話を聞かせてくれたお忠に、彼女は礼が言いたかった。客の帰った店内を探し、風呂場で薪を燃やすお忠を見付けたお水は、彼女に声を掛けようとした。その時、お忠と客との会話を立ち聞きしてしまったのだ。


「ありもしない話をでっちあげて、言いふらしたりするから……本物の赤穂義士が怒って来たんだ!」


 かっ、と目を見開いたお水は、気が触れたように叫び始めた。

「あんたのせいだ! あんたのせいで皆死んだんだ!」


 今にもお忠に飛び掛かりそうなお水を、周りの女達が押さえる。「あ、あ……」と言葉を探すお忠は、やがて周囲からの視線に、敵意が満ちている事に気付いた。


「本当なのかい、お忠さん?」

「あんた、今まで嘘の話で客を集めてたのかい?」


 掛けられる言葉は疑問形だったが、向けられた目はお忠を黒と確信していた。否定も反論もしないのだから、仕方のない事だった。


「わ、私は……」


 ごくりと喉を鳴らし、お忠が何か言おうとした時、お水の金切り声がそれを遮った。

「返せ! 私の修三さんを返せっ!」


 ***


 日が落ちて間もない薄暗い夜、宿場を三人の同心が見回りをしていた。つい先日までの活気が嘘のように、辺りはすっかり静まり返っていた。


「……ったくよォ、人騒がせな野郎がいたもんだぜ」

「この宿場ァ俺の故郷よ。人斬りだか何だか知らねぇが、見付けたらただじゃおかねぇ」


 目立つ事を恐れた店々は提灯を消し、軒並み門戸を閉めている。寂れた宿場に変貌した街道の一角に、大きな柳の木が立っていた。複雑に分岐した枝の下、ある者が立ち止まり、さあさあと葉擦れの音を奏でる様を見上げていた。


 背格好からして男、派手な柄の袴に紺の羽織を着て、被り笠を目深に被っている。加えて、腰には刀を差している。

 報告通りの外見……奴か! 

 表情を硬くした同心達は、腰の刀に手を掛けた。


「貴様、そこで何をしている!」


 同心の一人が声を上げた。被り笠の男に反応はない。両者の距離はおおよそ三丈。かちゃ、と親指で鍔を上げ、刀三寸抜いた同心は、じりじりと詰め寄った。


 両者の距離が一丈を切った時だった。被り笠の男が駿足で駆け寄るや、先頭にいた同心一人に抜刀した。鞘から放たれた左薙は、同心の胸筋を断ち斬り、肋骨の隙間に器用に入り込んで、彼の心臓を裂いた。ごぼっ、と口と胸から景気良く血を吹いた同心は、その場に倒れ込んで痙攣を始めた。


「貴様ァ!」と刀を抜いた別の同心が、被り笠の男に斬り掛かる。構えから唐竹と読んだ被り笠の男は、返す刀で右薙を合わせた。金属同士の鋭い衝突音が宿場に響き、互いの刀が十文字に交わる。


 途端、抗い難い反作用の力が同心の両腕を襲った。斬撃の正面衝突の結果、相手の太刀に弾かれた同心の太刀が、忽ち持ち主に跳ね返ってきたのだ。

 反射的に、握る力を緩めた同心の頭に、刀の峰が深々とめり込んだ。その様は、中途半端に割れた西瓜(すいか)に似ていた。歪な裂け目から、ぼとぼとと赤い中身を溢し、体勢を崩してそれは倒れた。


 一人取り残された同心は、既に及び腰だった。刀を握る手はがちがちと震えている。被り笠の影が落ちた目で、ぎろりと睨み付けられるや、同心は踵を返し逃亡を試みた。しかし、それは今に至っては遅過ぎる選択だった。


 被り笠の男の一太刀が、同心の脹脛(ふくらはぎ)をぱっくりと裂いた。膝裏から下を真っ赤に染めて、彼はうつ伏せに倒れたが、尚も懸命な匍匐(ほふく)を続け、その場から逃れようとした。こうなってしまっては、武士の誇りも糞もない。肥溜めを覗くような目で彼を見下すと、被り笠の男は、その背中に刀を突き立てた。


「戦慄せよ。赤穂の剣は、貴様ら不届き者に必ずや註を下す。逃れる事は(あた)わん。戦慄せよ……」


 ゆっくりと体に侵入する太刀の激痛に、断末魔の呻きを同心が漏らす中、被り笠の男は呪詛のように呟き続けた。

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